【6】 シナイア 森のカフェ
背の高い常緑樹が両脇に立ち並ぶ曲がりくねった山道を登っていく。途中、エリックがレートが良いというホテルの両替所へ案内してくれた。手持ちのユーロをルーマニアレイに両替した。現地の通過で買い物をしてみることも海外旅行の楽しみだ。
「ペレシュ城に到着しました」
有名観光地だけあって、駐車場には大型観光バスも三台停まっていた。光さす森の小道を抜けると、目の前に白壁のお城が姿を現わした。
「わあ、すごい」
亜希は興奮のままに叫ぶ。森の中の白いお城は絵本に登場するメルヘン世界に入り込んだような気分だ。焦げ茶色の木の窓枠と白い壁とのコントラストが、優美な雰囲気を醸し出している。灰色の鱗状の屋根はそれぞれ異なる形で、尖塔を持つ。その独特なシルエットが城の印象を華やかにする。
バルコニーや列柱の緻密な彫刻も見事でずっと眺めていられる気分だ。コンパクトな庭は樹木が丁寧に剪定され、白い大理石で作られた神話をイメージした彫刻が並ぶ。
美を凝縮した壮麗な姿に亜希はひたすら感動した。勇壮なカルパチア山脈と晴れ渡る青い空に囲まれた白いお城の景観はそのまま絵はがきになりそうだ。
「こんな素敵なお城、世の中にあるのね」
亜希は何度も感嘆のため息を漏らす。これまで使う機会が無かった型落ちのミラーレス一眼レフを構え、見栄えの良い角度を探して歩き回った。
「アキ、写真を撮りましょう」
エリックの提案に亜希は戸惑う。写真を撮られるのは苦手だ。旅先でも自分を撮影したものは少ない。絶対に良い記念になりますからというエリックの強い勧めに亜希は観念した。
エリックは撮影アングルにこだわって真剣に画角を模索している。ハイ、チーズの声でシャッターを切る。そんな掛け声を知っているのか、と亜希はおかしくなって笑う。プレビューを確認すると、ぎこちない笑顔の自分が映っていた。
「ここは城内のコレクションも素晴らしいですよ」
亜希はもちとん、と頷く。エリックが見学ツアーのチケットを買ってくれた。二十人ほどが集まったところで、城内へ案内された。
入り口で靴の上からビニールの靴カバーをつける。お城の床を傷めないためだ。
赤い絨毯が敷き詰められた階段を上り、甲冑の並ぶ廊下を通って最初に入った部屋は、白と渋柿の市松文様の大理石の床に、白い壁一面を埋め尽くすように中世の甲冑、剣や盾、槍がディスプレイされている。天井に吊されたシャンデリアの光を受け、鈍色の輝きを放つ。ここは武器コレクションの間だ。その数、まさに圧巻。
天井に届くアーチ状の窓には、宗教画をモチーフにしたステンドグラスが嵌め込まれている。軍馬に騎乗する騎士の鎧は七色の光を受けて輝いていた。見事なコレクションの数々に、周囲の観光客も驚嘆の声を上げる。まるで重厚なファンタジー世界に迷い込んだような気分になる。
興奮醒めやらぬうちに案内された次の部屋は執務室だ。濃緑色の絨毯と緻密な彫刻が施された木の壁はシックな統一感がある。壁には金の額縁に入った油彩画が飾られている。部屋ごとにコレクションの趣向が異なるのが面白い。
続くダイニングルームは豪華なシャンデリアの下、十人が横並びで座れるテーブルが中央に配置されている。ここで開かれる食事会には一体どんな豪勢な料理が並ぶのだろう、と想像する。
音楽室や演劇の間、図書室と、どの部屋も床から天井まで抜かりなく贅を凝らした趣向で、周囲から感嘆のため息がひっきりなしに聞こえている。亜希もあまりに真剣に見入っており、呼吸を忘れるほどだ。このペレシュ城がルーマニアで一番美しい城と呼ばれる訳がよく分かる。自然に溶け込む美しい外観も見事だが、内部の博物館にこそ価値がある。
天井のステンドグラスの光が落ちる吹き抜けの階段に立つ。綿密な彫刻が施された黒木とグリーンの壁の印象的なコントラスト、大理石の柱にアーチが並ぶダイナミックな空間デザインに圧倒され、亜希はぽかんと口を開けたまましばらく動けなかった。
「感動しすぎて、疲れた」
城の見学を終えて中庭に出てきた亜希の言葉に、エリックは首を傾げる。それが正直な感想だった。城に入ってから出るまでの間、驚きと興奮が収まらず、アドレナリンが絶えず放出されている状態だった。外の空気を吸った瞬間、脱力したほどだ。
「とても楽しかったということですね」
何度も頷く亜希に、エリックは良かった、と笑顔を見せる。時計を見ると、お昼の一二時をまわっていた。エリックはランチに行きましょうという。
森に囲まれた小さなカフェにやってきた。木陰の涼しいウッドデッキのテーブルにつく。太陽の光を受けた白いパラソルが眩しい。
森を吹き抜ける風は涼やかで心地良い。小鳥の囀りに耳を傾けながら、メニューを眺める。レモネードに豆のスープ、エリックの勧めでルーマニア郷土料理のミテティという肉団子を注文した。
すぐに丸瓶に入ったレモネードとバケットに入ったパンがテーブルに運ばれてきた。レモネードは酸味が強めで、自然な甘みがある。パンは料理を注文したらついてくるのが一般的だという。
豆のスープはスープはトマトとコンソメベースで、素朴な味が好きだ。
「スープが具だくさんで美味しい」
日本で飲むスープと言えば、ファミリーレストランのセットに付属するほぼ汁だけのものを想像するが、ルーマニアでは野菜がたっぷり入っており、エリックはスープだけで一食済ませることもあるという。
楽しみにしていたメイン料理のミテティがやってきた。豚肉のミンチを棒状にして焼いたものだ。
サラダと、鮮やかな黄色のマッシュポテトのようなものが添えられている。
「これはママリガといって、トウモロコシのペーストです。ルーマニアではママリガを主食にします」
ルーマニア料理は素材を生かした素朴な料理という印象だ。料理が美味しいと旅の楽しみも割り増しになる。
デザートにプリンを頼んだら、恐ろしく甘くてこれにはちょっと参った。海外の甘い物は容赦を知らないということを思い出した。
「アキが読んだのはどんな本ですか」
「あ、今ちょうど持っています」
亜希は肩掛けバッグから龍の紋章の本を取り出した。表紙を見たエリックが一瞬目を細めたことに亜希は気付いていない。
「良かったら見せてもらえませんか」
亜希はエリックに本を手渡した。そう言えば、イスタンブール空港でも本を見せて欲しいという青年がいたことを思い出す。
「とても古い本ですね」
エリックが長い指で丁寧にページを捲る。そのエメラルドグリーンの瞳は真剣にページに記された版画や文字を追う。そこには微かな緊張感が漂う。
「その文字、読めますか」
「いいえ。ルーマニア語ではありません。おそらくラテン語でしょう」
エリックには読めるのではないかと一瞬期待したが、当てが外れてしまった。
「この絵に惹かれてルーマニアへ行きたいと思ったんです」
亜希は天国への階段のページを示した。
「このような絵はモルドヴァ地方の五つの修道院で見ることができますよ」
エリックはにっこり笑って本を亜希に返した。
「どこでこの本を手に入れましたか」
「神戸のアンティークショップです」
「神戸、ですか」
エリックは神戸という地名を知っているようだ。
「日本に来たことがあるんですか」
「ええ、子供の頃に東京に住んでいました。高校2年生のときにルーマニアに帰りました。日本のことは少し分かります」
エリックの日本語が流暢なわけだ。
「なぜ日本に」
「父が東欧の民芸品を売る小さな雑貨店を開いていました。でも、五年前にお店は閉めてしまいました」
「素敵なお店だったでしょうね、行ってみたかったわ」
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