第13話 月子の許婚の出立
昨夜から細い雨が降っていた。
まもなく夏が近づこうとしている季節なのに、肌寒いような、それでいてじっとりと湿った空気が纏わりつくような、何だか気分が落ち込んでくる陽気だった。
長雨のせいで地面はぬかるんで滑りそうだけど、アスファルトを知らないこの世界の人にとっては、いつもと同じであり何も問題はないのかもしれない。
筑波山は、黒っぽいシルエットを残し、靄に覆われたまま姿を見せない。
圭蔵さんとの別れを惜しんでるようだった。
数日前から元気をなくしている花子さんは、今日は空元気を全開って感じで動き回っている。気丈に振舞い、まるですでに婚姻も済ませた若奥様のように甲斐甲斐しく働いていた。朝ごはんだけでなく、道中に食べられるお昼ご飯や水の用意、携帯できる腹痛を治す薬や傷薬など荷物ならないような手荷物を何度も確認したり……。それでいて、時折周囲を見回した後に小さく溜息をつく…。
圭蔵さんは2週間前から離れで花子さんと暮らしていた。結婚前なのに…って思うのは、私だけのようでどうもしきたりがあるらしい。
ここのしきたりとは、婚姻前に必ず嫁の実家の親孝行をお婿さんは行うらしい。そして、二人が仲良く生活していけることを嫁側の両親に見てもらい、嫁側の両親の憂いを無くしてから嫁は嫁ぐ。今風に言えば、婚姻前の同棲を親公認でやっているって感じかな。
新婚夫婦の仲の良さを見せつけられるこっちの身にもなって欲しいけど、母であるさくらさんにとっては、嫁ぐ前の二人仲睦まじいい姿が見られて、安心して送り出せるだろうから、これも理にかなっていると思う。母親の心理など想像も出来ないけど、きっと娘には幸せになって欲しいと心から願うだろうから…
こんなことなら結婚を修行の後にすればよかったのに…って思うんだけど、二人は待てなかったんだよね。それほどにも好き合っている二人…。だからこそ、今回の結婚前の修行は花子さんにとって離れがたい別れとなるようで、この先ずっと一緒にいると分かっていても、受け入れがたいことのようだった。
見ていて、私も辛くなっちゃった。
そう、出立の準備を終えた旅支度の圭蔵さんは、とても頼もしく見えた。筑波山の麓で初めてお会いしたときの雰囲気とは全く異なる漢って感じでね、単なる優男じゃなかったのねーなんて思う私は、まだまだ恋も知らない…。
かなり感傷的になっていた私だけど、花子さんが一番辛いんだよね。何て言葉をかけていいのか分からない……。
「道中、腹こわしには十分気を付けてくださいね。
水が変わると圭蔵さんはお腹にくるから…。
あ、手の怪我も注意してくださいね。
……お達者で、必ず元気に帰ってきてくださいね。
お待ちしておりますから…。」
出立には、何故か叔父さんも来られていて、圭蔵さんの肩を叩きながら笑顔を見せていた。そういえば、ここ数日は叔父さんが良くここに来ていたなぁと考えつつ、顔色を窺っていると、道中の宿や修行先の親方の話しつつ花子さん以上に緊張している面持ちであることが分かった。
「稲刈りの前には戻ります。それまで、花子のこと宜しくお願い致します。」
元気よく大きな声で最後の別れの言葉を口にし、圭蔵さんは旅立っていった。
何だか涙が止まらなかった。
これが最後の別れではないと分かっていても、愛し合う二人が離れるのを見るのは切なかった。
叔父さんは、圭蔵さんを見送ると私に向き直り、一度遊びにいらして下さいと丁寧な口調で声を掛けた。
改めて叔父さんの顔をしげしげと見てしまった。二重で目尻はやや下がり目の優しい雰囲気のある、体格もしっかりとした中年男性であった。
私のお父さんとは大違いだわ。最近のお父さんってば、運動をしていないからだけど、お腹周りにお肉がついてきたと思う。お父さんもだけど太った中年男性は、何故かズボンの上にお腹のお肉を乗せるんだよね……。あれは、子どもから見ると引くわー。
でも、この叔父さんは、身体全体に筋肉がついているようで、がっしりとしていて、運動をしているというよりも仕事で鍛えられているって感じがする。髪は白髪が少し目立つけど、腰までの直毛を紐でしっかりと結んで、清潔感もあって、頼りがいのある上司ってイメージだな。時代劇で出て来るなら、悪代官を取り押さえる側の人だよ、きっと。
何で赤鬼に見えてしまったんだろう。叔母さんの浮気とかで切れるような人には見えないし、そもそも叔母さんがこんな素敵なご主人が居るのに、浮気するとか想像も出来ないんだけど…。大人の世界は、私には難しいよー。
「……。お戻り様?」
叔父さんの手が私の肩に触れた途端、全身の血がぞわりと冷えていくのが分かった。そして、衝撃とも言える強烈な攻撃的感情が、私の中に入り込んできた。
これは…、これは強い怒りだ。ここまでの激しい感情を抑えて笑顔を見せることのできる叔父さんが怖いと思った。
私は、すっと一歩下がって、深呼吸をしてから挨拶をした。
「はい、近々伺いたいと思っておりました。よろしくお願いいたします。」
頭を下げて挨拶をした後は、早くその場から離れたくて仕方なかった。
湿気で冷えたから?全身が奇妙に震えているのが自覚できた。違う、冷えたんじゃない。血の気も凍る恐怖なんてホラー映画の陳腐な解説でしか聞いたことがないけど、実際に体感すると腰が抜けそうだ。
やっとの思いで、自室に戻り、胸元の赤い玉が入っている袋に手を当てた。すると、先程まであった衝撃的な恐怖心が全く無くなっていることに気付いた。なんなんだ?
それにしても、叔父さんはあの怒りを誰に向けているのだろうか。
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