第4話 青年時代
アレクサンダーも思春期となり、当然異性への興味に目覚め始めた。アレクサンダーの好奇心は強く、彼は十四歳の時、十八歳の女中であったヴィクトリアに手をかけた。休日、アレクサンダーの部屋のベットメイキングをしているところを後ろから襲い、犯したのだ。ヴィクトリアは抵抗したが、跡取り息子に逆らうことは出来なかった。孤児であった彼女は職を失うことを恐れ、結局はアレクサンダーに身を委ねた。アレクサンダーとヴィクトリアの情事はその後彼が寄宿学校に入るまで間欠的に続いた。
中等学校では、相変わらず成績は優等であり、ラグビー部に所属していた。彼の伸長はぐんぐん伸び、十五歳で百八十センチに達した。彼はまた、精神世界に興味を持ち、オカルトや占星術の本を読むようになった。レミントン・スパーの大型書店や古書街を渉猟し、休日には大英図書館にまで足を伸ばすこともあった。大英図書館の蔵書はさすがに豊富だった。アレクサンダーは中世西洋史から魔術の歴史を中心として、書を読み漁った。
彼は大英図書館の魔術書専用の部屋で、エリファス・レヴィというフランスの魔術師の存在を知った。その代表作である「高等魔術の教理と祭儀」は彼のバイブルとなった。そして彼の中で、レヴィは自らが目指すべき理想像となった。家族でアレクサンダーのオカルト傾向に共感する者はいなかった。エドワードは、宗教書物に関しては、エクスクルーシブ・ブレズレン派の書物以外を読むことを快く思わず、息子の部屋から魔術に関する書物を見つけた時は、すぐに庭の隅にある焼却炉で燃やしてしまった。この行為は、息子の心に、家庭への根深い不信感を植え付けることになった。
家族ではないが、アレクサンダーの性癖に共感を見せたのはバーバラだった。近隣の自宅に魔女や魔術に関する蔵書があるらしく、アレクサンダーの求めに応じて、幾冊か貸してくれた。バーバラからアレクサンダーに薦めた書物もあり、ダイアン・フォーチュンの魔女物や、『ソロモンの鍵』などがあった。『ソロモンの鍵』、別名『ゲーティア』は、悪魔を呼び出す方法が実際に書かれていた。アレクサンダーは、さすがに悪魔を呼び出す気にはなれなかった。悪魔を呼び出すには相応の浄化と防御魔術が必須であり、防御を怠れば、破滅的な結果が待ち受けるという。クロウリーは、まだ鉄壁の防御魔術を敷くだけの知識も経験も自認していなかった。それに、悪魔を召喚してどうしようというのだろう。彼はしかし、貪欲に魔術の知識を身につけていった。いつの日か、悪魔さえ使役して見せよう。
クロウリーは、大英図書館の魔術書に埋もれながら、窓外のロンドンの景色を眺めた。小雨の降る大通りを馬車が通り過ぎるのを見ながら、彼は読書に耽る自分を、神学校で哲学書に没頭するレヴィを重ね合わせていた。レヴィは十五歳の時、司祭になるために聖ニコラ・デュ・シャルドネ神学校に入学していた。レヴィは神学校でヘブライ語や哲学を学び、また校長のフレール・コロンナは動物磁気学の研究家で、ヨアキム的な終末思想の持ち主(※一)であり、レヴィにも感化を及ぼした。キリスト教の根底に、クロウリーが馴染めぬ愛というものがあるように、魔術の根底にあるのは学問だった。レヴィが目指したサンクトウム・レグヌム(神聖なる王国)に自らも足を踏み入れるつもりだ。
クロウリーは父母の求めに応じ、エクスクルーシブ・ブレズレン派の会合にも通った。彼はまだ成人しておらず、親の脛をかじる身だ。両親の思想信条に真っ向から反発するのは得策ではない。
エクスクルーシブ・ブレズレン派の会合は月に一回、近くの教会で開催されていた。彼は神妙に地域担当の神父の説教を聞いていた。周りを見渡すと、みな熱心に瞳を輝かして聞いていた。しかし、この月に一回の空間は、アレクサンダーにとっては早く過ぎ去ってほしい退屈な時間以外の何物でもなかった。同年代の信者もいたが、彼らは両親の影響からか、この宗派をとことん信じ込んでいた。表面的には宗旨に沿った生活をしているが、読む本がどうも怪しいこの息子を、エドワードはエクスクルーシブ・ブレズレン派の寄宿学校に入れて矯正することにした。
進路をどうしたいか、エドワードが息子に問いただしたところ、どうやらはっきりとした考えは無いようだった。その頃アレクサンダーは精神世界に傾倒していたせいもあり、現実的な進路などどうでも良い、というところがあった。これは、アレクサンダーが後々後悔したことなのだが、父親がエクスクルーシブ・ブレズレン派の寄宿学校行きを進めた時も、「別に、そこでも良いよ」といった風な態度を取ってしまった。そこで、両親は(経済的な心配は幸いこの家族にはなかったので)、半ば嬉々として、息子の寄宿学校行きの手続きをしたのだった。
こうして、アレクザンダーは十六歳の春、ロンドン近郊にあるエクスクルーシブ・ブレズレン派の寄宿学校に入学した。アレクザンダーは当初から、この学校に少し気詰まりな雰囲気を感じていた。学友はいい奴ばかりだった。彼らは教義を信じており、キリストの教えを信じていた。しかしアレクザンダーからすれば、薄っぺらの、あり得ない架空の思想を信じているように見えた。彼らは善良ではあったが真実味にかけており、アレクザンダーからみれば、希望の無い連中だった。そしてまた、教師も高圧的だった。生徒に比べれば、教義に関しては冷めていたものの、薄っぺらな教義に反する者には容赦のない態度を取る者が多かった。とはいうものの、アレクザンダーの素行は特に悪いという訳でもなく、勉学とスポーツに没頭する日々が続いた。中等部の時と同じラグビー部に所属し、うっぷんを汗で流していた。しかしながら、時が経つにつれ、アレクザンダーの教師達への反抗心は高まりを抑えるのは難しくなってきていた。或る時、隠れて喫煙したのを教師の一人に見つかり、校長室にまで呼ばれて厳重注意されたのを契機に、アレクザンダーはこの由緒あるパブリック・スクールを自主退学してしまった。
退学を機に、アレクザンダーはロンドン郊外で一人暮らしをすることにした。幸い、二年ばかりは遊んで暮らせるだけの蓄えはあったし、拘束の多い寮生活は嫌気がさしていたので、一人暮らしをしてみたい思いはあったのだ。何より、退学したと言って実家に戻るのは気が引けた。この時、彼は決意した。オカルトの道、魔術師の道を歩むことを。もはや回り道や、無駄な時を過ごすのはやめようと。無限の力への道、超人への道を歩むのだ。
アレクザンダーは、実家の自室にある重要なオカルト文書を再び購入し、アパートの壁の書棚を埋めた。そして、失業しているのを良いことに、読書研究、祈祷、ロンドン近郊の森での単独魔術の実践などに興じていた。また、インターネットで知ったロンドンのオカルトサークルに入会し、彼にしてみれば実践の足りない若者や趣味人を相手に、公民館の一室を借りきった会議室や、しゃれた喫茶店でオカルト話や知識のひけらかしに耽る日々が過ぎた。自分なりに煮え切らない生活を送るうち、家族から突然の訃報が届いた。父のエドワードが死亡したというのだ。急な心臓発作で。
エドワードの遺言により、遺産は長男であるアレクザンダーに全て引き継がれることになった。一生遊んで暮らせる金が手に入った!アレクザンダーは、ロンドンの住居はそのままにしておき、実家に帰った。しめやかな葬儀の後、彼は今後のことについて母と協議した。母としては、すぐにでも稼業のビール醸造を継いでほしいのだが、息子の文学的気質を知っていたので、無理強いはしなかった。幸い、弟のジャックが、高校を卒業次第、稼業を継いでも良い、と言っているので、それまでの間は叔父のモーリスが稼業をリードすることになった。モーリスは、死んだエドワードとともに二十年以上この仕事をしており、適任と思われた。
そこで、話し合いの末、将来の志向がはっきりしないが、学業優秀なアレクザンダーは、とり急ぎパブリックスクールに入学することになった。一度エクスクルーシブ・ブレズレン派の寄宿学校を退学しているアレクザンダーは、パブリックスクールと聞いて嫌気がさしたが、働くよりはまず大学に行ってみたい思いから、母の意向を容れてパブリックスクールに入学することにした。アレクザンダーは、多くの卒業生がケンブリッジやオックスフォードに進むイートン校に入学することになった。彼の予想を裏切り、そこはエクスクルーシブ・ブレズレン派の寄宿学校のような偏狭な思想環境では無かった。宗教色が薄く、様々な才能を、本人が望む方向に伸ばしてやろう、という雰囲気に満ちていた。そこでアレクザンダーは、学業は文学教科に専念し、スポーツはラグビーに専念した。結果、彼は身長一九十センチ、体重九十キロ、精悍な顔立ちの青年に成長した。その顔には、寄宿学校で時折見られたような、ひねくれた表情は消え、自信と野心に満ち溢れていた。
しかし、彼は卒業を一年後に控えた十七歳の時、パブリックスクールを中退した。大学に進むのに必要な試験に合格する見通しが立ったので、一年早くケンブリッジに入学しようと考えたのだ。そして思惑通り、パブリックスクールの同級生たちよりも1年早く、ケンブリッジ大学に入学した。彼はロンドンの賃貸物件についても、遺産が入ったので、快適な地域のより大きな物件に引っ越した。そして、汲みども尽きせぬ知識の源泉である大英図書館に通いながら、古今東西のオカルト書を研究し、大学では興味のある分野のみ研究対象とした。多くの学生達と違い、彼は莫大な遺産のお蔭で、将来の職業に備える必要が無かったし、生来のオカルト熱という熱中できるものがあったので、存分にオカルト研究に没頭することが出来たのだ。
ロンドンにある高級マンションで、彼は快適な独身生活を満喫する。恋愛関係においても、ストイックなパブリックスクール時代とは違い、少し派手になっていた。彼のマンションには、様々な女性が訪れるようになった。やがて彼は、女性を愛するのと同じように、自分が男性をも愛せる人種であることに気付いた。そう、彼はバイセクシャルだったのだ。男を愛するのは、女を愛するのとさして違いは無かった。女を愛するより、精神的な高揚感をクロウリーは感じた。それは同胞愛、競争愛でもあった。
クロウリーのオカルト知識は、孤独な研究の中で発達していったが、彼は書物の中をのみ渉猟していた訳では無かった。自宅やロンドン近郊の森で召喚魔術を実践し、危険なシーンにも幾度か遭遇した。彼は独りよがりになることを恐れたので、常に何かしらのサークルに所属するようにしていた。一番長く続いたのが、ロンドンに本部を置き、イギリス中に六十人ほどのメンバーを擁する『パサデナの杖』というオカルトサークルで、会としての魔術の実践は無かったが、古代カルデアのオカルト知識等、クロウリーのディレッタント趣味を満足させてくれるサークルだった。
『パサデナの杖』の会合は、ロンドンの貸会議室で月に一回、開催された。会合では、かなりのオカルト知識が無いと、会話に加わるのすら困難だった。クロウリーでさえ、初回の会合では、ちらほらと口を挟む程度で既定の二時間が過ぎた。しかしクロウリーは、この会合の、行動主義的でないところを買っていた。良くも悪くも、知識の披瀝に留まり、政治活動や、魔術活動には手を出さない団体だったので、安全とも言えた。しかもパサデナの杖のオカルト知識レベルはかなり高度だった。しかしクロウリーは、知識の集積だけではなく行動も求めたので、魔術の実践を、一人ないし数人のメンバーで行っていた。複数人で魔術を行う際は、長年の魔術仲間や、ネットで知り合った魔術趣味の連中が一緒だった。この頃、クロウリー達は社会正義のため、黒魔術を行使することがあった。国民の敵と思しき政治家や権力者を、黒魔術で呪殺するのだ。呪殺が成功することは二割程度だったが、殺害まで至らなくても、事故や病気にかかったり、何らかの成果が見られた。幸い、クロウリーは慎重であり、防御魔術にも抜かりなかったので、彼らは呪いの悪影響を受けることなく、魔術を完遂することが出来ていた。しかし、実害は無いとはいえ、夜中、クロウリーが自宅で寝ていると、部屋の隅から妙なラップ音が聞こえたり、電話が鳴るので出てみるとラップ音だけが断続的にしたりと、霊界からの警告と思われる現象が続いた時は、黒魔術の実行を、事が収まるまで一時的に控えるようにしていた。
そのようにして、賢明に自分を安全地帯に保ちながら、クロウリーはやがてパサデナの杖の団員達からも黒魔術の達人と目されるまでになっていった。ケンブリッジで、オカルティストとしての研鑽を磨くうち、やがて彼は運命的な出会いを迎えることとなる。それは卒業間際の四年生の八月の夏のことだった。大学の構内にある見晴らしの良い中庭で、芝生の上に寝転がって魔術書を読んでいると、中背の金髪の男子学生が近づいて来た。学生は青い鋭い目を持ち、服装はカジュアルな綿シャツに綿パン、腕には大学ノートを抱えていた。彼は微笑しながらクロウリーの傍に体を横たえると、話し出した。
「良い天気ですね」
「ああ、ここは居心地が良いので、よく読書をしに訪れるんだよ」
「・・・ところで、君は、かの有名なアレイスター・クロウリー君だね?」
有名人として扱われるのは初めてだったので、クロウリーは照れながら返した。
「どんな人たちが僕のことを噂してたのかな?確かに、僕がクロウリーだよ」
「・・・君の噂を聞いて、ある国際的な魔術団体が、君に接触したいとのことだ」
クロウリーは吹き出しそうになった。
「国際的魔術団体?・・・それは何だい?フリーメーソンか何かかな?」
「いや、もっと刺激的な団だよ。ゴールデン・ドーン(黄金の夜明け団)さ。聞いたことあるだろ」クロウリーの背中に電撃が走った。ついに、権威ある魔術団体からの接触が来たのか!
「ゴールデン・ドーン・・・。たしか、かなり歴史のある魔術団体だよね。その団員が、僕のような一学生にすぎないオカルティストに何の用かな?」
「ふっふっふ。僕たちは君のことを知っているよ。僕の名はマックス。僕も、ゴールデン・ドーンには、大学生になってから、知人の紹介で初めて入会したんだ。君と大差ないさ」マックスは、膝を両手で抱えながら、リラックスした様子で、囁くように話した。
「まるで、僕がゴールデン・ドーンに入会するのが、運命づけられているような言い方じゃないか」
「そうさ、全ては運命づけられている。適切な時に、適切な師匠が現れる、という訳さ」
「君が、ぼくの師匠になるとでも?」
「いや、恐れ多い。ぼくはただの水先案内人さ。ところで君は、噂によると裕福で、ロンドンの高層マンションで過ごしているそうだね。僕は、文学部の貧乏学生なんだが、君の住まいを見せてくれないかな」初対面にしては少々図々しい申し出だったが、クロウリーは了承した。パサデナの杖などよりも、さらに権威ある魔術団体からの接触だとすれば、流れに逆らうべきでは無い。
※一 ヨアキム的な終末思想…ヨアキムは三位一体的構造を世界史に当てはめ、全歴史は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においては祭司と預言者の時代であり、旧約の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、キリスト以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、第三の時代である「聖霊の時代」によってやがて克服される。第三の時代において、世界は完成し、地上においては修道士の時代が出来する。ヨアキムの考えでは、第三の時代において現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。ヨアキムの思想は問題視され、ローマ教皇国からたびたび警告されたが、ヨアキムは撤回せず、ついに異端と宣言されるに至った。ヨアキム主義は13世紀の西方異端思想に大きく影響を与えた。
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