どろ沼さま
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どろ沼さま
どろ沼さま
どろ沼さまが現れるようになったのは、あの坑道の崩落事故があってからだという。
事故のあと、もともともう大して注目もされていなかった鉱山は完全に閉鎖された。
***
ぼて次郎の父親は事故のときに坑内にいたせいで死んだ。
おかげでぼて次郎の一家はそれから生活の苦労を余儀なくされた。
まだ十歳をいくつか越えたばかりの兄は山のふもとのひらけた都会に出稼ぎに出て行った。
母親は町で唯一の飲み屋を開いて、数少ない観光客を捕まえようと苦心した。
一家揃って都会に繰り出すことも不可能ではなかったのかもしれないが、それはぼて次郎のおばあが許さなかった。「アタシはここで死ぬんだよ。自分の息子の死んだこの山でね」ぼて次郎の母親もこの純粋なまでに悲しいこころを折ることはできなかった。
町は、東西南北の四方を鋭く険しいぎざぎざの山に囲まれた谷の底にあった。入り口は南側からの細い道しかない、山のなかのどんづまりの町だ。太陽が高い山の向こうに隠れる時間も早いから、日中に陽の照る時間も少ない。
昔、この谷の地盤が鉱物を大量に含んでいることがわかって、人々が無人の谷に山と繰り込み、それなりの町を作り出した。
しかし、鉱物が掘りに掘りつくされ、ついに枯渇すると、人は去り、町もさびれた。
それでも、残ったなけなしの鉱物をさらおうと町に残る人々もいた。ぼて次郎の父はそのうちのひとりだった。
昔の隆盛があったため、山の中腹に作られたにしろ、町の敷地は広かった。ただ今は、人がいないだけだ。昔鉱夫の飯場や居住地だった、木でできた廃屋がそこらじゅうに畑のように並んで広がっていて、腐っている。
ぼて次郎は毎日朝から夕方まで、そんな町をぶらぶら歩いてすごすのだった。
腐った家のなかを覗いてみると、いろいろなものがある。
作業用のヘルメットやら、作業用の鋤やら鍬やら、ちょっとスケベな本やら。
ぼて次郎は田舎の少年だったので、そんな好奇心を撒き散らすしかない自分の暇な生活に疑問を持ったことがなかった。ただふらふらするばかりで、もう少し歳をとったら、兄と同じように出稼ぎの生活をはじめるのだろうなあと思っていた。
***
ただ、このごろぼて次郎がつねに疑問に思っていることがひとつだけあった。
「どろ沼さま」の存在である。
どろ沼さまは、この土地のたたり神であるそうだ。
あの崩落事故の後に山に住みつき、町の人の前にたびたび現れるようになったという。
どろ沼さまは崩落事故で命を落とした人々の無念の魂が固まってできた存在なのだという。
それが、風の強い夜になると、山から降りてきて、低い呻り声をあげながら、山のなかや町のなかを徘徊するのだそうだ。はっきり見たものはいないが、その体は、肉のただれたどろどろの姿をしているそうだ。
ぼて次郎はどろ沼さまについてはそのくらいしか知らない。それが、おばあがぼて次郎に教えてくれる、どろ沼さまについてのすべてだからだ。
それから、どろ沼さまへのご奉納があった。
町の中心部から、現在は閉鎖されている鉱山のふもとにかかる大橋を渡ったところに、どろ沼さまのほこらがつくられている。
そこに、週に一度、崩落事故で死んだ人々とどろ沼さまのこころを鎮めるために、お供え物をするのである。
花、線香のほか、おむすび、簡単な料理、果物、お菓子などが、急ごしらえの不恰好なほこらに捧げられる。それで、村の小さな寺の和尚が念仏をあげる。
これが毎週行われる。多くの村人(とはいってももはや数十人ほどだが)が集まって、合掌する。亡くなった方々、そしてどろ沼さま、お鎮まりください、と。
それでみんな家に帰る。夜は風が強くて、谷の周りの山々の木々の影がばけもののように唸りをあげながら暴れるので、誰も家の外に出ない。
そして次の日の朝には、ほこらからは線香以外のすべてが、きれいさっぱりなくなっているのだ。だから、村の人々はみんな、どろ沼さまの存在を信じて疑わない。
おばあはぼて次郎にいう。「いいか次郎。決してあのほこらを越えて、橋の向こうに行ってはなんねえぞ。どろ沼さまに見つかったら、どうなるかわかんねえのだぞ。坑道に連れてかれて、ひねられてしまうぞ」
事実、橋を越えて向こう側へ行くひとはいなかった。もはや、この町に残っているひとでさえ、あの山に対して誰もいい思いなどもってはいないのだ。
ぼて次郎は不審に思った。
神様はいるのか? いないのではないか? いや、神様はいるかもしれないが、実体などはないはずだ。
それなのになぜほこらのお供え物は翌日にはなくなっているのだ?
おばあはおれにほこらの向こうには行ってはいけないという。確かに夜は危険だ。どろ沼さまがいるかもしれねえ。だけど、昼なら大丈夫なのではないか。
「やってはいけない」と念を押されるほどやってみたくなるのが子供。ぼて次郎はある日の昼、とうとう、ほこらを越えて山に踏み入ってみることにした。
***
まっ昼間だといっても、この町には誰もいないのと同じだ。広いくせに、住人が少ないから、昼間に散歩していても人に会うことはほとんどない。
ましてや、この鉱山への入り口は不吉な場所とされているから、町の中心でありがながらも、近づく人はそうそういない。
それでもぼて次郎は周囲に注意をしながら、こそこそと、こちらから向かいの山のふもとにかかる大橋を渡りだした。
橋の途中にほこらがある。ぼて次郎の足はそれを越えて向こう側へ踏み入れられた。ぼて次郎はなんだか変な感じがした。別の世界に入ったような。
橋を渡ると、すぐに山道だ。うねうねとしたかなりの傾斜の道が山の上に向かって伸びている。
しかし、道の両脇にはぼうぼうと背の高い雑草が生えきりになっているので、まがりくねった道の向こう側が、まだ背の低いぼて次郎にはよく見えない。
左右の草むらのなかを注意深く見ると、ところどころに採掘の作業に使ったのであろう鉄の機械や鍬などの残骸が放り散らばっている。奥のほうにはくずれて腐った小屋の跡も見て取れた。
まったく何の音もなく、ただ背の高い雑草がゆらゆら揺れている空間は怖いものだったはずだが、しかし、ぼて次郎のなかでは恐怖より好奇心が勝っていたから、彼はどきどきしながらも途中で拾った長い木の枝を目の前でぶらぶらさせて山道を登っていった。
雑草の帯の向こう側に黒い土の塊の影のようなものが小さく見えた。ぼて次郎は歩みを止めた。
ぼて次郎はその場を動かなかったが、影はだんだん少しずつ大きくなってくるようだった。
はてあれは何かと思い、ぼて次郎はもう少し道を進み、道が少しまっ直ぐになっている、雑草の帯が視界を邪魔しない、先の見わたせる場所までやってきた。
黒い土の塊の影は、どろ沼さまだった。
どろ沼さまはほんとうにいた。
どろ沼さまは、まさに名前の通り、どろ沼さまだった。
どろ沼さまのからだは泥のような色だった。体はまっすぐだったが、頭だけが少し片側に傾いでおり、頭からは申し訳程度の髪の毛のようなものが少し生えていた。
体には服のようなものがべっとりとくっついているようだったが、それもどろどろの色をしていたから、どこからが生身の体でどこからが服なのか、よくわからなかった。
どろ沼さまは、ゆっくりとこっちに向かって「動いて」来ていた。からだの全体はうまく動かないのか、足の膝から下の部分だけをひょこひょこと動かしながら、低い、呻るような声を出して、こちらに向かってきた。
ぼて次郎の体は動かなかったし、その場に座り込みたいほどおそろしかった。すでに小便はちびってしまっていた。
それでもぼて次郎は上の前歯で下唇を血が出るほど強く噛み締めて、痛みによって自制心を立て直すと、今来た道を駆け戻った。
しばらく駆けたが、まだ山の入り口――ほこらのある橋へはたどりつかない。いつの間にそんなに奥まで来てしまったのだろうか。しかしこれだけ走ればもう十分だろう。そう思ってぼて次郎が振り向くと、もうすぐそこにどろ沼さまの姿が迫っていた。
ぼて次郎は駆けた。心臓が爆発しそうだったが、爆発してもいいというくらい駆けた。死ぬか生きるかだと思った。
橋にたどりついて、そのまま橋を駆け抜けた。そのときに見たどろ沼さまのほこらの前には、人間の手のあとのようなものが、べたべたとついているのがわかった。やはり、あいつは夜な夜なお供え物を取りに来ていたのだ!
橋を越え、ぼて次郎は家に向かって走った。何度か振り返った。どろ沼さまはついてきている!
ぼて次郎は腐った家々の路地を抜けて、自分の家までの近道を選んで駆けた。こうすれば、どろ沼さまを撒けると思ったのだ。しかし、どろ沼さまはしっかりとぼて次郎のあとを追って付いてくるようだった。路地を通っているときにはぼて次郎の姿が見えていないはずだし、どちらの道を進めばいいかなど、わかるはずがないのに、だ。
***
ぼて次郎は自分の家についた。玄関の戸を開こうとしたが、鍵がかかっていて開かない。母は店のほうにいるから不在だろう。しかし、なぜおばあがいないのか。買い物にでも出ているのか。どうしよう。
他の知り合いの家にかくまってもらおうか。しかし、もう走れない。これ以上は息がきれてしまって走れない。家の中に入ることができなかったら、自分は終わりだ。どろ沼さまにとり殺される。
家の向かいの腐った平屋の脇の路地から、曇天の下、どろ沼さまが姿を現した。
間近で見るどろ沼さまは、遠くから見るよりもさらに奇怪な姿をしていた。
体はどろのように真っ黒。服は着ているようだが、体と同じようにどろで真っ黒。
靴もはいているようだったが、泥の塊に足を突っ込んでいるような感じだった。
片方の目はつぶれていて、しかしもう片方の目はまぶたがめくれて大きく見開かれている。
鼻は変な方向に捻じ曲がっている。口も目と同じく片側の皮膚がめくれて歯茎がべろんと見えてしまっている。
ぼて次郎はそのきたない歯茎に、この間おばあがほこらにお供えしたおにぎりに包まれていた、山椒の実が挟まっているのを見た。
どろ沼さまは、四肢が正常に動かないようだった。右手は肘から下だけを上下にぎこちなく動かし、左手は肩の部分を上下させるだけ、足は足首から下を、びっこを引くように、地面に足をすりながら動かしている。
ぼて次郎は玄関の戸の前にへたりこんでいた。腰が抜けていた。もう一度小便をちびった。うんこもでていたかもしれない。
どろ沼さまがぼて次郎に近づく。ぼて次郎は失神寸前だった。
どろ沼さまは右手だけを不器用に動かして、ぼて次郎の顔に触れた。どろどろの嫌な感触がぼて次郎の体を頭のてっぺんからつま先までを走り抜けた。
「ジボォ」どろ沼さまが呻るように声を発した。「オデジボォ……」
ぼて次郎は体中を震わせていた。震えすぎて骨と肉のつながりがずれてしまい、自分の体がふたつに離れてしてしまいそうなほどだった。しかし、視線だけはしっかりとどろ沼さまの顔を見ていた。
なぜなら、どろ沼さまの片側の飛び出た目が、しっかりとぼて次郎の目を見ていたからだ。
「オデジボォ……」またどろ沼さまが呻る。
しかし、どうにもぼて次郎を傷つけるつもりではないようだった。ただ、どろどろの手でぼて次郎の顔をずるずるとなでている。
そのとき、ぼて次郎は見た。どろ沼さまが着ているべとべとの服の胸の部分に、鉄の徽章が貼り付けられているのを。
『山尾鉄鉱』とあった。しかし、山尾鉄鉱の鉱員は、あの崩落事故ですべて死んだはずだ。
事故の跡の調査では、事故現場の瓦礫が取り除かれ、遺体の回収が行われた。
ただ、崩落があまりにもひどい部分の調査は行われなかった。
結果、唯一遺体が見つからなかったのは、そのときに坑道の最奥で作業をしていたと思われる、山尾鉄鉱の鉱員のひとりだった。それが、ぼて次郎の父親だった。
町に音はなかった。ただ、一陣の強い風が町を吹きぬけた。おそろしい夜の風が吹いてくる兆候だ。
どろ沼さまはぼて次郎の顔から自分の手を離すと、奇妙な動きでゆっくりと立ち上がった。
そして飛び出そうなどろりとした目でぼて次郎を一瞥すると、ゆっくりと後ろを向いて歩き出し、腐った家々の影の路地にその身を隠し、去っていった。
崩落事故が起きたのは、ぼて次郎が三歳のとき。彼は父親の姿など覚えていなかった。
ただ、おばあがそうするように、父親もぼて次郎の顔を手のひらでなでて、笑わせるのが好きだったと聞く。
西の空が真っ赤に染まり、そして赤黒く輝きはじめた。
四方の山々からごうごうと夜の風が吹きはじめた。
ぼて次郎は鍵のかかっている玄関の前に、ぼやっしたまま、へたりこみ続けていた。
向こうの方から、おばあが急ぎ足で家に向かってきていた。
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