黒い砂漠
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黒い砂漠
世界は真っ黒で、地面にどこまでも敷かれた砂のみが明るく見えた。遠く向こうの方には山のように見える、砂と同じ色の三角形の人工建造物らしきものが見える。
Kは砂漠に一人で立っていた。風の音もなにもしない静寂であった。ただあの三角形の建造物の頂点に登り祈りを捧げねばならないことだけが分かっていた。
Kは歩き出した。すでに足が重いと感じるのは疲れているからなのか足を砂にすくわれるからなのかはわからなかった。
ともかく、何か大切なことを忘れてしまっている気がしているがそれが何なのかがどうしても思い出せない。
建造物までの距離は見当がつかなかった。ただ歩いて行くしかないということだけがわかる。
息を切らしながら歩いて行くと向こうの方に何かある。吸い込まれるようにそこに向かって行く。
近くまで来るとそれが屋台づくりの飯屋であることがわかった。店主らしき者は何をするでもなく立っている。そしてそれはただの影のようにしか見えなかった。
それより驚いたのはそこに父がいたことだった。父は何かよくわからない食べ物を啜っておりこちらを見ない。
しかしKは懐かしさに焦がれて「お父さん」と父を呼んでみた。すると父はこちらを向いて「あそこに登って何をするのだ」と聞いてきた。
「祈るのです」とKは答えた。
「祈って何かが変わるのか」
「わかりませんがそうしなくてはならないようです。お父さんも昔はいつも祈っていたじゃないですか」
「あれは気の迷いだ」父はそういうとまた食事に戻ってしまった。
仕方がないのでKがまた歩き出そうとすると父の声がまた聞こえた。「好きにするがいい」
Kは父に勇気をもらったのだかばかにされたのだかわからない気持ちになったままでまた歩き出すのだった。
しばらくまた進んで行くと今度は砂漠の真ん中に小さな白いものが佇んでいるのが見えた。
Kはしゃがんでその物体が地平線の黒の中に映えるようにしてみた。するとそれは昔家で飼っていた白い猫であることがわかった。
とうとう猫のところまでやってきた。猫はさっぱり逃げようとしない。
猫の面前にしゃがんで顔をじっと見つめてみた。
「俺と一緒に来るか」
猫は微動だにせず、ただ目線をKからはずすのだった。
「さっき親父にあってな。あそこで祈ってもいいといわれたのだ」本当に父親が言ったことの真意を測りかねるままに少しごまかした。
しかし猫は反応しない。
「一緒に行ったら楽しいかもしれないぞ」
猫は下を向いてしまった。
仕方がないのでKは一人で歩き出した。なんども後ろを振り返り猫がついてこないものかどうかを確認するが猫はその場から動かず佇んでいるだけだった。
「あっちに行けば親父がいるからな」
そういうと途端に猫はKの方から向こうの方に行ってしまった。
Kは虚しさのような何かを感じた気がしたが祈りと猫の動向のどちらに重きをおくかは明確だったのでそのまま進むことしかできないのだった。
さらに進むと地平線の向こうから何か大きな物体が型崩れしているようなものが見えてきた。
これもKの進む途上にある。
かといってKは歩調を進めるには足がだるくなっていた。だからゆっくりとその場所まで歩いて行った。
そこは石切り場だった。どうやらあの三角形の建造物を立て上げるために切り出した石の形を整える場所のようであった。
それにしても一つ一つの石の大きさはとてつもないものだった。
その石をいくつもの影たちがおおきな刃のような影で切って形を整えているのであった。
その中に見た顔があった。弟であった。
弟は汗を流しながら石切りをしていた。細い体でよくそんなことができるものだと思う。
Kは弟に声をかけた。
「何をしているのだ」
「見てわからないか。石を切っているのだ」
「なぜそんなことをしているのだ」
「そっちこそ何のためにあの石山に登ろうとする」
「なぜそれを知っている。ともかく僕は祈るのだ」
「なぜ祈るのかもしらないくせに。人のことをとやかく言う」
「一緒に行こう」
「俺はここで仕事があるからだめだ。一人で行けばいい」
「一緒に行きたいんだ。親父もいいと言っていた」また物言いをねじまげた。
「もう行ってくれ。仕事があるんだ」
それ以上弟はKの話に答えなくなってしまった。Kが残念に思い下を向きまた顔を上げると弟はどの影であったのかわらかなくなってしまっていた。
Kは進んだ。もう後ろ髪を引くものは何もないと思っていた。
すると向こうにまた小さく見えるものがあった。
それは家であった。
家も同じく砂の色をしていた。
近づいていくと、その家は今にも崩れそうになっていることが見てとれた。
家は砂でできていた。玄関の戸も砂であった。Kはそれを腕でこそげ落として中に入った。
中には女がいた。女は料理を作ってKを待っていたようであった。しかしその料理もすべて砂であった。
女は言った。「あの山には登らないでほしいの」
「なぜだ」
「はなればなれになってしまう」
「それでもいかなければならない」
「わたしを置いていくの」
「そういうわけではない」
「あなたはいつもそう。自分のことばかり考える」
女は手のひらで作られた砂の料理をたたきつぶした。
それから一言も発さずこちらを睨んだままとなった。
「一緒に行こう」
「口だけ達者」
「一緒に行きたいんだ」
「私の気持ちはどうでもいいくせに」
すると女は台所に向かって去っていった。
台所は影になっていた。Kは追いかけたがそこには女はいなかった。砂でできた勝手口をまた腕の力でこそげ落として外に出ると外は真っ暗でその暗い点を見つめるKの後ろで砂の家が崩れ去った。
Kは砂の中を手でまさぐったが女の姿を探し出すことはできなかった。
Kは一人で進むしかなかった。
そしてとうとう建造物に近づいてきた。
近くで見ると見上げるほどおおきな物であった。石切り場で見た石が下段から円周上に緻密に積み上げられて最上部分ではそれが一つだけとなているために遠くから見ると三角形に見えたのである。
一段の石だけでもKは飛び上がってその縁に手をかけて体を持ち上げて少しずつ登っていかねばならなかった。
しかしそうしなければ最上段にたどり着くことはできないのである。
数段登ったところでKの息は上がった。これ以上は難しいと思われるほどつらい。
そこに巨大な芋虫がいた。Kの体の二倍ほどの大きさであり太さは数倍ほどあった。
Kは芋虫に尋ねた。「この石山を登るつもりか」
芋虫は返事こそしなかったが頭をKの方に向かせて体を震わせた。
「一緒に行く仲間がほしかったんだ。君もこの山の頂上で祈りをささげるのか」
芋虫は首を振ったような気がした。仲間がいることで勇気をもらったKは芋虫と一緒に少しづつ山を登っていった。
体の構造こそ違えどこの断崖絶壁を登るには同じような体勢で壁に張り付きながら上に登っていくしかないのだった
しかし芋虫もその体を重力にあらがわせながら上にもっていくことは相当に力がいるのかKが登っていくのに劣る速さでしかKに追いついてこられない様子だった。
Kは芋虫がゆっくりと壁を登ってくるのを待ちながら石山の中腹部から世界を見渡した。
どこまで行っても真っ黒な世界であった。砂地が広がっている以外は、地平線より上の空は漆黒だ。どんな色も許していなかった。
この漆黒の空に一番近いのはこの石山の頂である。そこで祈ることに何の意味があるのか。Kにはそれがわからないのだがとにかく登らなければならないことだけがわかっていた。
しばらく芋虫を待っていたのだが登ってこない。心配になって下を覗いてみると芋虫は壁にもたれたまま動かなくなっていた。
Kは石段を数段降りて芋虫のもとに参じた。芋虫は疲労のためか動かなくなっていた。既に死んでいた。
Kは泣いた。そして芋虫を食べた。空腹でどうにかなりそうだったのと芋虫を体に取り込むことでどうにか彼を天井にまで連れて行こうという気持であった。
芋虫の肉を何度も口にもっていくと不意にその皮膚と肉を突き破った。芋虫の中には人が閉じ込められていた。
それは祖母であった。祖母は芋虫となってKの輩になってくれようとし、そして死んだのだ。
Kはそんな祖母の気持ちを考えると涙が止まらなくなりその場で嗚咽した。そして芋虫に身をやつした祖母の気持ちを無駄にしてはいけないと思い、さらに芋虫の身を体に入れて体の向きを整えた。
そして泣く泣くその芋虫(祖母)をそこに置いたままでまた岩山を登り始めた。これまでは芋虫がくれた勇気のもとで登ることができていたが今度はその死の悔しさを力に変えていたのである。
そしてとうとう最後の一段つまり最上に置かれた石段をKは登った。
空気は止まっている。ただ周囲には黒い世界がある。
達成感も感動もなかった。ただ祈りをささげるのみだった。
誰に祈るのかもわからないしその目的もわからない。
悔しかった。祖母まで死んだのに。足元の石にこぶしを叩きつけてみるがどんな音も響かない。
Kはひざまずくと手のひらと手のひらを合わせて祈った。目を閉じた状態で空を見上げた。心の中にはなにもなかった。
そのままどのくらいの時間がたっていただろうか。
Kはまぶたの裏に明るいものを感じた。
目を開けてみるとそこには原色の世界が広がっていた。
赤、黄、緑、青、紫、そして黒と白、また、それが混然としたものが地平線のどこまでもつながっている。
空は青く、それに木や、花や、水や、雲や、無機質ではない色の岩肌、さらに鳥などの生き物の姿も見てとれる。
Kのひとみからは涙がこぼれた。祈りは無駄でなかったということ。そして祖母をなぜここに連れてこれなかったのかという悔恨の涙であった。
世界は鮮やかな色に包まれ、地と空がどこまでも明るく美しく見えた。遠く向こうの方には尖塔のような、明るい色の細長い建造物が見える。
Kは花が咲く小高い丘の上に一人で立っていた。風の音が耳をふるわせ、生命の息吹を感じさせられた。そしてKはあの建造物の頂点に登り祈りを捧げたい気持ちでいっぱいになっていた。
Kは歩き出した。足取りは軽く、宙を浮いているような感触がしていた。
建造物までの距離は見当がつかなかったが、いつか必ずたどり着けるし、たどり着きたいという気持ちがあった。
Kは木々に成った甘い実をかじり、小鳥たちと話しながら塔に向かって歩いて行った。
なぜ父も猫も弟も女もこの美しい世界に来なかったのか、また連れてこられなかったのかと悔しい気持ちがあったが、その前に自身がこの世界を謳歌できていることが幸せだった。
明るい石で建てられた尖塔の両脇には滝が流れており、水しぶきで塔の入り口付近はけぶっていた。そこにたくさんの野鳥や小さな動物たちが憩うていた。
Kはそれらに会釈をしながら塔の下部に口を開けた入り口をくぐった。
中には螺旋階段があり、塔の頂まで通じているようだった。
Kはこれを登っていく。階段はなだらかで途中途中に明かり窓があるので、とても清々とした気持ちで登っていくことができるのだった。これであれば祖母も一緒に登ることができたのにと思う。
そしてどのくらいの時間歩いただろうか。Kはとうとう塔の頂にたどり着いた。
そこから見える景色は素晴らしかった。すべてのものが色づき、風や生き物が声を合わせ、あふれる生命を感じさせられる。
Kはその美しさに祈らずにはいられなかった。またひざまずき、両の掌を合わせて目を閉じ、空を仰ぎ、自身の自然な心に従ってこの世界を全身で感じた。
突然、まぶたの裏が真っ黒になった。風がやんだ。
Kはゆっくりと目を開いた。
世界は真っ黒で、地面にどこまでも敷かれた砂のみが明るく見えた。遠く向こうの方には山のように見える、砂と同じ色の三角形の人工建造物らしきものが見える。
Kは砂漠に一人で立っていた。風の音もなにもしない静寂であった。ただあの建造物の頂点に登り祈りを捧げねばならないことだけが分かっていた。
Kは歩き出した。すでに足が重いと感じるのは疲れているからなのか足を砂にすくわれるからなのかはわからなかった。
ともかく、何か大切なことを忘れてしまっている気がしているがそれが何なのかがどうしても思い出せなかった。
Kの旅がまた始まる。
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