短編集:マイトの思い出(3) 完

「「……」」

 しばし黙って見詰め合う2人。そして、ミサヤが口を開いた。

「先ほど、ユイトから聞きました。マヒコはマイトの義理の弟であり、マヒコの実母とユイトやトウジが交わした約束によって、成長したらマイトとつがうのだと……」

「つがう?」

 初めて聞く言葉に、首を傾げる命絃。その命絃へ、ミサヤが簡潔に説明する。

「人間が言う、結婚や結婚相手のことです。マイトは、マヒコのつがいでしょう?」

 ミサヤの発言に目を丸くした命絃だったが、同時にしてやったりとも思っていた。

 命絃の持つ切り札こそ、命彦が3歳頃に、祖父母の刀士や結絃が命彦の生みの母親と相談して決めたと言う、この婚約であった。

 勿論、結婚の約束である婚約について、9歳の命絃が知っている知識は限定的である。

 しかしその約束が、命彦を自分のモノだと言える、一生命彦と一緒にいられるという、絶対的優位性を持つということは、祖母の結絃から繰り返し教わっていた。

「そうよ、私はまーちゃんの……えーとツガイだったっけ? それよ! だから、まーちゃんは私のモノよ!」

「そうですか……ということは、私も少々配慮に欠けていましたね、謝ります。すみません」

 命絃の前に座っていたミサヤが、突然態度を改めて深々と頭を下げた。呆気にとられる命絃。

「へっ、ちょっと……」

「魔獣である私は、人としてマヒコと結ばれることができません。たとえ人化しても、本性が魔獣である以上は、私は命彦の人間としての、第1の番たりえぬ者。人はまず、人と番うべきです。第1の番が別種であることは、マヒコにとって不幸でしょう。そして……すでに人たる番、第1の番がいるのであれば、その者にまずは礼を尽くすべきです。群れとはそうあるものですからね」

「はい? む、群れ?」

「第1の番の立場は譲ります。私は第2の番でいい。それで十分です。それが言いたかったのです」

 魔獣の生態について知っていれば、この時ミサヤが言っていることが、天魔種魔獣《魔狼》の群れの原理、優れた雄が複数の雌を囲う時の、雌同士の間の順位付けだと分かるのだが、当時の命絃にはサッパリだった。

 しかし、ミサヤの言ってることを、9歳にしては意外に切れる頭で都合よく解釈し、命絃は言う。

「むー……要するに、1番は私だと認めるってこと?」

「ええ。その上で、私が2番だと認めてください。世話役だと認めてください」

 にっこりと笑うミサヤに警戒心を抱く命絃。しかし、ミサヤの言葉が耳に心地良かったのも事実である。

 心地良い言葉に油断して、深く思考することを止め、命絃は問うた。

「1番が私だってことは、私がまーちゃんの世話をしたい時は……」

「一緒にお世話をしましょう。マイトがマヒコの傍を離れた時だけ、私がマヒコの世話を全面的に行い、普段は一緒に世話をする。どうですか?」

 ミサヤが一方的に、しかも随分簡単に譲歩したのは、魔獣としての種族的習性がそうさせただけだったが、そういうことを全く知らぬ命絃は、ミサヤが負けを認め、自分の顔を立てたと判断し、上機嫌だった。

「ふふん……いいわ! 私が1番だって言うんだったら、世話役として認めてあげる」

「そうですか、良かった。それでは、先ほどの態度をマヒコに2人で謝りに行きましょう」

「そうね。まーちゃんはもうお風呂から上がったの?」

「ええ。ついさっき上がりました。今は1階の居間にいます」

「そう。じゃあ、怖がらせたことを謝りに行きましょ」

 そう言って、上機嫌の命絃はミサヤと後ろに引き連れ、一緒に居間へ戻った。


 居間に戻ると、ホカホカと湯気を立てた寝間着の甚平姿の命彦が、同じく甚平姿の刀士と一緒に、冷えた飲料水を飲んでいた。

「あ、おねえちゃん! ミサヤ!」

 命彦が命絃に抱き付き、その後にミサヤへも抱き付く。石鹸の匂いと、ホカホカした体温が心地よかった。

「ミサヤ、話は終わったんか?」

「ええ。世話役として、第2の番として、認めてもらいましたよ?」

「……っ! ホンマか命絃?」

 驚きの表情を浮かべる結絃。結絃と顔を見合わせた魅絃が、確認するようにミサヤへ問うた。

「ミサヤちゃん、番の説明はしたの?」

「ええ。人類で言う結婚のことだと、きちんと話しました」

「それを聞いた上で、命絃もホンマにええんか?」

「ええ。ツガイでしょ、知ってるわよ! 第1のツガイが私で、第2のツガイがミサヤでしょ? 私の方がエライってミサヤは認めたもの」

「そういう意味で捉えたんかい。まあ、言うても9歳児と世間知らずの魔獣の会話やし、仕方あらへんね」

「多分、2人の話は焦点がズレてるでしょうねえ?」

 結絃と魅絃がやれやれと苦笑して言う。

「「……?」」

 命絃とミサヤが、2人揃って首を傾げた。実は2人自身が、行き違いがあることに気付かずにいたのである。

 結絃が命絃へ穏やかに語った。

「命絃、番っちゅうのは、結婚することや結婚相手自身のことを言うねんで?」

「知ってるわ」

「ちゅうことはや。第1の番ってのは、第1の結婚相手のことやと分かるやろ?」

「ええ。……あれ? ってことは、もしかして第2の番って」

「2番目の結婚相手、つまりこの場合、命彦のお嫁さんその2のこっちゃね? あんた、ミサヤが2人目の命彦のお嫁さんて、自分で認めたいうこっちゃ」

「ほああぁぁーっ? ええっ! あれってそういう意味だったの?」

「ええ。そういう意味ですが?」

 命絃に問われたミサヤが、何を今更という感じで、きょとんとして答える。

 9歳の命絃は、頭を抱えて悔しそうに床を転げ回った。

「み、ミサヤぁあーっ! 騙したわねぇーっ!」

「どういうことです? 私はきちんと説明しましたが?」

 ミサヤとしては、当然騙す意図は皆無である。ただ、両者の間に意思疎通の齟齬そごがあっただけであった。それが、命絃にとっては致命的だったが。

 くすくす笑って結絃が言う。

「ミサヤに当たり散らすんは筋違いや。あんた話を適当に解釈して、自分に都合のええように考えたんやろ?」

「話は最後まで聞いて、おかしいと思ったら、きちんと問い返せって、母さんいつも言ってた筈よね?」

「どれだけしっかりしとるように見えても、所詮子どもは子どもじゃの。とはいえ、ミサヤを認めたことは事実じゃ。魂斬家としても、血筋を守る意味ではこの方が都合が良い。魔獣相手でも、人化すれば子はできる。それもより魔力に秀でた子がのう? よう認めてくれたもんじゃて。いやー良かった良かった」

 母の魅絃が失望するように肩を落とし、祖父の刀士は楽しそうに笑っていた。

 祖母の結絃が、後悔している命絃に問う。

「どうすんねん? ミサヤを命彦の2人目の嫁さんって、認めるんか? 一度約束しといて認めへんねんやったら、あんたはミサヤにデカい貸しを作るで? その場合、世話役はミサヤに全部任せるべきやろね」

「ふむ? 何か行き違いがあったようですが、まあ子どもの言うことと思って、こちらも許すことはやぶさかではありません。但し、一度言った言葉に責任は持っていただきたいですね? 私にとっては、この家にいれるかどうかが、かかっているわけですから……」

「くぅー……っ! 分かったわよ! 世話役に認めてあげる。だからツガイの話は記憶から消して!」

「いいでしょう。改めて、よろしくお願いしますねマイト?」

「くぬぬぬっ! 上から目線で……あんたにだけは絶対に勝つもん! まーちゃんは、私のモノだからね!」

 ミサヤにビシリと指差して言う命絃。その命絃をサクッと無視して、ミサヤは命彦を手招きした。

「はいはい、勝てればいいですね? さあ、マヒコこちらへ。髪がまだ濡れていますよ。きちんと乾かしませんと、風邪を引いてしまいます」

「はーい、ありがとうミサヤ!」

 床に座り、命彦を自分の膝の上に乗せて、魔法で髪を乾かし始めるミサヤ。

 気持ち良さそうにホエーっと顔を緩ませる命彦を見て、命絃がミサヤを見ると、勝ち誇るようにミサヤが笑っていた。

 命絃の心が激しく沸騰する。

 いつも傍にあったモノが、奪われかけた時、失われかけた時に、人はそのモノの価値を再確認すると言う。

 命彦への執着が、命絃の魂に刻まれたのは、まさにこの時であった。

「まーちゃんはぁぁー……私のって、言ってるでしょっ!」

 小さい拳をプルプル震わせて、9歳の命絃が怒りのままにミサヤへ飛びかかるが、ミサヤに触れる寸前で、結界魔法が出現し、命絃の突撃を阻む。

「ぶべっ! くうぅーっ!」

 顔面を、硝子板のように透明に澄んだ風の魔法防壁に激しくぶつけて、痛みで床を転げ回る命絃。

 その命絃の傍に、気持ち良さそうに緩んでいた命彦が慌てて駆け寄って、心配そうに問うた。

「おねえちゃん、おかおいたいの? まほういる?」

「ふえーん、まーちゃん、いたいよぉー!」

 命絃がここぞとばかりに命彦を抱き締め、顔を真っ赤にしたまま、にやりとミサヤに笑みを返す。

 それを見て、ミサヤがカチンと来てしまったのか、笑顔を作ったまま額に青筋を浮かべた。

「世話役は私だと認めた筈ですが……いいでしょう。受けて立ちますよ、マイト?」

 こうして、魔獣と少女の女の戦いが幕開け、命彦はそれに振り回される生活が始まるのである。


 9歳の頃の思い出から、意識を今の命彦へと戻した命絃。

 眠っている命彦を観察していると、布団がもぞりと動き、子犬姿のミサヤが顔を出した。

『起きていたのですか、マイト?』

「ええ。命彦の寝顔を見てたのよ」

 魔法の思念で語るミサヤに、短く言葉を返す命絃。

 互いに牽制し合うように見詰め合い、しばし沈黙してから、ミサヤが思念を放った。

『……そうですか』

 ミサヤも、お座りした状態で命彦の寝顔を見入る。

 その様子を見て、心のざわつきを覚えるが、昔よりはざわつきの度合が小さいことに、命絃は気付いていた。

「……子どもの時はあれだけ敵だと思ってたのに、今では私も、随分あんたのことを認めちゃったわね」

『はあ? 急にどうしたのですか? 全く話が見えませんが?』

 突然の命絃の言葉に戸惑うミサヤ。

 不思議そうに首を傾げる好敵手を見て、命絃は目を逸らして返した。

「こっちの話よ、独り言だと思って忘れて」

『……? まあ構いませんが』

 今でも負けられぬ相手ではあるが、同時に命彦を守る意味では、最も信頼できる戦友でもあるミサヤ。

 好敵手でもあり、戦友でもある魔獣を見て、かつて少女だった美女は、ふっと淡く笑った。

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