蜜の時間
反抗的な目こそ美しく、
そこに蜜を与えればさらに光り輝くのだ。
多量の蜜はいらない。
たとえば。
100欲しいと言われれば、1与える。
全部と言われればたったの一滴。
だけど蜜を与える前が絶望的であればあるほど、蝶は欲深くなっていくのである。
「…ルリちゃん。ゲームをしましょうか」
ニコリ、と人の良さそうな顔でニビさんは笑った。
だけど俺は知っている。
ニビさんのこの顔は、もっとも中毒性の高い蜜を与える時の顔であることを。
よく冷えた、薄い黄金色の酒を二つのグラスに注ぐ。
U字形のソファに座り、キャストにそれぞれ挟まれた二人は、互いに違う種類の笑みを浮かべていた。
困惑と、疑心。
それが下っ端の俺でも読み取れるということは、【ルリちゃん】はニビさんに本当の意味で勝つことはできないと、すでに悟った。
「……なにをするんですか?」
「簡単よ。クレオパトラの遊び」
ね、ちょうだい。
そう俺に差し出された白い手に、ゾクリと背中になにかが走った。
「この二杯のグラス、中身は同じに見えるでしょ?」
「……はい」
「でもね、一方はシャンパンでもう一方は炭酸で割って、金箔を入れた酢なの」
「………!」
「シャンパンなら勝ち、酢なら負け。…どう?」
色気たっぷりに微笑むニビさん。
そしてオーディエンスはすでにこのゲームに乗り気である。
騒がしかった店内は落ち着き、中央に位置するこの席に注目が集まっていた。
「ルリちゃんが勝ったらあなたが好きなこの店のキャストを一週間だけ【専属】にする」
「……あなたが勝ったら?」
「いらないわ。私はゲームを楽しむだけ」
「…………じゃあ、こちらで」
ニビさんの左手のグラスを選んだルリちゃん。
互いに目を見つめ合って、合図もなく同時に全てを飲み干した。
「……おいしい。シャンパンだ」
「負けちゃった。こっちは酢よ」
ニビさんはくすりと笑った。
「さて、どうしましょうか」
酢を飲み干してもなお、涼しげに微笑むニビさん。
ほんの少し口元を拭い、それ以外は呼吸ひとつ乱さない。
その姿は少し異常である。
「約束通り、キャストを選んでいいわよ」
【いつものように】ルリちゃんにリストを差し出した。
ルリちゃんは目を一瞬輝かせて、だけど落ち着いた様子でこう言ったのだ。
「オーナーもキャストの一員ですのね?」
「……えぇ」
「じゃあオーナーを一週間、私専属のキャストにしてください」
いいでしょう?と勝ち誇ったようなルリちゃんの笑み。
それが仕組まれたものであるとは知らず、ニビさんから奪い取ったような気持ちなのだろう。ニビさんは態と浅く息を吐き出して、まるで観念したかのように呟いた。
約束は守るわ。
すぐにオーナーを呼び出したニビさん。
そして急いで駆けつけるオーナー。
だけどその表情はこの後遊戯に慣れきっていて、今回も我等が女王様のシナリオに従う模様。
オーナーはすぐにこの状況を察し、ルリちゃんの隣におとなしく腰掛けた。恨めしそうな目をニビさんに負けながら。
ルリちゃんはそれにご満悦なようす。
ニビさんはただ微笑むだけだった。
次の日。
ルリちゃんは開店と同時に入店した。
店の一番奥にある四人掛けソファに新人キャストの案内も聞かず勝手に座る。
そして偽の微笑みを見せて別の客の応対をするオーナーを見て、ニッコリと微笑んだ。
いつから俺はアンタの下僕だよ、と思いつつオーナーを呼びに行った。
昨日、ルリちゃんはオーナーにアフターを強請ったけどウチの店ではそういうことをやっていない。
あくまでキャストには人権があって、客の言いなりになざるを得ないふたりきりなんてさせない、と決めたのはニビさん。
そのおかげで閉店で俺たちの勤務は終わるし、客に個人情報を漏らさずに済む。
……だからこそルリちゃんは必死なんだろう。
他の店なら簡単に手に入れられるはずの電話番号がもらえない。
ふたりきりになれる時間なんて皆無。
「……ご指名、ありがとうございます」
普通のキャストのようにルリちゃんに膝を折ったオーナー。
心の中は酷く荒んでいるに違いない。
こんな小娘に俺が跪くなんて、と。
「お酒、飲みたいなあ。甘くて、美味しいの」
「………」
「お金なんて気にしないでどんなに高いお酒でも使ってください。お金ならパパがいっぱいくれるの」
気持ちばかりの作り笑いを浮かべるオーナー。
女として攻める服装でオーナーの左腕に擦り寄るルリちゃん。
だけどその仕草にあくまで下品さはなく、かといって下心は隠しきれていない。
その様子に仕方がなさそうに一瞬表情を歪めたが、そのまま世間話をすることにしたらしい。
「…ルリさん、お仕事は?」
「ううん。まだ大学生です」
「御家族と暮らされているのですか?」
「ひとりぐらし。パパが使わなくなったマンションを譲ってもらったんです」
まだ、という言葉に嫌悪感を覚えてしまうのは悪いだろうか。
この業界には大学行くために働いている奴が大勢いる。
中学、高校卒業後ここに身を沈めたやつだって。
俺自身、最終学歴は高校だ。
根本的にルリちゃんと俺たちは違うのだ。
この街の奴らとは。
そしてニビさん、オーナーとも。
綺麗に、大事に育てられたお姫様なのだ。
しかしルリちゃんは仮にも客だ。
そんな偏屈な思いを殺し、笑顔でボトルをオーナーに渡した。
そんなときだった。
カラン、カラン、カラン、カラン……
この店のドアには大きな鈴が付けられている。
甲高い音ではない。低く、とても響く音。
それが鳴ると来客を表し、若いキャストが客の応対に当たるのだが。
「ナンバーワンにご指名でーす!」
呼ばれたのは俺。
振り返って扉の方を見やると、ニビさんがこちらに向かって微笑んだ。
ルリちゃんに断りを入れ、ニビさんの元に向かう。ああ、客の差別化はご法度なのに。
ニビさんの元に向かい俺の表情は、最高に緩んでいるに違いない。
「どう、ルリちゃんの様子は」
「上々ですね。あの様子じゃすぐに堕ちます。オーナーにメロメロですよ」
「………そう」
いつものように、どぎつい酒を飲むニビさん。
その表情は無で、こういうとき、俺はどうすればいいのかわからなくなる。
俺はニビさんが言葉を発するのを待つしかない。
賑やかな店の、一際賑やかな空間。
そこをジッと見つめ何かに思いを馳せているニビさん。
その姿はどこか浮世離れしていて、俺の胸はドキリと音を立てた。
「さて、キラはなに飲む?」
「あ、いいんですかー」
「度数高いのやめてよ。今日はそこそこ愚痴聞いて」
「珍しいですねー、何かありましたか?」
「客が商品を汚したの。もう使い物にならないわ」
「じゃあハイボールを一杯。今夜はニビさんの愚痴に付き合いますよー」
そうして彼等の夜は更けるのだ。
「さて、次は…?」
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