第2話 あなたを想って 1
『百万ドルの夜景』って言葉の意味を、数年前までまったく勘違いしていた。
いつの時代のレートかはさておき、てっきり百万ドルに相当するぐらい価値のある美しい夜景のことをそう呼んでいるのだとばかり思っていた。
「正樹、アンタがモテない理由がわかった。そんなのググんなくたって小学生でも知ってるわよ」と、さんざん姉にバカにされた数日後に、当時何となく付き合っていた人に連れて行ってもらった長崎の稲佐山で、それこそ百万ドルでは足りないほどの、息をするのも忘れるぐらいきれいな夜景を見た。
年上の、やさしい人だった。
何となく付き合っていたその人と、二人きりで過ごした最後の夜だった。
壁のほぼ一面全部が窓になっているこの部屋から見える都心のビル群の夜景もなかなかにきれいで、もしも今、いちばん逢いたいと思っている人がここにいたら、あの時のように言葉も交わさないまま、ただずっと一緒にこの景色を眺めていられる気がする。
今、いちばん逢いたい人。なんて、本人の前で言えたことがない。その彼に明日、三週間ぶりに逢える。
今月のはじめに彼に逢った時、「月末は本社に出張だから一週間いない」と告げると、「帰ってきたら、連絡して」と言っていた。さっきまで俺の身体がそこにあったことを示すシーツのくぼみを指でたどる彼の、薄いケットから出ている白い肩と首筋のあたりにくすんだ紅い痕をいくつか付けてしまって、夏じゃなくてよかったなと思ったんだ。
ヘッドレストと背中の間に無駄にデカい枕を押し込んで座る位置を確保してから、スマートフォンを操作した。いつも、「もしもし」と最初に低い声で言うのはこっちで、俺からの着信だとわかっているからだろうけど、彼はたいてい、「はい」とか「なに?」と話し始める。けど、今日は違った。こっちが口を開くよりも先に、「もう、帰ってるの?」と、弾むような声が耳に飛び込んできた。
「いやいや、ごめん。まだ東京。そっちに帰るのは、明日の夜」
瞬間、あっと息を呑むような、声になるようでならないほんの一瞬の沈黙の後に、
「何それ! ごめんって」
それだけ言うと、電話の向こうでいつもより半音高い笑い声が上がる。
「帰ってきたんだ!」って、そう思ったんだろ? ……なんてことは言わないし、聞かなくても充分。
約束した通り、「明日、帰るから」とだけ伝えればそれで用件はおしまいなんだけど、彼は彼で「定期入れの端が破れてきたから、今度一緒に買いに行きたい」とか別に急ぐでもない用事の話や、俺は俺で「ほぼ毎晩、こっちの上司と吞み歩いて胃が痛い」とか「今日は早く終わったから髪を切りに行った」とか、とりとめのない話をなかなか終わらせようとしない。
「どんな髪型? 前のも似合ってたけど」
「二センチぐらい切っただけだから、ほとんど変わんない。パッと見ても気づかないよ、たぶん」
「気づくよ」
真澄がそう言った後にふと言葉が途切れ、そんな隙間にポトリと声を落とすように彼が言った。
「今すぐ正樹さんのところへ行きたいなぁ」
「あ、……」
『明日帰るのに?』そう言おうと思って、『あ』で引っかかって、でも何とか言えた。
「だって、なんとなく声がさみしそうだから」
真澄の言葉が、ぽろりと耳の中にこぼれ落ちてくる。ついさっきまでどうでもいいことを話していた時よりも、もっと近くで彼の声を聞いているようで。
「俺のところへきて、どうするの?」
電話の向こうで彼は、そうだなぁ……と少し考えた後に、
「正樹さんが今、して欲しいと思ってることを、してあげたい」
そう言うと、いつものようにふふっと笑って、
「今、もうベッドの中?」
「うん。もう風呂も入ったから、あとは寝るだけ」
「ホテルのベッドは、暖かい?」
いつもの、小首をかしげる彼の仕草が目に浮かぶ。
出張先での一週間を過ごしたこの眺めのいい部屋はいわゆる普通のシングルルームだから、広くはない。というか、狭い。けどベッドがダブルサイズなのは、ガタイのいい身としてはありがたい。
「それより、エアコンを強くし過ぎて部屋が暑いぐらい。ちょっと弱める」
もたれかかっているヘッドレストの端にある空調のスイッチに手を伸ばす。部屋に帰ってきてスイッチを入れた時に温度調節をしなかったせいもあるけれど、気がつけばやけに部屋が暑い。別に俺の身体が勝手に熱くなっているわけではない、と思う。
「それなら、裸になっても寒くないね」
「ん? うん。そうね」
「じゃあ、まず僕が、正樹さんの着てるものを脱がせるよ。シャツだったらボタンはずすんだけど……、今着てるのはパジャマ?」
「ブー。残念ながらTシャツです」
「じゃあシャツを着てるフリをして。目を閉じて」
「それ、今俺がして欲しいと思ってることなの?」
俺がそう言うと、ぷっ、と噴き出すような小さな音が聞こえた後でアハハッと彼が声を上げて笑った。からりとした彼の笑い声が心地よかった。
「ごめん。違った? 僕が、正樹さんにしたいことなのかな。ハズレだった?」
「いや。だいたい合ってるよ」
「ふふ。じゃあ、もう一度。ボタンをはずす間、目を閉じて」
「……目、閉じるのは、……なんで?」
あぁ、もう。
自分で言っておいてナンだけど、俺ってこんなふうにいちいち思ったことをよく考えもせず口にする性質だったかな。そんなんじゃあ、いつか可愛い恋人を興ざめさせてしまうかもしれない。けど、よくできたもので、俺の可愛い恋人はそんな面倒くさいおっさんをあしらうのがとても巧い。
「ボタンをはずす間だけだよ。僕ね、キスしながらボタンをひとつずつはずしていくの、得意なんだ」
……ほぅ。
そんな特技をお持ちだったとは。
電話口から聞こえる声を聞きながら、端末を持っていない右手の甲をぼんやりと眺めていた。俺よりも少しだけ小さくて、節くれだってもいない彼の手を思い出しながら。
これまで交際相手とは、「長くても三か月ぐらいしか続いたことがない」と言っていた真澄と知り合って、半年が過ぎた。お互いにそんなことは口にしないけれど、彼にとってはじわりと最長記録を更新し続けている。
彼は俺を「土屋さん」じゃなく「正樹さん」と呼ぶようになり、俺は今では彼を「川久保くん」とは呼ばず「真澄」と呼んでいる。それでも、当たり前だけどお互いのすべてをわかりあえているわけじゃないし、知らないことはたくさんある。
小さめの顔におさまったくるりとした丸い黒目と、ふわっとした黒髪。まっすぐに伸びた姿勢のいい背中。こうしてぼーっと電話で話していても、3Dホログラムにはっきりと彼の姿が映し出せるぐらい。
その彼が、つぼみのバラのような色をした唇を知らない誰かと合わせたまま、シャツのボタンをひとつずつはずしていく。……ところを想像しかけてやめた。
けど、きっとそうやってきみは俺の知らない誰かを悦ばせてあげていたわけだし、それとも、きみにそういうことを体で教えたヤツがいたのか、な。……いたとしてもおかしくはないよな。とか思って、じりっとしてしまうこの大人げのなさ。
「どうしたの?」
「や、なんでもない。それより真澄クンは、着たままなの?」
わざとふざけてクンなんて言ったことを、「えっ?」と笑って拾ってくれながら、
「……じゃあ、正樹さんが脱がせて。同じように」
「俺は、そんなに器用じゃないよ」
「じゃあ、唇だけちょうだい」
そんな会話をした後に何を話せばいいのかわからなくて、思わず黙ってしまう。何か言わなきゃ、と思って口を開きかけた時、彼が俺の名を呼んだ。
「なに?」
「明日、正樹さんの部屋に行ってもいいかな? 僕のほうがたぶん帰りが早いから」
「あぁ。もちろん」
彼の家とは四駅ほどしか離れていなくて、車窓に広がる景色を眺めながら各駅停車で二十分も揺られていれば、お互いの家に辿りつく。仕事の帰りに時間が合うようなことがあれば夕食を一緒に食べたり、何も予定がない週末はうちに来たり。そんなふうに過ごす機会が増えたから先月、合い鍵を作って渡したところだった。小さな鍵を大事そうにぎゅっと掌に握っていた彼を愛おしく思って、それで……、
「じゃあ、明日帰ったら、さっき真澄が言ったこと、全部やってもらうから」
「いいよ」
そう言うとまた、ふふっと電話の向こうで笑う。
「なに? 俺、おかしなこと言ったかな」
「全然。それより、さっき言ったことだけでいいの?」
…………っ。
彼の声がそうさせるのか、こうして話していると自分が今いる味気のない四角い部屋に、この一週間感じたことのないやんわりとした甘い空気が広がっていくように感じる。彼の匂い、とまではいかないけれど、かすかに彼の気配を感じるような。それを壊さないように、背中にあてている枕の位置を直し、ぐーっと背筋を伸ばしてから、言った。
「真澄クン、もうそれぐらいにしておいて。だいたい、さっきからきみの声を聞いてるだけでどうにかなりそうなんだから」
俺は。本当に。
彼の前で、常に余裕しゃくしゃくな大人でいられることが目下の課題だろうか。たかだか一か月弱、顔を見ていないぐらいで。たった一週間、彼のいない街に身を置いているぐらいで、何をそんなに物欲しげに。
ただ、彼の姿かたちを見つけられない街は時々フッと音が消えてしまったみたいに静かになる瞬間があって、こんなにも賑やかな都会なのに、風だけがすーっと吹き抜けていくようでいろんなものが足りない気がしている。この一週間ずっと。
……なんて。
でも、まぎれもない事実。
けどまぁ、何というか、初めて恋を知った中学生でもあるまいし、いいトシしてそんなことをぼんやり考えている自分がアホくさいのと大いに恥ずかしいのとで絶対に本人には言えない。
「明日、部屋で待ってるから」
「わかった。明日な」
「うん」
そうだ。『明日帰るから』を言うためだけに電話したんだった。だからもう何も話すことはないんだけど、「真澄、」と呼び止めた。
「なに?」
「明日、抱くから」
ほんのわずか黙った後に、「おやすみなさい」と彼は言った。
電話を切ったら、部屋の中は思った以上に静かで、意味もなくこほんと咳をしてみた。『抱くから』なんて、わざわざ口にするか? と思ったけど、まだあと一秒でも二秒でもいいから彼と言葉を交わしていたかった。
窓の外を見ると、無数の灯りがちらばった真っ黒い海みたいな都会の夜はひんやりと冷たそう。けど、逢いたいと思う人がいて、その人が自分を待っているっていうだけで、自分を包む世界がほんのり暖かみを帯びてくるように感じられる。これは効きすぎているエアコンのせいじゃないってことは、俺にもわかる。
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