桃源郷の夢
有笛亭
第1話 1
都会の雑踏の中で暮らしていると、人のいない長閑な田舎でのんびり暮らしてみたいと思うことがある。
正直言って、私は疲れた。私は四十にもなって独身で、うだつの上がらないサラリーマンである。
このまま市井の片隅で、名もなく貧しくこの世を去って行くのかと思うと、たまらなく侘しい気持ちになる。
考えてみれば、世間の誰もこの私のことを知らない。毎日、満員電車に乗って通勤しているというのに、誰も私を注目したりしないのだ。
職場の人間ですら、私に話しかけようとしない。それはもうずっと前からだ。
それで分かるように、私は会社にとって、お荷物なのだ。とくに仕事ができるわけではないから、いつ辞めても会社は困らない。おまけに私は陰気臭い。そのためか、ここ何年も飲み会に誘われたことがない。私がいると場がしらけるらしい。
おそらく会社の人たちは、私はもうじき辞める人間だから、付き合う必要はないと考えているのだろう。
私も彼らの要望に応えたいと以前から思いながら、生活のためなかなか辞めることができずにいた。
そんなある日、私の部屋の郵便受けに珍しく手紙が入っていた。ダイレクトメールはたまに入っていることがあるが、今回は普通の封筒だった。しかし、差出人の名前も切手もなく、それでいて私の名前はちゃんと書いていた。ということは、誰かがある意図をもって、わざわざ私の部屋の郵便受けに届けに来たことになる。
私は手紙が来るのは一向にかまわない。だが、匿名で、しかも郵便受けに直接投函したとなると、ちょっと不審に思わざるを得なかった。気味が悪かった。しかし、便箋の方に名前が書いているのかもしれないと、私は気を取り直して、封を切った。
時候の挨拶があり、それから本文となっていたが、名前はどこにも書いていなかった。ただ、心のオアシスと何度も書いていた。会社名か何か分からないが、ここがこの手紙を送って来たようである。
要旨は、桃源郷への誘いである。
桃源郷の字を見ただけで、私は胡散臭く感じた。この世知辛い時代に、桃源郷などあるわけがない。あればみんなそこに行っているだろう。というのが私の持論だからだ。
しかしその一方で、桃源郷を渇望していたことも事実である。
ほんのちょっぴり騙されてみるのも楽しいかも、と思ったのは、無料と書いてあったからだ。
説明会が随時行われているようで、電話連絡の上、説明会場へ行くシステムだった。
私はしがないサラリーマンの独り身だから、将来に何か期待できるものがあるわけではなかった。殺風景な人生ならば、一度くらい夢を見てもいいだろう。
桃源郷がパラダイスのようなところであれば、一生そこで暮らしてもいいとさえ私は考えた。
私は手紙にあった電話番号に電話したのだ。
「はい。こちらは心のオアシスでございます」
と若い女性の声だった。
一瞬、これはクラブか何かの勧誘ではないかと、私は疑った。手紙にも、素敵な時を過ごしましょう、と書いてあった。しかし、無料としてあったのだ。商売なら、間違っても無料とは書かないだろう。そんなことをすれば詐欺罪になる。
「桃源郷という言葉に惹かれて電話したのですが」
と私は言った。
「はい。こちらは桃源郷への窓口となっています。説明を聞かれた多くの方が、桃源郷へと旅立たれています」
旅立つという言葉に、私はぞっとするものを感じたが、それは死んだ時によく使う言葉だからだろうか。
「桃源郷は外国にあるのですか? 飛行機で行くのですか?」
と私は聞いた。
「外国ではありません。飛行機でも行きません
と女性は答えた。
「じゃあ国内ですか?」
「はい。国内です。詳しいお話は電話ではできかねますので、説明会にお越しくださることを希望します」
「じゃあ場所を教えてください」
「はい。分かりました」
女性は、とある街の雑居ビルの番地を教えてくれた。そこは風俗のエリアとして有名だった。やはり如何わしいものを私は感じた。しかし、無料と書いてある以上、お金の話が出た時点で帰ればいいのだ。
と、私はこの手紙を持って行くことにした。
休日、私は早速その会場へ足を運んだ。
風俗街の一角だから、昼間は閑散としていた。狭苦しい雑居ビルの三階に、心のオアシス、とドアに書いた一室があった。
私は、そのドアをノックした。
「どうぞ、入ってください」
男性の声だった。私はちょっとがっかりした。電話の女性が応対するのかと思っていたからだ。
私はドアを開けて、中に入った。
病院の待合室のような感じで、衝立があり、その中から、白衣を着た中年の男性が、笑顔で私に近づいて来た。
私は、ポーチの中から手紙を取り出して、
「これをもらったので、どんな話なのかと興味があって来たのです」
と言った。
「それは素敵なお話です」
と男性は答えた。「それでは、こちらの方でお話をいたしましょう」
と衝立の方を指さした。
私は桃源郷に関するものがないかと、すばやく周りを見回したが、別にそれらしきものはなかった。しかし、衝立の中のテーブルの上には、パンフレットが一冊置いてあった。
「さあ、そちらにお座りください」
と男性が勧めるソファーに腰を下ろすと、 すぐに、
「桃源郷へ行きたいですか?」
と聞いて来た。
変なことを聞くものだなあ、と私は思った。行きたいから、ここに来たのである。
「ええ、行ってみたいです」
そして、私は聞いた。「パラダイスのようなところですか?」
「パラダイスね。皆さんそう思われるようですが、ちょっと違います。本物のパラダイスは、あの世しかありません」
それを聞いて、私はむしろホッとした。電話の女性が言った、旅立つ、という言葉が気になっていたからだ。
続いて男性は、テーブルの上のパンフレットを開いて、
「桃源郷というのは、ここです」
と指差した。
前かがみになって、私はそれを見た。
なんのことはない、ただの草原である。草花でも咲き乱れていれば、多少桃源郷らしくもなるが、丈の短い葉っぱだけの雑草である。
「桃の木とかないんですか?」
と私は聞いた。
桃というのが、桃源郷に対する私のイメージなのだ。
「あります。しかしそれは一本のみで、この草原の入り口にあります」
「そうですか。ところで、この草原へ行ってどうしようと言うわけですか?」
私は率直な感想を述べた。こんな平凡な草原なら、そこら辺の公園でも良さそうに思えたからだ。
「はい。写真には写っていませんが、この草原の奥の方に岸壁がありまして、そこから多くの方が飛び降ります」
「ちょっと待ってよ。じゃあここは自殺の名所というわけですか?」
「有名ではありませんが、そうです」
私は呆れた。そして、憤慨した。
「冗談じゃないですよ。なんで私がそんなところに行かなければならないのですか?」
言った瞬間、私はこれは会社の誰かが私を嫌って、私をこの世から抹殺するために仕込んだ罠ではないかと直感した。
男性は、にこやかな顔をして、
「この世の楽園がそこにあるからです」と言った。「逆説のように思うでしょうが、死の隣に生の悦びがあるのです。本当のパラダイスには、生の悦びはありません。毎日毎日が退屈です。この桃源郷は、一種のサバイバルです。ここでテント生活をしてもらいます。一週間ここで暮らしていただきます。そうして無事、一週間過ごすことができれば、とても大きな自信がつきます。死を乗り越えた悦びがあります。どうですか。試してみませんか? 一週間生き延びられたら、ほんのちょっとですが謝礼を差し上げます。もちろん、一週間分の食料をご用意します。その代わり、この草原から外に出ないという条件がつきますが」
私は躊躇った。都会の喧騒に嫌気がさしていた私である。静かなところで暮らしたいという願望がある。一週間なら、ちょうどもうじきゴールデンウイークがあるのだ。
「本当に無料なんですか?」
「もちろん無料ですとも。テントも送迎も、すべてこちらに任せてください」
「熊が出たりしませんか?」
「大丈夫です。熊はいません。野犬もいません。そして、もしも途中で帰りたくなったら、遠慮なく携帯でお知らせください。迎えに行きます。これも無料です」
私は好条件過ぎて、かえって気味が悪くなった。しかし、人生経験として、何かプラスになるのではないか。毎年ゴールデンウイークは、くだらないことで日々を過ごすのだ。それよりはマシなように私は思った。
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