第1話 クロウリー誕生
十九世紀。イギリスは工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握りつつあった。
一八七五年十月十二日、イングランド中部のウォリックシャー州レミントン・スパーにて、アレグザンダー・クロウリー(通称アレイスター・クロウリー)は生を受けた。両親はエクスクルーシブ・ブレズレン派(イングランド国教会から分離したカルヴァン主義の一派。聖書の出来事をすべて真実とするファンダメンタリストのひとつ)の信徒であった。
アレイスター・クロウリーの父、エドワードは、百九十センチ以上はある身長の持ち主だった。彼が住む屋敷は、イングランド中部にあった。朝霧の立ち込める中、屋敷の中庭のイチイの並木道を、エドワードはステッキを振るいながら散策していた。早朝に自分の所領地を散策するのは日課となっており、気分転換と運動を目的としていた。
一時間ほど散策した後、男は館に隣接するビール醸造所に向かった。醸造所には、五人の男が働いていた。皆、ここレミントン・スパーの住人であり、エドワードを寛大な主人と見なし、従順に働いていた。エドワードはステッキと外套を壁に掛けると、シャツを捲り上げて筋肉の発達した腕を露わにし、ビール樽を運び始めた。本来、主人である彼がする必要の無い仕事だったが、体を動かすのが好きなのだ。エドワードは現在四十歳。働き盛りだ。この酒造所は祖先から引き継いだ。彼はレミントン・スパーの大地主であり、代々の名士であった。彼の顔は、従業員から見ても、働き甲斐に喜び勇んでいるように見えた。彼の妻であるエミリーが、臨月を迎えているのだ。彼の初子がもうすぐ生まれる。
エドワードの妻、エミリーは、この日、屋敷の二階の寝室で過ごしていた。歩き回るのは、一日に数回に抑え、その他の時間はベットの上でのんびり窓外の景色を見つめたり、好きなミステリー小説を読んで過ごしていた。医者はよく歩くように勧めるが、お腹がかなり張っており、少し歩いただけで息が荒くなる。しかし、今日は天気も良く、エミリーは良い気分だった。昨夜とは随分と違う気分だ。昨夜は最悪だった。悪夢を見たのだ。
深夜、満月のためほんのりと明るい夜空が、急に真っ暗になり、屋敷を巨大な影のようなものが覆った。まるで巨大な怪鳥が屋敷の屋根に止まり、その漆黒の翼で屋敷を覆ったかのように。エミリーは起き上がって助けを呼ぼうとしたが、金縛りに罹ったように動けない・・・。
急に、階下で叫び声がした。召使たちの金切り声が一階から聞こえる。エミリーは、金切り声に驚いてやっと動けるようになった身重の体を押して廊下に出た。エドワードが急いで階段を降りている。エミリーが階段の太い木製の手摺に体重を預けながら階下に到着すると、執事や女中たちが、叫び声を轟かせながら狂ったように走り回っていた・・・。
エミリーは、びっしょりと汗をかいて目を覚ました。夢であることに少し安心する。窓には満月の月明かりが仄かに射している。今の時期のストレスはお腹の子にも良くない。エミリーは呼吸を整え、サイドテーブルにある水差しを取って、中のレモネードをコップに注いだ。レモネードはほんのりと甘く、少し砂糖が入っているようだった。彼女は念のために、ベッドの脇にある呼び鈴を引いた。暫くして、眠そうに目をこすりながら、寝間着姿の女中がドアをノックした。
「どうしました?」14歳くらいだろうか。まだ若く、頬のそばかすが愛らしい女中が顔を覗かせる。
「いえね、少し悪夢を見たのよ。汗でびっしょりになったから、タオルと、そうね、お腹が空いたからクッキーも持ってきて頂戴」
「分かりました」女中はか細い声で言って扉を閉め、階下に下って行った。
エミリーはタオルで汗を拭き、クッキーを食べた。暫くして落ち着いた彼女は、やがて眠りについた。今度は悪夢は訪れなかった。
翌朝、十時ごろの遅めの朝食の席で、エミリーはエドワードに、昨夜悪夢を見たことを伝えた。エドワードは悪夢の内容に驚いたが、妻を気遣って言った。
「何か、悪夢の原因となるような、悩み事でもあるのかね」
「いいえ。何も。皆、良くしてくれていますし、健康な赤ちゃんを産むことだけが、私の望みですわ」
「・・・食事が終わったら、念のため二人で神に祈ろう。精神の平安を祈願しよう」
「ええ・・・」
二人は、食後のダージリンティーを飲んだ後、屋敷の中にある礼拝室に向かった。礼拝室は居間の隣にあり、食堂を出て二人は廊下を歩いた。
礼拝堂はこじんまりとしているが、代々の先祖が収集したマリア像等の聖物や、主に聖書の一場面を描いた油絵が、壁を埋めていた。エドワードとマリアは並んで跪き、十字架に磔にされたイエス像に祈願した。
「・・・主、イエスよ、エミリーの精神に平安をもたらして下さい。彼女の負担を軽くし、安産を迎えさせてください」エドワードは心の中で祈った。妻が何を祈っているのかは知らないが、彼女もまた、敬虔に祈っている様子だった。
二日後、陣痛がエミリーを襲った。すぐに執事たちも含めて五人で近くの病院に向かった。二時間の格闘の末、エミリーは約四千グラムの大きな男の子を産んだ。男の子はかねてから決めていた通り、『エドワード・アレグザンダー・クロウリー』と名付けられた。
三日後、エミリーは早くも退院し、屋敷に戻った。やはり病院より屋敷は落ち着く。女中や執事たちの手厚い看護を受け、エミリーの体調は良い状態が続いていた。赤ん坊はすこぶる元気で、エミリーの母乳を吸ってすくすくと育っていった。エドワードは幸せ一杯だった。これも普段からの善行のお蔭だろう。
彼は、聖書に記載されていることを全て事実として捉えるエクスクルーシブ・ブレズレン派を信奉していた。従って彼もノアのように、誠実な善人として、神の御心に沿うことを第一に生きてきたつもりだった。ティーンエイジャーの時分は、道を逸れたこともあった。両親は、あまり信仰心の篤い人では無かったので、かれは道徳心のあまりない青年時代を過ごした。だが荒んだ日々も、エミリーとの出会いで幕を閉じた。彼はエミリーからエクスクルーシブ・ブレズレン派を紹介され、キリストの御心に沿った生き方に目覚めたのだ。エドワードはキリストを崇拝していた。出来ることなら、キリストが生きた時代に居合わせたかった。
聖書によると、やがては『最後の審判』が下され、人類は羊と山羊に選別され、山羊は滅ぼされ、羊は神が統治する千年王国へと導かれるはずだった。エドワードは、羊と認定されるべく、エクスクルーシブ・ブレズレン派が聖書に基づいて定めた規則正しい、清浄な、祈りに満ちた生活を続けていた。それは彼に健康と活力をもたらし、エドワードはますますこの宗派にのめりこんでいったのだった。当然、息子のアレクサンダーにも、この宗派の道を厳格に歩んでもらわねば・・・。息子には、どんな道を歩んでもらっても良い。ビール醸造家を継ごうとも、司祭になろうとも、学者になろうとも、それは彼の自由だ。ただ、エクスクルーシブ・ブレズレン派の生き方に外れ無いで欲しい・・・。
夫妻とその屋敷の全ての住人にとって、充実した日々が続いていた。エミリーの体調は良かったが、たまに悪夢を見て目覚めることがあるらしく、それはアレグザンダーを妊娠して以来、出産してからもずっと続いていた。エミリーが悪夢にうなされるようなことは、独身時代を通じて今までほとんど無かったのだが・・・。
エドワードは、以前にもまして充実感を持って日々を過ごしていた。アレクザンダーは早熟・壮健で、一歳半になったが、すでに十メートル程立って歩けるまでになっており、片言ではあるが話し始めた。豊かな黒髪に透き通る様なブルーの瞳を持ち、将来は美丈夫となることが容易に想像された。夫婦にとっては初子だったので、子供はこのように手のかからないものかと思っていたが、たまに近隣からやってくるエドワードの両親は、アレクザンダーの早熟さに舌を巻いていた。あまりにも成長が早すぎるのだ。まだ一歳半だというのに、直立して歩きまわり、片言の言葉を話し始めている。
また、周囲の者がアレクザンダーと目を合わすと、暫くしてアレクザンダーは目を逸らした。既に自我が目覚め始めていることを示している。しかし祖父母の心配をよそに、エドワードは我が子の早熟ぶりを喜んだ。アレクザンダーは、ビール醸造を創設した先祖以来の大物になってくれるかもしれない。クロウリー家を維持するだけではなく、より発展させる逸材になってくれるかも・・・。
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