お引越し

陽野 静舟

問編

第一話

 私の彼氏は、有り体に言えばビビりだった。


 幽霊、妖怪、魑魅魍魎……所謂オカルトの類は滅法の苦手で、有物論者の私はそんな彼をからかっては、リアクションを見て楽しんでいた。


 仕事帰り、自宅からの最寄り駅に電車が到着すると、人が蜘蛛の子を散らすように雪崩出た。幾ら注意していても、この波に飲まれては躓き転びそうになる。交通の便が良いのも考えものだ。


 無事、改札を抜けた所で携帯電話の画面を確認するも、彼からの返事は無かった。「夕飯どうしようか」と連絡を入れておいたのだが、この様子だと仕事が立て込んでいるのかもしれない。今晩は私が手によりをかけた御馳走を振る舞い、彼を労ってやろう。


 もう暦では春になったとはいえ、まだ日が沈むと余寒が漂う。手に息を吹きかけて擦り、信号が青に変わるのを待った。


 道すがらスーパーで買い物を済ませ、両手に膨らんだビニール袋を下げて居を構えるマンションへ向かった。我ながら張り切り過ぎたと思う。


 彼と同居している部屋は最上階に位置する四階の端にあるが、このマンションにエレベーターは備え付けられていない。だからなのか、土地柄に比べて家賃は相場よりも割安だった。引っ越してきてまだ一ヶ月も経っていない新居に不満は無いが、疲労が溜まっていたり、まとまった荷物を運ぶ際にはどうしても、お金に目を眩ませたことを僅かばかりか後悔してしまう。


 仕事疲れの身体で駅から部屋まで徒歩移動、オマケに両手には手頃な重さのダンベル……。運悪く、狭い階段で他の住民とすれ違った時は、恥ずかしくて顔が熱くなった。





 手をひねると、ドアに刺した鍵は勢い良く回った。どうやら予想通り、彼はまだ帰っていないらしい。扉を開けると部屋の中は真暗闇だ。


 取り敢えず荷物を置こうと、玄関の明かりを点け、施錠後、廊下を渡って居間へ向かった。


 ――途中、何かに両足首を掴まれた。


 両手が塞がっていた私は派手に前へ飛び倒れた。幸い、廊下と居間を隔てるドアは開きっ放しになっていたので、扉にぶつかることは無かったが、フローリングの床に受け身を取れず顔前から落ちた。床に買った食材やらがそこかしこに散乱した。


 酷く激痛が走る。足首に掴まれた感触はもう消えていた。顔を抑え、すぐに立ち上がろうとするも、恐怖で身体が思うように動かない。情けなく震えながら、それでも振り返ろうと体勢を起こしていると、背面からうるさく足音が鳴り響き、何者かがこちらに駆けて来るのがわかった。私が小さく呻く間に、今度は両肩を強く握られ、後ろに引かれる。


「ごめん!! 大丈夫!?」





「信じらんない。呆れた」

「ほんっとごめん」


 夕食を囲みながら、彼から事情を改めて聞きただした。もちろん、料理を作ったのは誰だったのかは言うまでもない。


 どうやら、彼は仕事が思い掛けずに早く終わり、自宅近くで届いた私からのメッセージを見た時に、この計画を思いついたらしい。


 連絡は無視して手が離せないように思わせ、自分は急いで部屋へ帰り、着替えや脱いだ靴を隠すなどの準備を済ませる。廊下途中の右脇にある洗面所にうつ伏せで身を潜め、私が何も気にせず歩いた所を……という算段だ。


「普段からかわれてさ、ちょっと悔しくって。でも、まさかこんなことになるなんて……」


 そう言われると、私にも非があるように思えて、バツが悪い。鼻血は止まったし、今回は許してやろう。


 彼は少しでも雰囲気を明るくしようと、苦笑いをしながら話を続けた。


「でもさ、大変だったんだよ。思いの外、歩くスピードが早くてタイミングが難しかったり、足首まで距離があったり」

「こらこら、愚の所業を得意気に語るな」


 彼を横目にサラダをお皿によそう。


「寝そべっていても、流石に正面だと気付かれるかも知れないからね。洗面所の左壁際の少し窪んだ所に隠れていて――」


 箸で挟んだミニトマトを私は落としてしまった。


 違和感が拭えない。汗が毛穴から吹き出るのがわかった。背中にシャツが張り付き、気持ち悪い。


「――体を軽く捻ってやっと掴んだんだよ。それで、すごい音がしたからもう、焦って焦って。それで……」


 もう、その日、彼からの話は頭に入って来なかった。


 彼にすぐに胸の不安を打ち明けたかったが、口にしてしまえば、に気付いたと知られてしまうのではないか、と躊躇ためらわれた。無意識に両手に強く拳を作っていた。開くと爪の刺さった跡が深く残り、薄っすらと血が滲んでいた。


 ベットの中、彼の背中を見つめる。


 ここの部屋は本当に、マンションの構造上の問題で割安だったのか?


 何か違う理由が他にあったのでは無いだろうか?


 しかし、不動産仲介業者の担当はそんなこと一言も触れて無かった。この御時世、告知義務違反のリスクを犯してまで入居させるだろうか? ある程度築年数が経っているとはいえ、確か、この部屋以外だと一部屋が空いているだけで、他二十ニ室は埋まっていたはずだ。家賃収入でオーナーが困っているということは無いだろう。


 嫌な考えが脳裏を巡り、反芻する。


 深夜の静謐せいひつさが、かえって私にあの掴まれた足の感覚を想起させてくる。


 隣で眠る彼の服の袖を、私は力なく摘んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る