なんてことない恋の始まり

boly

第1話 なんてことない恋の始まり







「カラダ、柔らかいんだな。バレエでもやってた?」


 ベッドの上で、細い両脚をアルファベットのWの形のように広げてぺたんと座り込んだその男の姿に、思わずそんな言葉が口をついて出てしまった。バレエって。自分で言っておいてナンだけど普通、男に向かって聞かないよな。


「ふふ。バレエ? 中学、高校で体操はやってたけど」


 ほら、こんなのもできるよ、と百八十度の開脚を披露したかと思うと、上半身をぺたりと前に倒しベッドに身体を張りつけた。女だったらまさにバレリーヌ。


「バレリーヌ? ナじゃないの?」

「ごめん。それ、フランス語」


 図体がデカい上に、この時間だから髭まで伸びてきて、そんなおっさんが趣味でフランス語の勉強をしてるなんてガラじゃないにもほどがある。そんな気恥ずかしさをごまかしたくて適当に話を転がす。


「何だっけ? 男だけのバレエ団があったよな」

「トロックス? グランディーバ?」

「そうそう、そんな感じのヤツ」


 そのしなやかな身体を持つ男とは、数時間前に行きつけのバーで出会った。男を好きな男が、恋人になれそうな人を探しにやってくるバー。駅前の賑やかな通りから一本、二本、路地を入ったところにある煉瓦造りの喫茶店の二階で、ひっそりと灯りをともしている店。


 学生時代にこの街に住み始めて、卒業する少し前にそのバーを知って、でも店の扉を開けたのは社会人になってから。それからもう五年。最近は週末にしか顔を出さなくなったけど、通い始めた頃は週に二、三度は足を運び、くだらない話をして時間を過ごしていた。店で知り合って、付き合った人も過去にはいた。


 最近見かけるようになった彼は、この春に社会人になったばかりだという。マスターによれば、「いいコだよ。ちゃんとお付き合いができる人を探している、ちゃんとしたコ」。

 俺は大学で一年ダブっているから、彼は六歳年下だった。華奢な体を包むスーツの肩がしゃんとしていて、そんなところに二十代前半の青さをフッと感じた。


 カウンターで並んで座って話しているうちに、ヘリに砂糖をまぶしたバウムクーヘンが好きだとか、飛行機が怖いから海外旅行なんて行きたいとも思わないとか、そんなに読んではいないけど内田百閒の「ハマクラカム」は妙にツボだったとか、これまで二十八年間生きてきてほぼ誰とも意気投合したことのないポイントがおもしろいほどにヒットして、酔った勢いも手伝って「これはもう運命だね」とかナントカ言って何度も「乾杯!」を繰り返した。


 彼が乗って帰るはずだった終電がとっくになくなっても、まだ話し足りない気がして、「うちに来る?」と誘ったら、彼はうつむいて小さく頷いた。そんなところで妙に可愛くなられると、もともとそんなに持ち合わせていない大人の余裕がさらに目減りして、底をついてしまいかねないんだけどな。……とかアレコレ思いながらも、明かりの消えた駅前を、彼の手を引いて家までの道を歩いた。




 風呂上りに貸したTシャツは、俺のサイズだから当然、彼にはデカい。そこから伸びた脚は、思ったより細くて白かった。体操、っていったらそりゃ屋内でするものだし。同じ体育会系でも、炎天下の校庭を何周も走り回っていた脳みそイコール筋肉の俺みたいなのとは、そりゃあ肉付きも肌の灼け方も違って当然。そして、俺とは全然違うその彼の身体つきに、先ほどから妙にそそられっぱなしで。


 さっきまでの開脚はきれいにたたんで、女の人がやるようにまたWの字に脚を折り曲げて座っている彼の腕を取り、胡坐をかく姿勢になった自分の太腿の上に向かい合うように座らせる。


「これ、イヤ?」


 と聞くと、薄く微笑んでNO、つまり「いいよ」という意味の返事をして、彼の両腕が俺の首に巻き付いた。唇を重ね合わせようとして、彼は一瞬、動きを止める。外袋をかみ切るために、俺がゴムを口にくわえたままだったから。彼がふいに、そのゴムを唇ではさんで取り上げ、ベッドの隅に吐き捨てた。


「何もしなくていいから、して。僕、もう、待てないよ」

「ダメだよ。取って」

「いや……」


 彼は瞳を閉じ、両手で俺の頬を包むと、柔らかな舌を唇の奥に押し込んでくるようにして唇を合わせた。ぬるりとした感触の舌が口の中を這い、小さな喘ぎを漏らしながらせわしなくいくつものらせんを描く。いつのまにかぴったりとくっついていた胸から、どくんどくんと心臓の鼓動が高鳴っているのが伝わってくる。


「だめ? 悪い子?」


 舌を離して、唇だけはくっつけたまま、小さな声で彼が言う。その仕草や彼の言葉を、可愛いと思うと伝えたら、彼の機嫌を損ねてしまうだろうか。そんなことが気になるぐらい、すでに彼のことを気に入ってしまっている。けど……。

 ねぇ、もっと俺を警戒しなくていいの?

 俺も、彼に対して構えたりしないの?


「……本気にしてもいい?」


 っ、まただ。

 彼の舌と唇と、柔らかく熱い肌に触れた気持ちのよさに頭がぼーっとし始めているせいなのか、さっきのバレエのように思っていることをそのまま、考えもせずに口にしてしまった。けれども彼は、二人の間に流れる空気を変えることなく、


「ん?」


 と小首を傾げた。近づきすぎるぐらいに近づきあっているその顔を、もう一度引き寄せて強く唇を合わせ、舌をねじ込んだ。背骨のあたりをまさぐる彼の指に、力がこもっていく。さっき、「待てないよ……」と言った、彼の甘えるような声が頭の中をゆっくりと行ったり来たりしている。


「悪いコだよ。けど、良いコより悪いコに惹かれるのは、俺だけじゃないんだろうね」


 さっき彼がしたように、唇をつけたまま答えた。それだけ言うと、背中に回した腕で身体を支えながら彼をベッドへ倒し、ダブついたTシャツの中へ手を滑り込ませて脱がせた。昼間に飲んだカプチーノの表面のミルクのような色をした彼の肌に、いくつもの赤い痕を残すように強く唇を押しつける。鎖骨と鎖骨の間の窪みや、喉仏のあたり、首筋、耳たぶ。その裏。乳首の先端を親指で擦ると、「……ぁ、ん」と声を上げ、そこから灼けるように徐々に熱が広がっていくのがわかる。人差し指と中指ではじく。親指で擦る。口に含んで、キャンディーを舐めるように舌で転がす。どんどん甘くなっていく声も唇も全部飲み込んでしまいたくて、開いた唇のその奥へ舌を滑り込ませ、かき混ぜる。


「もう少し、脚、開いてみて」

「……じゃあ、貴方が開かせて」


 とろり、と果汁が滴りそうなぐらいに熟れた瞳と声。薄くて硬い筋肉のついたしなやかな太腿の内側に唇をつけ、何度も痕をつけるように吸い付くと、気持ちがいいのか身体を捩るようにして艶かしい声で啼いてくれる。


「ねぇ。可愛い、って言われるのは、イヤ?」

「やめて、それだけは……」

「こんなに可愛いのに」


 口の中で彼を放出させて、その後に彼の望み通り、奥へ奥へと突き上げた。抱かれるのに慣れた体をしているのに、それには不似合いなぐらいのあどけない仕草を時折見せる。けど、それを指摘されるのはイヤなんだ。


「後ろからも挿れても、いい? かな」

「……」


 彼が何か言ったような気がしたけど聞こえなくて、でも唇の端っこが頬に向かってカーブしていたから、OKということなんだろう。俺も彼も、さっきからずっと呼吸が乱れたまま一向に整う気配がない。けど、汗ばんだ体と体を離すのがイヤで、いつまでもくっつけていたかった。


 想像した以上にきれいな背骨のラインに沿って舌を這わせると、柔らかい身体を撓ませて、とぎれとぎれの声が波のように寄せては返す。肩甲骨のくぼみ、脇腹、腰、その全部が、波がうねるように大きくしなる。このベッドがきしむ音を久しぶりに聞いた。


 テレヴィジョンのトム・ヴァーレインの何が好きかと言ったら、あの悩ましい歌声だ。長身で細身なルックスももちろん好みだしギターの音も好いけれど、あの声以上の官能を覚える音にはまだ出会えていない。ヴァーレインはかつての恋人に「ミュージシャンの中でいちばん美しい首の持ち主」と言われていた。天は二物どころではなく、幾つものギフトを彼に与えたんだな。いったい何十人、何百人の人がその美しい首にくちづけ、舌を這わせ、歯で噛み、自分だけのものにしたいと願ったんだろう。


 今、俺の目の前にある彼の首筋も、たぶんヴァーレインのそれと競えるぐらい充分に魅力的だ。肌の白さや肌理の細かさももちろん、さっき彼と長い長いキスを何度も交わした後で、気がついたんだ。無垢に見える彼の瞳の奥のほうに、蠱惑するような昏い光が一瞬差し込んだことに。彼の中の何がそうさせているのか、俺にはまだわからない。ただ、それと同じ匂いをこの肌にも感じる。吸い寄せられるままに唇をつけ、これは自分のものだという証のような痕を残してしまいたい。そんな衝動を掻き立てるだけの引力を彼の肌は持っている。





 翌朝。彼が起きてくる前にコーヒーを淹れ、淹れた後でミルクも牛乳も切らしていることを思い出した。


『ちゃんとお付き合いができる人を探している』


 ……ということは、こっぴどい目に遭わされた過去でもあるんだろうか。それとも……。

 俺は彼にとってちゃんとお付き合いできる人間か、それとも一晩限りの相手なのか、それは彼が決めることだ。……けどなぁ。二十八にもなっていつまでも受け身なのもどうなんですか、と胸の内で自分をつついてみる。


 リビングのドアがぎぃときしみ、昨夜貸した俺のTシャツにアンダーウェアだけの恰好をした彼が、小さなテーブルの向かい側に座った。


「コーヒーはブラックでも平気?」


 俺の言葉に微笑んで頷いた彼の前に、濃紺のマグカップを置いた。湯気の立ったマグに唇をつけ一口飲むと、おいし、と小さくつぶやいた。両手でカップを持ってコーヒーを飲む男性を見たのは、初めてだ。


「僕、これまで一人の人と長くお付き合いしたことがなくて」

「長く、ってどれぐらい?」

「三か月も続けば」

「ははっ。俺、三か月だったら三回ぐらいしか会えないうちに終わっちゃうな」

「一人でいるのは寂しいくせに、あまりにも近い距離に他人がいることにいつまでも慣れなくて、いつも自分から離れちゃう。それでまた寂しくなって……」

「また来ればいいんじゃない? ここでもいいし、昨夜の店でもいいし。俺、そういう話を聞くのは、結構得意だから」


 俺が話している間、小さく「あ」という形で開いたままだった唇をきゅっと結んで、テーブルに置いたマグカップに彼が視線を落とした。……と思ったら、ぱぁっと赤みがさした顔を上げ、


「今日、髪を切りに行くんですか?」

「え? えぇ? 何それ」

「昨夜、マスターとそう話してたから」


 ……あぁ。

 店に顔を出したのが久しぶりだったせいか、俺がカウンターに座った途端に、「髪が伸びすぎ」とか、「主任になったんだからちゃんとしなさい」とか、マスターにいきなりオカンが憑依して。「ハイハイ」とあしらっても止めないものだから、「明日切りに行くから!」とムキになって答えたんだ。聞いていたのか、君はそれを。


「僕、たぶん最初にあの店で土屋さんを見た時から、ちょっと気になっていて」

「髪型が?」

「違いますよ」


 ふふ、と唇をすぼめて笑う彼の顔をこちら側から見つめていると、彼が「ん?」と小首を傾げる。昨日、同じ仕草をベッドでも見せてくれた。ひとあたりの好い顔。きっと職場でも、友達の前でも、明るい時間帯にその表情が曇ることはそんなにないんだろうな。

 君が、大切だと思う相手に対してどうやって距離を測ればいいのか、息苦しい思いをしていることにたいていの人は気付かないんだろうね。


「あのさ、君がもしも、俺のものになってくれるなら、ね」


 ごとり、と彼がテーブルにマグを置く音がやけに大きく響いた。


「俺だけに見せる顔、見せてよ」


 君が俺のものになるなら、いつも笑ってばかりいなくたっていいんだよ。それに、


「キライになったら離れればいいから、とかは言わないタイプだけど、好かれるための努力は惜しまないほうだから」


 ふふ、とまた彼は笑って、


「そういうちょっと強引なところ、僕、嫌いじゃないです」

「強引? これって強引なの? 俺としてはわりと紳士的だと思うんだけど」

「紳士は『俺のものになるなら』とは言わないと思います」


 そう言いながら、あはは、と彼が大きな口を開けて笑う顔を正面から初めて見た。こういう「初めて見た」とか「初めて知った」を積み重ねていくのが、恋愛の楽しいところだと思わない? と、そのうち彼に話してみよう。





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