幕間ー悲しみの王妃
闇の中に轟音が響き渡った。それは連続して山を、城を揺るがした。その音は天からの神の怒りの雷のように思えた。崖に突き出した見張り台にいた兵士は、山裾に無数の松明が揺らめいているのを見た。可動式大砲をいくつも並べ、兵達が一斉に火を点ける。オスマントルコの軍勢だ。このポエナリ城の真下に迫ってきている。難攻不落の城と言われたこの城も堕とされる日が来たのか。城にいる者は皆祈りを捧げていた。ただ一人の男を覗いては。
男は血に塗れた剣を手にしていた。壁に掛けられた松明の火が照らし出す男の顔には血の飛沫、そして憂いの表情が浮かんでいる。その足下には2人の男の亡骸が転がっていた。石畳に流れ出した血が男の靴を濡らす。そして、亡骸の側にはトルコで鋳造された金貨が転がっていた。
「片付けろ」
男はそう言って踵を返した。
「はい、陛下」
傅いた兵は深く頭を垂れた。窓からは吹きすさぶ風の声が聞こえる。冷たい風が男の豊かな黒髪を揺らした。
逃亡し、トルコ軍へ寝返る者の末路はよく知っている。残虐な拷問によりすべての情報を吐き出させ、殺す。ただそれだけだ。メフメトのいかに慈悲のあることか。それならば、五体満足のままここで斬られた方がましだったと感謝するだろう。
男はトルコに人質に取られていた時期がある。野営地で見たのは、残虐極まりない処刑法の数々だった。中でも恐ろしいのは、生木の杭を人間の尻から刺し、それを引き立ててそのまま晒す串刺し刑だ。自身の体重で杭に身体が沈んでゆき、やがて無残にも口まで貫かれる。
それでも人間の生命力は逞しいもので、杭を立てられてしばらくはもがき苦しみながらも、まだ生きているのだ。獣の咆哮のような叫び声が聞こえなくなる頃には、周囲に血と汚物の匂いが漂ってくる。戦場では、その地獄への道標のような串刺しの木が乱立していた。
「ヴラド様、城下に敵が迫ってきております」
窓から城下を見下ろすヴラドの側に男がやってきた。麻布のローブに身を隠していたのは、貧しい身なりの農夫だった。麓の村の者だろう。無数の松明が闇の中で蠢いている。先ほどから大砲の音は止んでいた。火薬を詰め終えたらまだ威嚇射撃を始めるつもりだろう。どの砲撃もこの城壁には届かない。ただ、城の住人を怯えさせるには充分だった。男はしばしの沈黙の後に重い口を開いた。
「この城の者を皆逃がすことができるか?」
「はい、私の村へ通じる秘密の地下道があります」
「女と子供を先に、それから兵達を」
ヴラドは短く指示を出し、私室へ向かった。
天守への螺旋階段を上ると、部屋には明かりが灯っていた。
「ソフィア、まだここに居たのか」
「陛下」
細身の女性が簡素な寝台に腰掛けていた。美しい金色の髪はほつれ、顔には疲労が滲んでいた。村の者が出引きをする、早く逃げろ、ヴラドは妻にそれだけ言うと、机からいくつかの自筆の書を取り出した。彼の日記だった。捨て置いても良かったが、この城を捨てて逃れた後にトルコ軍の手に渡るのは不愉快だった。
「陛下」
王妃はゆらりと立ち上がる。ヴラドはこの声に振り向いた。月の光に照らされた彼女はまるで幽鬼のようだ。彼女はヴラドの胸に倒れ込む。その手には鈍く光る刃が握られている。
「ソフィア!」
ヴラドはその手をなぎ払った。王妃はよろめくが、震える手にはまだナイフを握りしめている。その目には狂気が宿っていた。再び、刃がヴラドを襲う。非力な女が豪胆な猛将に敵うはずもなく、ナイフは易々と弾き飛ばされ、部屋の隅に転がった。
「何故だ?」
ヴラドは問う。その声には怒りはなく、哀しみに満ちている。王妃に一歩近づけば、彼女は後ずさった。その大きな青い瞳から涙がこぼれ落ちる。
「あなた、許して・・・トルコの陣からあなたの命と引き換えに息子を助けると書簡が届いたのよ」
王妃の声は震えていた。おそらく、金貨を持っていた裏切り者が届けたのだろう。ヴラドは唇を噛んだ。
「お前を責めはしない。息子も助かる。さあ、行こう」
ヴラドは手を伸ばす。王妃は身を翻し、窓の上に立った。
「ソフィア!」
「息子をお願いします」
王妃は天守の窓から身を投げた。一瞬のことだった。ヴラドの手は彼女が消えた虚空を求めていた。唇の端から血が滲む。拳を爪が食い込む程に握りしめ、怒りに肩を震わせた。寝台の側に書簡が残っていた。流麗な文字で息子の命と引き換えに、ヴラドの殺害を促す文章が書かれていた。そして末尾のサインを見た瞬間、ヴラドは書簡を握りつぶした。
「ラドゥ・・・!」
ただのトルコの将兵からの書簡なら信じることは無かっただろう。しかし、トルコ軍と親密な義弟が書いたものなら?彼女は弱かった。そして息子を愛していた。
ヴラドはらせん階段を降りてゆく。トルコ軍の砲撃が再開された。山に轟音が鳴り響く。ヴラドは村の男の手引きで城下へと繋がる秘密の通路への入り口をくぐった。その先へ続く階段を降りてゆく。ヴラドの姿は果てしない闇の中へ吸い込まれていった。
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