ラブコメ時空に迷い込んだので負けヒロインを幸せにする
飴細工
ひとりぼっちのジャンル違い
ラブコメ時空に迷い込んだ。
僕がその事実に気づいたのは、中学三年最後の春のことだった。
卒業式を終え友人たちとの別れも一通り済ませ、夕焼け色に染まった廊下を一人歩く。
三年間通い詰めた母校への想い。
何気なく過ごしてきたこれまでを、一つ一つゆっくりと噛み締めるようにして、胸の中で思い起こす。
窓から見えるグラウンドだとか、廊下に残った染みなんかを見て、「ああ……あったなぁ、こんなことも」と懐かしさに頬を緩ませていた。
──別に、何の変哲もないよくある回顧だ。誰だってするし、大人になればきっと、誰しも過去を振り返ることが自然と多くなるに違いない。
我ながらセンチメンタルなきらいがありすぎるな、と自覚もしていたが、だからといって個人的な感傷をどうにかできる訳もない。それが自分の感情ならなおさら。
とはいえ、僕という一個人にとってはもちろんのこと、世間一般的な認識に措いても、中学卒業というのは感情を揺さぶられるに足る十分なターニングポイントだろう。
僕が他人よりもいささか感じやすいタチというだけで、これは別に大なり小なり誰しもにある経験のはずだ。
だから、そこまではどうでもいい。
大事なのは、その後。
「わたし、君のことがずっと好きだったんだ」
「うん……うん」
「あはは。でも、君は私じゃなくて、あの子が好きなんだよね? うん、つらいけど──いいよ。行ってこいバカっ」
「──ありがとう。行ってくる!」
「……あは。ほんとうのバカは、わたしの方じゃんね」
それは一つの教室で広がっていたエンディング。
少年と少女が繰り広げる甘酸っぱくもほろ苦い青春の一枚絵。
(う、うわぁ……すごいの見ちゃったな)
まるで恋愛ものの映画かドラマのクライマックスかのようなワンシーンに、僕が度肝を抜かれて興奮してしまったのは仕方がないことだろう。
なにせ、フィクションの世界にしかないような出来事が、突如として目の前で巻き起こったのだ。
たまたま垣間見てしまっただけとはいえ、聞こえてきた会話は十分にこちらの注意を惹きつけるものだったし、他人の『恋愛』をこうもダイレクトに覗き見れる機会なんてそうそうない。
もちろん、プライバシーの侵害だとか野次馬的なゲスさだとか、そういう類の罪悪感が僕の胸中に沸き上がらなかった訳ではない。
しかし、敢えて言わせてもらうならば、このとき僕はただ廊下を歩いていただけだ。
教室のドアを開けたままにし、人気の少なくなった校舎で声が響くのも気にせず、あろうことに恥ずかしげもなく青春に耽っていたのは彼らの方である。
卒業式も終わり疾うに暮れなずむ茜色の時間帯だったとはいえ、僕のように独りセンチな気分に浸っている生徒が完全にいなくなった訳ではなかった。校内には未だ、人の気配がたしかに散在していた。
したがって、故意に覗き見た訳でもないのだから、この場合僕の方に何かを責められるような謂れはないと言えるだろう。正当化はここに完了する。
……まぁ、といっても。
如何に自身を正当化できたといえ、やはり、そのまま立ち止まって不躾な視線を送り続けていれば、件の少女に見咎められるのは必至。
このときの僕に『卒業式後の校舎を独り見て回る』という青春の形があったように、彼女にも『夕暮れ色の教室で独り失恋と向き合う』という青春の形があるはずだった。
それぞれの青春に対して互いに部外者である者同士。余計なさざなみを立てるのは、向こうもこちらも望むことではないだろう。
なので、僕はたったいまここを通りがかりましたよという素知らぬ顔をして、実に白々しくその教室の横を通り過ぎたのだった。
ちなみに、少年の方はそんな僕なんかに目もくれず(すぐ横を通り過ぎていったというのに)、ドラマだったら一気に主題歌が流れ出す感じでどこかへと駆けて行った。きっと本命の子の下へ向かったのだろう。
(いやぁ、すごい。にしてもまさか、こんなことってホントにあるんだなぁ)
そうしてしばし歩き、完全に互いの青春圏域を抜け出したところで、僕はうっはー! と興奮を全身に行き渡らせた。
先程まであったはずのセンチな気分もなんのその。
既に母校への想い入れはどこかへと吹き飛び、僕はこのとき他人のリアルな恋愛模様を垣間見たことで興奮頻りだった。
残された教室で、あの少女はいったい今ごろどうしているだろう。やはり、堪え切れずに泣いているのだろうか。チラッとしか顔は見れなかったが、けっこうかわいい感じの女の子だった。あんな子をフるなんて、あの野郎はいったいどこの
──などなど、まるでというかまんま作品を楽しむ視聴者気分で、僕は廊下を歩き進めていた。もう薄汚い染みなんか目に入らない。
だが、ここまでなら別段どうということもない。単に物珍しい体験をしたというだけで、しばらくすればいつも通りの日常が再び始まる。
卒業式も所詮は三日もすれば遠い過去だ。
人間はいつだって今日を生きるのに忙しい。それは子どもだろうと大人だろうと関係ない。みんな同じだ。
だから、本来であれば僕のこの体験も、何らかの拍子で想い出して話題の種にこそすれ、決して延々と記憶し続けるような特筆すべき何かが起こるものではなかったはずだった。
──だが。
「ごめっ、ごめんね? やだな、泣かないって……決めてたのに……!」
それは思わず目を疑う、到底不可避の
「うれしくて。わたし、ずっとこんな日が来ることを待ってた」
「ああ、俺もだ!」
一つ目の教室から二つ離れた別の教室。
「どうして……!? ねぇ、どうして私じゃダメなの?」
「お前を傷つけたくない。だけど、やっぱり自分の気持ちに嘘はつけない」
階段の踊り場。
「月が綺麗だね」
「ふふっ、死んでもいいって言わせたい?」
静謐な図書室。
「好きだ。君が恋しい。愛しさで胸が詰まる」
「そっ、そんな……は、恥ずかしいよぉ……!」
校舎裏の中庭。
他にも、旧校舎の裏口。グラウンドの真ん中。体育館のステージ。
言わずと知れたらしいスポットではもちろん、右を見ても左を見てもあっちに愁嘆場、こっちに修羅場。
どこもかしこもロマンスが弾け飛び、ラブストーリーが大団円を迎え、ありとあらゆる視界の端で色とりどり種々様々な男女の熱いドラマが繰り広げられていた。
その数、もはや指折り数えるのも馬鹿々々しくなるほどのシュガー&ビター。
「──は? ってか、は?」
僕が混乱し、マヌケにも阿保面を晒してしまったのは言うまでもないことだろう。
数歩歩けば必ず出くわすフィクションのような場面の数々。
たとえ卒業式の日で、人間誰しも大なり小なり盛り上がってしまうそんな仕方のない日だったとしても。
ちょっとその辺を歩いただけで愛の告白や悲痛に泣き崩れる声に姿。そんなものがごまんと目に入ってくるのは、どう考えても普通じゃない。常軌を逸している。
仮に、そう。
僕がたまたま、人類史上かつて類を見ない天文学的な確率で当たりを引いて、偶然にも他人の恋愛を連続で垣間見る機会に恵まれた。
これが単にそういう話に過ぎないとして──なんだそれ。意味が分からない。
まるで、世界が突如として恋愛小説(それも異なるタイトルが同時空に存在する)になったかのような……だけど、そんなことが現実に有り得るはずがないし。
だいたい、真面目に考えるなら、目の前の現実はほんの少し前までいたって普通だった訳で。
SFよろしく並行世界に遷移した感覚も無ければ、異世界に召喚されるといった荒唐無稽も起きていない。
時間軸も空間も、そのまま地続きだ。
なのに、僕の周囲でだけ(?)有り得ないくらいのスイ~ツが現実化している。一応疑ったが、ドッキリの気配はない。
しかし、認められるだろうか? こんなことが。
僕は限界になって、ちょうど近くにいた泣きじゃくる女の子に対し、言った。
「なあっ、そこの君!」
「ひっぐ、ひっぐ──え?」
「嘘なんだろ? どこの誰の企画かは知らないけどさ、その涙もどうせ演技なんだろっ? もういい。十分にこっちは狼狽えたからさ、そろそろ終わりにしてってみんなに言ってくれよ!」
「──は?」
真剣に訴える僕。
泣いていた女の子ははじめポカンとし、そして数秒もせぬ内に怒り顔となった。
バシッ!! という音。
それが自分の右頬に訪れた衝撃だと気づいたときには、既に女の子はこちらをキッと睨みつけるのも止めてただ一言。
「最低」
後にはただ茫然と立ち尽くす僕がひとり。
女の子にはじめて平手打ちを喰らったこと。女の子をはじめて本気で怒らせたこと。そのどれもが未体験の衝撃で、それから一分は経った後でようやく僕は自分がほんとうに最低なことをしたのだと理解した。
ジンジンと痛む右頬。
熱を持ちゆっくりと腫れていくそこは、すなわちこれが
だって、夢ならば痛いはずがない。
後悔はいつも遅ればせながらやってくる。
「…………」
理解を超えた現象に蟀谷に響く頭痛。
もはや当初のセンチメンタル云々などと言っていられる状況ではなく、下手をすれば自身の正気を疑わざるを得ない光景を怒涛のように目の当たりにしてしまったことで、僕はその日、黙ったまま家へと帰った。
そしてそのまま自室へと籠る。
母親や妹の怪訝そうな眼差しも今日だけはと振り払った。
……別に、世界がおかしくなったとか、そういうことを気に病んだ訳じゃない。
たしかに、突如として自分の身に襲い掛かった嘘のような現実に対し、これはいったいどういうことなんだとか疑問はある。
だって当然だ。普通に意味不明だし、もしもこれがフィクション世界に迷い込んだということなら、それが小説なのか漫画なのかは置いておくとして、ジャンルは間違いなく恋愛だろう。もしくはラブコメ。
そりゃ常識的に考えて、最も現実とのシンクロ率が高いジャンルはなんだと聞かれれば、恋愛あるいは歴史と答えざるを得ないのが大凡
僕は普通の人間だ。小市民だ。混乱も疑問も拒絶も嘆きも、それなりにある。
でも、恋愛だったら別に、命の危険がある訳じゃない。ファンタジーとかミステリならもういっそ絶望ものだったが、恋愛なら比較的に安全だ。最終的に悲恋でも、事故死や病死がほとんど。リアルの範囲を超えてこない。普通の不幸。普通の悲劇。
それに、世界観そのものがまるっと別物になったという訳でもなく(あくまで僕の観測下に限ってだが)、元々の世界そのすべてがキレイさっぱり無くなったという訳でもなさそうだった。なにしろ実家がある。家族がいる。顔ぶれの変化は一切ない。
だから、その点に関してはまだ素直に首を縦に振ることができる。
僕が愚かにも傷つけてしまった女の子にしたって──傷つけた張本人が言うのもなんだが──失恋の悲しみより僕への怒りに支配された方が、早々に立ち直れるだろう。
クズ野郎の思考で申し訳ないが、あのときは僕だって切羽詰まっていたんだ。いや、それを言うなら今だって切羽詰まってる。機会があれば謝るから許して欲しい。
──ゆえに。
僕がどうしようもなく我慢ならず、認められず、神様どうか嘘だと言ってくれと自室のベッドでしくしく内に閉じこもったその理由はまさに別のところにあった。
……ああ、そうとも。だってこんなの、簡単に許せるはずがないじゃないか。
「どうして……っ、どうして僕には誰一人として告白の一つもしてこなかったんだ……っ!!」
溢れる涙は真実悲しみに満ちている。
母校への想いから独り学校の敷地内を歩き回っていた僕。センチにニヒルに陶然と、これが青春だぜと酔い痴れていたのが恥ずかしい。鏡を見たら、間違いなく恥ずかしさの余りに右頬だけでなく顔全体が真っ赤に染まっていることが分かるだろう。それほどに恥ずかしい。
周囲はどこもかしこも誰も彼も、皆が青春の代名詞に耽っていたというのに。
僕だけが、何故か場違いにもそんなシーンで独りきりだった。ドラマのエキストラだってもうちょっと気を利かす。カメラマンだってここぞという佳境で邪魔なモブなんて映さない。それは十分に分かっている。
だけど、だからこそ哀しいじゃないか。重くて苦しくて辛くて堪らない。
──もしも。もしもこの世界がほんとうに、
そんな世界で、異性とさして関わりのない人間はどうなる? ゴミか?
最悪、脇役どころかモブにさえなれない運命なのは間違いない。
「うっ、ぅぅう……いやだぁ、僕も女の子とイチャコラしたいぃ……」
もちろん、それが見当違いの甚だ図々しい願いだというのは分かっている。
なにしろ僕は、これまで女の子よりも同性の友達とばかり遊ぶことをよしとしてきた。思春期になって小学校低学年のときのような無垢な態度を取れなくなり、クラスの女子と話そうとしても無性に気恥ずかしくて、ついそういう人間関係を構築するのを避けてきてしまったからだ。
胸の中には「大丈夫。いつかそのうち僕にも恋人ができる。今じゃないだけだ」という根拠のない自信。それと浅はかな現実逃避。
その結果、中二病もあわさって『夕暮れ時の母校に最後の別れを告げる自分チョーカッコイイ=告白してくる女子も来るのでは?』……という見るも無惨、聞くも哀れなモンスターが誕生した。穴があったら入りたい。
──ああ、そうさ。この現代社会に、いったい誰が好き好んで卒業式後の校舎を独りうろつくというのか? バカかよ死ねよ。卒業証書より女の子からの好意が欲しいんだよこっちは!
偽りでもいい。幻想でも構わない。一時の夢でもいいから、嘘でも女子から声をかけられたかった。
それさえあれば、このみじめったらしい中学三年間にも意味はあったなと、細やかな満足を抱えて僕は次なる青春のステージ……すなわち高校生活へと足を踏み入ることができただろう。まぁ、結果はこの通り惨敗も惨敗なのだが。
しかも、その上よくわからないラブコメ汚染まで来た……ククっ。
これが笑わずにいられるだろうか。
僕の繊細なハートに走った幾条もの罅は、きっと降りしきる雷雨の如く過剰なものになっているだろう。分かりやすく言えば致命傷だ。心は硝子。幾たびの戦場を超えて不敗とはそうそうならない。
よって、僕の心はいたく傷ついていた。
恋愛が主軸となる世界で、それと縁のない人間の心境を考えたことある?
対岸の火事という慣用句は、自分とはまったく関係の無いことを意味するザ・他人事を指して使われる言葉だけど、もしもこれがほんとうに現実として起こり得る出来事だったら、よく考えて欲しい。すぐそこで火事が起きているんだぞ? 消防車を呼ぶなりなんなりするべきことがあるだろう。他人事ぶってる場合じゃない。
つまり、要は何が言いたいかというと、恋愛したい。彼女ほしい。僕も恋という炎でアッツアッツに燃え上がりたい。それだけだ。
なら自分から行動すればいいじゃんって?
そんなことは言われるまでもなく分かってる。
けど、前の席の女子からプリントを渡されるときでさえ、下手をうてばキョドってしまう男の子に、それは余りにもハードルが高いというものだ。ナンセンスだよ。僕の異性に対する免疫の無さを舐めないでもらいたい。
いいじゃないか。厚顔無恥でもみっともないゲスな欲望でも、女の子から無条件に好意を持たれたら、男なら嬉しいし期待だってする。もしかしてこの子……と、下心を忍ばせもするさ。わざわざ忍ばせてるからこそ下心なんだ。
だというのに、世界はこうも青少年の心を無遠慮にチクチクする。ひどい。ゆるせない。僕は泣いた。
──しかし、いくら泣こうが喚こうが、一度迷い込んだら簡単に脱出できないのがこれまたお約束というもので。
それから数日後。
つまりは高校入学式当日。
一晩経ったら夢でしたという甘い展開などあるはずもなく。
鬱屈とした春休みもとうとう終わり、これからは毎日のように他人の青春ラブコメ(それも学園モノ)を拝まなきゃいけないという、僕にとっては拷問にも等しい地獄の日々が待ち構える青春劇場の幕がついに上がった。
澄み渡る青い空。燦燦と降り注ぐ陽光。桜並木は爛漫と新入生を迎え、卸したての制服に身を包む同級生たちは皆がキラキラと瞳を輝かせていた。どいつもこいつも、実にアオハルだのコイナツだのといったカタカナ四文字が似合いそうだった。
そんな中、やはりというか運命というべきか、周囲がキラキラと輝く中で、僕だけがどんよりと陰鬱な雰囲気を放っていた。
足取りは重く、眼つきは死んでいる。気分はさながら屠殺を控えた豚か牛といったところ。……いや、この場合い正確には生者を羨む亡者と評した方がよほど適切かもしれない。
なぜなら、ラブコメ時空に犯され抜いたこの世界で、恐らく僕だけが青春の敗北者だからだ。
恋愛ゾンビ。青春アンデッド。即興で思いついた造語だが、まさに僕以上にその名に相応しい人間はいないと言える。おっと、これは別に古傷(中二病)が疼いてきた訳ではありませんのことよ?
──なんて、そんな風になんとも後ろ向きな感じでクツクツ肩を震わせながら、僕は新天地。すなわちはこれから推定で三年間は足を運ぶ地獄の学び舎へと足を踏み入れるのだった。
そして──
「げ」
「あ」
僕はその日、隣の席になったかつての
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