3-3
翌日、芹澤君は何事もなかったかのように登校してきた。マスクをつけたり、薬を飲む素振りもなくて。そこにいたのはいつもの彼そのものだった。
放課後、わたしたちはいつものように図書館に集まった。閲覧席はいつものように人がいなくて、眠たげな図書委員が当番日誌にウソを書き込みながら居眠りを決め込んでいた。
「それで、提案って?」
わたしは机上にiPodを置いてから言った。まるでタバコの箱を並べるみたいに。
「ああ、まず一つがね――これ、君にあげようと思って」
見ると、芹澤君はいつものスクールバッグの他に、大きめのトートバッグを持っていた。かわいらしい犬のイラストが描かれたもので、たぶんスーパーで何かを買うともらえるノベルティみたいな、そんな感じのバッグだった。
A4サイズどころA3サイズまでも余裕で入ってしまいそうな大きめのバッグには、一枚の写真が入っていた。
「これって……?」
「ジャケット写真、レコード盤のサイズで印刷してみたんだ。といっても、ただプリントアウトして、ボール紙に貼り付けただけだけどね。切り張りしてレコードが収納できるようにはしてみたけど。中身はただのボール紙だから。ハリボテだけど」
ハリボテ。でも、わたしにはまるで本物のように見えた。
表にはわたしがグラジオラスの花を振り回す写真。薄明の中、顔を鉄橋のほうへ向けたまま、わたしは今にもブーケトスでもするような勢いで花束を振り回している。そして右上には、きちんと『June Amamiya』の文字があった。
「すごい……これ、ほんとにレコードみたい」
「だろう? 昨日、熱が下がってから暇だったから色々やってたんだ。これ、あげるよ」
「いいの?」
彼は小さくうなずいた。気恥ずかしそうに、うれしそうに。
レコードケースの裏面には、彼が撮ったビール瓶にグラジオラスの花を挿した写真もあった。ハイネケンの瓶は淡く緑に透き通って、コンクリートの大地に光を投げかけている。透き通った写真だった。
「いいよ。それ、たぶん僕が持ってるより雨宮さんが持ってるほうがいいと思うから」
「ありがとう……でも、どうしてこんなこと?」
「なんだろうね、たぶん君の音楽をもっと良くしたいって、そう思ったんだよ。僕は」
「どういうこと?」
――良くしたい?
一瞬、わたしはその言葉に不安を覚えた。
そしてその予感は半ば的中した。
「ひとつ考えがあって。やっぱり僕は、雨宮さんの曲が好きで。それで、雨宮さんがライブをする姿が見たいんだ。十月に浦和のライブハウスで学生バンドのコンテストがある。そこに出ようよ、バックバンドを従えて」
「バンドコンテストにわたしが出るってこと? バックバンドって、わたし宅録専門だけど……」
「そう言うと思って、実はもう知り合いに声をかけたんだ」
「え?」
わたしがふと漏らしたその「え?」は、「なんで、ちょっと待って」の「え?」だった。でも、芹澤君の目には、耳には、わたしの言葉はもう聞こえていなくて。そこには、彼の頭の中にある『シンガーソングライター・雨宮純』を追い求める『フォトグラファー・芹澤千春』がいて。彼は、わたしのことなんてもう無視し始めていた。
「これ、僕の写真仲間でベースやってるやつなんだけど。そいつにためしに雨宮さんのデモテープを送って、ちょっと弾いてもらったんだよ。ドラムも少しだけ打ち込みで追加してもらって、こんな具合に――」
彼のスマホから音源が流れ出す。
激しいスラップと、正確無比に刻まれるミニマルなドラムマシンの音。そこに加工されたわたしの声が乗った。ギターの音も少しだけ追加してる。わたしのコード弾きだけじゃなくて、歪んだリードプレイが追加されていた。知らないリフが追加されてる。こんなの、わたしの曲じゃなかった。
「どうかな? これでコンテストに出てみようよ。ぜったい成功する。雨宮さん、バックバンドを従えて歌うんだ。そうしたらきっと――」
「違う」
わたし、彼の手からスマートフォンを叩き落とした。
耐衝撃ケースにくるまれたそれが、音を立てて板張りの上に転がり落ちた。コトン、コトンと半回転して、それでも音楽を鳴らし続ける。
「わたし、こういうことがしたいんじゃない。ねえ、どうしてこんなことしたの……?」
「こんなことって……? いや、僕は雨宮さんの音楽をよりよくしたいと思って――」
「じゃあ、なんで一言わたしに断りも入れてくれなかったの?」
「君を驚かせようとして」
「どうして驚かせる必要があるの? サプライズ? 彼氏気取り?」
違う、そんなんじゃない。
わたし、そんなんじゃない。
「わたし、この曲はスミスのAsleepみたいにしたかったの。言ってることわかる? なんていうか、あれよ。わたしってば『サウンド・オブ・サイレンス』をバンドアレンジにされたポール・サイモンみたいな気分。いいえ、違うわ。わたしがポール・サイモンなんじゃない。あなたがブライアン・エプスタインなのよ」
「それ、どういうこと?」
「さあね。この話、終わりにしよう。アルバムジャケットも返す。わたしは、わたしで曲を作りたいの。芹澤君の曲を作りたいわけじゃないから」
ちがう、そういうわけじゃない。
でも、わたしは、きっと……。
わたしはiPodだけ取り上げると、図書館を後にした。そのあとをすぐに芹澤君が追ってきたけれど、無視し続けた。
でも、彼だって男だ。早歩きのわたしに追いつくなんて簡単なことだったし。わたしの肩をつかんで強引に立ち止まらせることぐらい、造作もなかった。
図書館から後者に続く通路。誰もいない空間。軽音部の下手なチューニング合わせと、吹奏楽部の音出しが響いている。わたしは、振り返って彼を見つめた。
「ごめん、謝るよ。本当にごめん。でも、これはぜんぶ君を思ってやったことなんだ。それだけは信じてほしい」
「信じるけれど。でも、どうして? どうして勝手にこんなことしたの?」
そのとき、わたしはこの問いを口にしながら気づいた。わたし、確かめたかったんだ。一昨日の夜に夢見た芹澤君が偽物だと。彼がわたしに対して陳腐な恋愛感情なんて、劣情なんて抱いてないと確かめたかったのだ。わたしたちの愛はそんなものじゃなくて、共謀のようなものだと。そう確かめたかったんだ。
だけど、それは間違っていた。
「それは、僕が君のことを好きだからだよ」
「……そう。わたしは嫌いだよ」
わたしは、彼の手を振り払った。
それがアーティストのわたしでなくて、一人の女としてのわたしに向けた言葉だって、わかっていたから。
わたしはイヤフォンを耳に挿して、大音量でスミスを聴くことにした。早歩きで、いや駆け足で。モリッシーが耳元で歌うのを感じながら。
劇伴:Last Night I Dreamt That Somebody Loved Me / The Smiths
昨日の夜、夢に見たんだ
誰かがわたしを愛してくれる夢を
希望も、傷つくこともない
それはただの誤報だった
Last night I dreamt
That somebody loved me
No hope, no harm
Just another false alarm
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