312.虎
夜の大聖堂。
さすがにこの時間になると、人の気配はかなり薄くなる。それでもヴァンパイアの一部は夜通しで宴をしているようだが。
静かな廊下をオードリーとクラリッサ、シスタリアが自室へと戻る道を歩いていた。
「ふぁ……むにゃむにゃ……」
「大丈夫、オードリー?」
「うん。お腹いっぱいで眠くなってきただけ……」
適度にお昼寝しながら、夜会にも顔を出す。
それがオードリーとクラリッサの『お勉強』である。
今の時間は普段寝る時間より、やや遅いくらいであるが……。
貴族となれば会合が深夜に及ぶこともある。
今から昼寝と夜更しの組み合わせで体を慣らしていく必要があるのだ。
ナーガシュ家はその辺り、柔軟である。
合理性を重んじるので適度に休むことは推奨されている。むしろ休めないのは無能という考えなのだ。
「ふぅ……」
オードリーはシスタリアが持ってきた、コカトリスぬいぐるみをもにもにと抱きしめている。
海コカトリスバージョンのぬいぐるみであり、ちょっとずんぐりむっくりしている。
レアな造形なので確保したのだ。
「……そういえば、妙な噂が」
シスタリアが眼鏡をくいっとしながら小声で話し掛けてくる。
「噂?」
「大聖堂のなかで、大きな猫を見たとか」
「猫……? 猫……ちゃん?」
歩きながらオードリーが首を傾げる。
「なんでもかなり体格が良く、黒の模様があるとか」
「……虎じゃなくて?」
クラリッサの言葉にオードリーが頷く。
「虎っぽいよね、それ」
「あの絵みたいな感じなのかな? それなら虎だよね」
「『半身の虎』ですか。確かに特徴的には虎のような……」
「それで、その虎を見たって……そんな噂があるの?」
オードリーはふぅと小さく息を吐いた。
実は夢見がちながら、オードリーはこうした噂には無頓着である。方向性が違うのだ。
どこそこの貴族の屋敷には幽霊が出るとか、遠くのなんとかという池には悲恋の亡霊が取り憑いているとか。
メイド達はきゃあきゃあとよく噂するのだが。
オードリーが夢見るのは、コカトリスのぴよぴよワールドだけ。
「ええ、酔っ払ったドワーフの騎士達が目撃しているようです」
「……すでに本当な気がしないんだけど……」
「でもあの絵は本当にリアルだよね」
クラリッサは東方の生まれだ。その彼女からしてもあの絵はよくできていた。
夜中に森のなかで見たら、本物の虎と思うほどだろう。
「そうそう。よく出来た芸術品が心に焼き付いているだけじゃ――」
そこまで軽く言って、オードリーはピタっと足を止める。
「……グルルル」
『虎』は突然、オードリーの前に現れていた。前触れもなく、予告もなく、あまりに唐突に。
それは間違いなく『半身の虎』であった。
絵とそっくり同じ、獰猛な虎のままである。
「嘘……」
「……お下がりを!」
クラリッサが呟くと同時に、シスタリアが二人を庇うように前に出る。
「グルルルル……」
虎はそれを意に介した様子はない。ただ、オードリー達の前にいた。
しかし虎は人を見ていない――。
オードリーは天性の鋭さで、虎の視線の先を探り当てていた。
「バット……?」
「えっ?」
クラリッサの腰にあるミニバット。
虎はなんだかそれを見ているような気がしたのだ。
その虎が一歩を踏み出すと、月明かりで姿がよく見えるようになってきた。
(……ごわごわしてる。ふわもっこしてない……)
それはオードリーが思わず心に浮かんだことだ。
「……グルル」
虎がさらにひと唸りすると、ふっと姿がかき消えた。煙のように、一切の痕跡を残さず。
「びっくりした……!」
クラリッサがほっと胸を撫で下ろすと、シスタリアも肩の力を抜く。
「どうやらただの噂ではないようですね……」
「……そうですね。あれ、オードリー?」
クラリッサの声ではっと我に帰るオードリー。
ちょっと考え事をしていたのだ。
ドワーフの騎士達は、なぜ虎を見たのだろうか?
なぜ自分達の前にも虎が見えたのだろうか?
……繋がりがあるような気がするのだ。
「うん……とりあえず父上に報告しに行こう!」
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