エピソード 3ー1
魔の森は決して平坦な森ではない。山まではいかないまでも、丘はいくつか存在する。そんな丘の一つにある大きな窪み。そこがアストラルラインのたまり場となっている。
アイリスはそのアストラルラインを目指して疾走していた。
剣精霊の加護で身体能力を全開まで引き上げて、うっそうとした獣道を風の魔術で切り開き、案内役の男を置き去りにして全力で丘を駆け上がる。
「もぅもぅもぅっ! どうしていつもそんな無茶ばっかりするんですか、お兄様はっ!」
前世の記憶を思い出したあの日以来、心の中でしか呼んでいなかったお兄様呼び。無意識にその言葉を口にするほど、アイリスは焦りと怒りを滲ませていた。
アルヴィン王子が敵か味方か、アイリスはいまだに判断できずにいる。
だが、アルヴィン王子が敵ならば、彼が精霊の加護を得るのは絶対に避けなくてはいけないし、味方なら彼が精霊の怒りを買うのは絶対に避けなくてはいけない。
つまりは五分五分――ではない。
アイリスはこれが分の悪い賭けになると予想している。だからなんとしてもアルヴィン王子が精霊の試練を受ける前に止める必要があると焦っていた。
大人でも軽く一時間は掛かる距離。
それをわずかな時間で駆け上がり、たどり着いた丘の頂上。いままさにアストラルラインのたまり場へと続く窪みに降りようとするアルヴィン王子を見つけた。
アイリスは手のひらに拳を打ち付け――それから王子のもとへと駆け寄った。
「アルヴィン王子っ!」
「……ちっ、もう来たのか」
「もう来たのか、ではありませんっ! 精霊の試練は危険だと申し上げたはずです!」
「だとしても、里の者達から許可はもらった」
おまえに止める権利はないと言いたげな口調。
だが、アイリスの心は逆に冷えていった。
「口にしなければ分かりませんか? わたくしが認めないと、そう言っているのです」
「ほう? ならば、俺が従わなければどうするのだ?」
「力尽くで止めます」
アルヴィン王子が嗤った。
「おまえに、それが出来るのか?」
「王子こそ、後で泣いても知りませんよ?」
アイリスとアルヴィン王子が睨み合う。
「止めるんだ、アイリス嬢。彼は族長の許しを得てここに来ているんだぞ」
「アルヴィン様、お止めくださいっ!」
アルヴィン王子を案内してきた男と、同行者であるクラリッサがそれぞれを止めようとする。だが、二人はそれに応じず、逆に下がっているようにと命じた。
押し問答の末、同行者の二人を離れた場所まで退避させる。
「さて、これで邪魔する者はいなくなったわけだが……戦う前に一つ確認させてもらおう。俺が勝った場合、俺が試練を受けることを認めるな?」
「ええ。その場合は潔く引き下がります。ですが、わたくしが勝った場合は、王子が試練を受けることは諦めてもらいます」
「……いいだろう。ならば――」
「尋常に――」
「「――勝負っ!」」
二人の声が重なり、同時に動き始める。
アルヴィン王子は即座に距離を詰めようと飛び出した。それと同時、アイリスは側面へと動き、アルヴィン王子の進路上から退避する。
刹那、アイリスがいた空間を銀光が斬り裂いた。
いつか彼がアイリスを襲ったときに使った殺さずの魔剣ではなく、数多の敵の血を啜ってきたであろうアルヴィン王子の愛剣。その一撃には殺意が込められていた。
(お兄様……本気なんですね。ならば、わたくしも本気で応じましょう)
いま、彼に試練を受けさせるわけにはいかないと、アイリスは牽制の魔術を放った。
だが、アルヴィン王子はステップを踏んで回避。側面へ回り込みながら、アイリスの胴を狙って剣を振るった。
その一撃は速く、アイリスの回避は間に合わない。魔術を放った直後で、いまから結界を展開していては間に合わない。止められぬ一撃がアイリスの胴に吸い込まれる。
響いたのはキィンという甲高い音。
アルヴィン王子の剣を、アイリスは一振りの美しい剣で受け止めていた。続けて手首を返して王子の剣戟を受け流し、その勢いそのままに反撃の一撃を振るう。
アルヴィン王子は跳び下がって距離をとった。
「……馬鹿な、その剣は、まさかっ」
「さすがの博識、この剣をご存じでしたか」
アイリスは剣の装飾がよく見えるように中段に構える。
剣に刻まれているのはレムリア王国の紋章だ。そしてなにより、刀身が淡い光を纏っている。そんな剣は、伝説の上でも一振りしか存在しない。
「……なぜだ。リゼルの賢姫であるおまえがなぜ、初代剣姫の魔剣を持っている! その魔剣は魔族との戦いの中で失われたはずだ!」
声を荒らげるアルヴィン王子の瞳の中に、疑念がじわりと滲んでいく。失われたは魔剣を、密かにリゼル国が回収していたのではと疑っているのだ。
「王子の考えていることは的外れだと申し上げておきましょう。そもそも、わたくしが持っているという認識からして間違いです。この魔剣の所有者はアストリア、ですから」
「……アストリア? それは一体、どういうことだ」
精霊の加護。それにはいくつか種類がある。たとえば剣精霊の加護であれば身体能力が上がり、魔精霊の加護であれば魔力が上がる。
一般に知られているそれらは、精霊に与えられた加護としては初歩的なモノでしかない。
たとえば、アイリスがフィストリアを顕現させ、その力を使ってグラニス王を癒やした。あれは、アイリスに加護を与えているのがフィストリアだからこそ扱えた力である。
いくら術者が優秀でも、他の魔精霊ではあそこまでの力を振るうことは出来ない。
アストリアも同じだ。
剣精霊アストリア固有の能力として、魔剣を顕現させる能力がある。初代剣姫が振るっていたのも、いまアイリスが振るっているのも同じ、アストリアの力で顕現した魔剣なのだ。
けれど、その事実をアルヴィン王子に教えるつもりはない。
少なくとも、いまは。
「教えて欲しければ、わたくしに勝つことですね」
「いいだろう。おまえに勝つ理由が増えた。――いくぞっ!」
再びアルヴィン王子が飛び出した。そう思った瞬間には横薙ぎの一撃が迫っていた。
アイリスが剣を振り上げて、その一撃に合わせる。互いが弾かれて軌道を変え、アルヴィン王子の剣はアイリスの頭上を掠めるように振り抜かれた。
だが、まだ終わりではない。
彼の剣は弧を描き、再びアイリスに迫る。アイリスの剣も対照的な弧を描き迎撃する。息を吐かせぬ連撃すべてをアイリスは丁寧に弾き返していく。
魔剣同士の奏でる音色が丘の上に響き渡る。
三つ、四つ、五つと響き、それが十を軽々と越えていく。たった一度のミスが命取りになりかねない。そんな極限状態においてアイリスは――笑っていた。
「なにがおかしい?」
「……おかしい? おかしいことなどなにもありません。ただ――楽しいだけですわ」
前世ではどうしても届かなかった。そんな従兄と渡り合っている。感慨もひとしおで、アイリスは嬉々として剣を振るう。
一拍空き、それから続けざまに二連。
アルヴィン王子の剣が虚実織り交ぜてフェイントを入れるが、アイリスは即座に対応。素早く魔術を展開して牽制の一撃を放った。
アルヴィン王子は即座にバックステップを踏む――が、それはアイリスの望んだ展開だった。彼が距離をとって出来た隙。彼女は無数の魔法陣を展開した。
「――なっ!?」
「動かないでくださいね、アルヴィン王子」
動けば魔術を発動させると警告する。
その言葉に、アルヴィン王子は更に目を見張った。
「おまえはまさか、魔法陣を発動させずに維持できるのか?」
「ちょっとしたコツがあるんです」
魔法陣は放っておけばほどなく消えてしまうが、それは魔法陣を描く魔力が尽きるから。魔力を補充すれば魔法陣を維持することは出来る。
むろん、維持している間は魔力を消費するわけだが、そのコストは決して多くない。リリエラとの手合わせでも使ったアイリスの奥の手の一つである。
「それよりも、さすがのアルヴィン王子もこれだけの魔法陣から放たれる攻撃を回避するのは不可能でしょう? 痛い目を見る前に降参していただけますか?」
「……おまえ、前に俺と戦っていたときは実力を隠していたな?」
「あら、それは王子も同じでしょう? それに、わたくしが全力でないことにも気付いていたはずです。わたくしが気付いていたのと同じように」
違いますかと笑いかけると、苦々しい表情が返ってきた。
「それは認めよう。だが、これは想像以上だ。まさか、ここまでの実力とはな」
「では、降参していただけますね」
「いいや、降参するのはおまえの方だっ!」
アルビン王子が重心を移す――その一瞬に、アイリスはすべての魔法陣に魔力を注ぎ込んだ。王子を包囲するように半円状に展開された魔法陣から一斉に魔術が放たれる。
炎、風の刃、電撃、その三種類の攻撃が一斉にアルヴィン王子に襲いかかった。
そのどれもが致命傷にはならないレベル。だが同時に受ければただでは済まない。圧倒的な魔術の本流。アルヴィン王子はそれらの魔術を――斬り裂いた。
自分に直撃する魔術だけを斬り裂き、爆炎を隠れ蓑にアイリスに迫る。
完璧なタイミングでのカウンター。
だが、アイリスならば防御するだろうとの確信がアルヴィン王子にはあった。そんなアルヴィン王子の予想はある意味では正解で、ある意味では間違っていた。
反撃を受けたアイリスは、アルヴィン王子の剣に対して左腕を差し出したのだ。
「――っ」
達人同士の戦い。
それが殺し合いに至らぬのは、相手の行動を信頼しているからに他ならない。たとえ自分に殺すつもりがなくとも、相手が致命的なミスを犯せば命を奪うこともある。
そして、いまがそのときである――と、アルヴィン王子は恐怖した。まさか、アイリスが無防備に左腕を差し出すとは思わず、とっさに剣を止めようとする。
だが間に合わない。アイリスの差し出した左腕にアルヴィン王子の魔剣が吸い込まれ――ガキンと、想像していたのとは異なる音が響く。
そして――アルヴィン王子の喉元には、アイリスの魔剣が突きつけられていた。
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