6.変わりゆくこと
俺のことを覚えていてくれた。そして、あの紙を捨てずに取っておいてくれて、わざわざ連絡をくれた。
それだけで、舞い上がるほど嬉しかった。
もっと、勇気を出して踏み込んでみればよかった。顔が見える距離で、行動を起こせばよかった。そんな後悔のような気持が胸に沸き起こるが、過ぎてしまったことだ。たらればでは、前に進めない。
『戸井田さんへ
連絡ありがとうございます。俺のこと、覚えていてくれたことが純粋に嬉しいです。
看護師を目指しているんですね。忙しい中、バイトもテキパキとやっていて、すごいなぁと素直に尊敬します。
一生懸命頑張っている姿は、きっと誰かが見ていてくれるものですよ。少なくとも、俺は見ていました。
引っ越した先はのどかな場所です。空気も食べ物も新鮮で美味しいし、職場の人との関係もよくて居心地がいいです。
いただきものの野菜で料理をするくらいには、心の余裕があります。毎日コンビニに通っていた頃からは想像もつかないでしょうけれど、今では料理の腕もなかなか上がってきて楽しいです。
戸井田さんも身体に気をつけて、頑張ってくださいね。
鈴木 一郎』
たっぷり30分かかって返信を書き上げた。何度も読み返して変な文章になってないか、馴れ馴れしくなってないか確認するが、考えすぎてもうよく分からない。
「ま、いっか」
考えても仕方のないことだと割り切って、送信を押した。
ふう、と一息ついてコップの水を飲み干した。
戸井田さんとこうしてプライベートな時間に、コンビニ以外の場所でやり取りをしている自分に驚いた。
それだけじゃない。料理も、人との付き合いも、仕事も、それまでの自分とは違っていて驚きの連続だ。この地へ来て、今まで気づいていなかった自分に出会うことが格段に増えた。
いや、自分が変わったことに気が付けるようになったというべきか。
思い返せば、半年ちょっと前にFORKをダウンロードしたことが全ての始まりだった。そこから、俺という人間がめまぐるしく変わっていった。
心許せる友人を得て、気になる子にアタックし、心をないがしろにして、手に入れた愛も捨てて。日常に潤いが出たと思ったら、腐臭の漂うような面白みのない現実に移り変わり、それが俺自身に大きな影響を与えた。彼女ができたと思ったら、派遣に裏切られ、フラれた挙句、転勤を余儀なくされ、名も知らぬ土地へと住処を移した。
変わり映えしない、味気ない毎日が延々に続いていくと本気で思っていた過去の自分に言いたい。
「俺、変わったよな」
己が一歩動けば、それだけで周りも動く。世界が徐々に塗り替えられて、違う顔や景色を覗かせる。
自分自身を、世界をつまらなくしていたのは自分だったんだ。それが今ではよく分かる。
変わりゆく世界の中で、自分がどうあるべきか、自分がどうしたいのかを考え、選び続けることがどれほど大変で、尊いことかも学んだ。
人生を変える出会いなんて、どこにでも転がっているんだ。
こんな年齢になって気づくなんて恥ずかしいけど、それもまた、鈴木一郎らしいと思える。
「おやすみ」
誰に聞かせるでもなく呟いて電気を消した。
明日の俺に期待して、眠りについた。
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