【短編】恋の話

日和かや

初恋

「大学時代の先輩が飼ってたんだけどさ、海外に転勤が決まっちゃって、どうしても連れていけないらしいんだよ」


そう言って、なんの前触れもなしに幼なじみの康介こうすけが連れてきたのは、1匹の白いフレンチ・ブルドッグだった。


「俺も今のアパートじゃ飼えないし。来月新居に移ったら引き取るから、それまで梨奈子りなこで預かっててくれ。頼む」

「でもわたし、犬の扱い方とか分からないわよ」

「それは大丈夫。俺が毎日通って世話するし、散歩も連れてくから」

「まあ、それなら」

「よっしゃー!」


それだけ言うと、康介は先輩の家で使っていたという犬のおもちゃや食器、ドッグフードなど、必要な物を一通り置いていった。

不貞腐れたように部屋の隅で丸まっている犬に、試しにおもちゃを振って呼んでみたけれど、反応はない。

知らない家に突然置いていかれたんだから、それも無理ないことか。



そんなことに気を取られていて、ふと時計を見るともうすぐ18時30分。

まずい。

準備しなきゃ。

慌てていると、案の定インターホンが来客を知らせてきた。


「こんばんは。よろしくお願いします」


約束の時間どおりレッスンに訪れたのは、うちに通いはじめて3年が経つ社会人の女の子。

仕事に慣れて落ち着いてきたので、自分で稼いだお金でこどもの頃から憧れていたピアノを習いはじめたという、よくある話。


「あ。マリー! 本当に梨奈子先生の家で預かってもらってるんですね」


それまでずっとわたしに背を向けていた犬が、自分の名に反応して、確認するように彼女を見た。


実桜みおちゃんもこの犬と顔見知りなんだ」

「はい。康介くんの先輩たちのバーベキューに参加させてもらった時に、一緒に遊んだんです。本当は新居に移るまでうちで預かりたかったんですけど、母にアレルギーがあって…。すみません」


ショートボブがよく似合う実桜ちゃんは、昔から長い髪の女性が好みだと言っていた康介と、来月結婚する。


わたしは親の買ってくれたマンションでピアノ教室をしながら、演奏会や伴奏の仕事を受けたり、趣味のサロンコンサートを開いたりする生活をしていて、同じピアノ教室出身である康介は、音大卒業後コンサートホール関係の技術スタッフの会社に入り、現在は音響技術者として働いている。

わたしが他の音楽教室と合同で発表会を催した時に康介に協力してもらい、その時2人は初めて出会ったのだった。

初対面ではあまり接触もなく、お互いの印象はほとんどなかったというけれど。

――女の勘て不思議だ。

あの時わたしは、2人の間に何の確証もない何かを感じてしまった。

原因の分からない胸騒ぎ。


「それじゃあ、始めましょうか」


されるがままのマリーを撫でている実桜ちゃんに声を掛けて、わたしは、切るきっかけのないまま伸びすぎた長い髪を縛りあげた。




毎日世話をしに来ると言っていた康介が実際に来たのは、最初の2日間だけ。

こどもが拾ってきた犬を結局母親が世話をしなきゃいけなくなるっていうのはこういうことかと、こどももいないのに実感した。

康介は昔っからそういうところがある。

ピアノにしたってサボり癖があったし、当番をうっかり忘れるのもしょっちゅうで、その度に何故だかわたしがフォローして、他の人に謝っていた。


ただ、あの頃と違うのは、


「すみません。康介くんが迷惑掛けて。よく言っておきますから」


という2年前までわたしの言っていた台詞を、今は彼女が言っていること。


「だからって、実桜ちゃんに毎日来てもらうのも悪いわね」

「いえ、こちらが無理言ってるんですもん」


週1回レッスンの実桜ちゃんが、毎日康介の代わりにうちへ来て犬の世話をしている。

だけど、飼い主に置いていかれ心を閉ざしたマリーは、散歩も嫌がり、餌もほとんど口を付けずに1日中小さく丸くなったままでいる。

それでもめげずに、彼女は愛情を注ぎ続けていた。


実桜ちゃんは全く捻くれたところのない、素直ないい子だ。

きっと裏で陰口を言うなんてこともしない、良い環境で育ったのだとたやすく想像できる。

本人の芯がしっかりしているからこそ、周囲に安易に流されることがないのだろう。

康介は本当にいい子を選んだと思う。



つくづく恋愛なんていうのは、相性とタイミングなんだと実感する。


たまたまわたしが地方への演奏の仕事が重なっていた時期に、何故だか康介と実桜ちゃんは居合わせる偶然が重なって、わたしの仕事が落ち着いた頃、交際の報告があった。

きっと実桜ちゃんが康介のことを放っておけなかったんじゃないかと思っていたのに、そうでもないらしい。


「康介くん意外と頼りになるんですよ」


なんでも、新生活に向け康介の方が自らいろいろ調べて準備を進めているのだという。

実際康介の方が実桜ちゃんにべた惚れで、彼があんなに誰かを好きになって積極的に言い寄るなんて、驚かされたくらいだった。



――高校生の時、人伝に康介の好みのタイプが「髪が長くて大人っぽいしっかりした女の子」というのを聞いた。

教えてくれた女の子の集団が


「梨奈子のことじゃない? 梨奈子は康介のこと好きなの?」


とはしゃいで揶揄ってきたから


「そんなことあるわけないじゃない」


ときっぱり答えたら、運悪くそこに康介が居合わせてしまった。

気を悪くさせたかと思ったけど、その時康介は笑っていて、その後もう2度とこの話が出ることはなかった。




実桜ちゃんが帰った後、わたしはマリーの顔をしわの間まで丁寧に温かく湿ったタオルで拭ってやった。

図書館で借りてきた本に書いてあったのだ。

毛の短いフレンチ・ブルドッグは、こうやって身体を拭いてやるのがいいのだと。

それはマリーも嫌ではないらしく、うとうとと長いまばたきを始めた。

わたしは正しい犬の世話の仕方なんて分からないから、康介や実桜ちゃんのいる時には任せてしまっている。

別にこの2人がそうっていう訳じゃないんだけど、おかしなことをして、揶揄われるのが、昔から苦手だから。

だけど1人と1匹だけでいる間は、人の目を気にせず優しくしてあげられた。

本にはフレンチ・ブルドッグについてこうも書いてある。


――1人の飼い主を慕う傾向があります

――1人の飼い主に愛情を注ぎ独占したがる面があります


それなのに置いていかれたら


「寂しいよね…」




今朝は人が来ないまでの間、指の運動にフォーレのドリー組曲を弾いていた。

元々技巧を凝らす系統の曲を好んで弾くことが多かったが、最近の仕事は特にそれに加えて激しいものが多く、ちょっと可愛い感じの曲を弾いてみたくなったから。

そういえば何年か前にも、似たような状況の時にドリーの子守歌を弾いていて、康介がすごく意外そうな顔をしていたことがあった。

わたしがこういう曲を弾くとは思わなかったって。

でもその後「俺、この曲好きだな」って、しばらく聴いていたんだっけ。

マリーは部屋の隅で相変わらずの様子だけど、この曲を弾きはじめたら、耳がピクピクッと動いていた。




「よう」

「おはようございます」


しばらくして、康介と実桜ちゃんが現れた。


「珍しいわね。2人揃って。っていうか、康介久しぶりに見るような気がするんだけど?」

「やー。わりい。最近夜遅くまで拘束されててさ、朝辛いんだわ」


そしてピアノの上の楽譜を見つけた。


「おっ。フォーレじゃん。俺これ好きなんだ」

「フォーレ?」


特段クラシックに詳しいという訳ではない実桜ちゃんは、聞き慣れない名前に首を傾げた。


「フランスの作曲家だよ。これはドリーっていう女の子のために作られた組曲なんだ。元々は連弾用だっけ?」

「へえ。康介くんが好きな曲ならあたしも弾いてみたいな。梨奈子先生、次の曲これにしてもいいですか?」


社会人の場合は、必ずしもこどもが習うように初心者用のバイエルから、ブルグミュラー、ソナチネ、ソナタと順を追っていくとは限らない。

弾いてみたい曲があって習いはじめる人も多く、わたしの生徒の中にも定年退職してからピアノを始めた紳士で、ショパンの別れの曲だけを完璧に弾けるまで練習し続けている人だっているのだ。


「連弾曲としては初心者向けだけど、独奏曲だと難易度上がるわよ?」

「でもやりたいです。独奏曲で」


そう言って彼女は、康介と目を合わせてにっこりと笑った。

ああ、多分きっと、この曲は実桜ちゃんに似合うんだろうな。



それから2人はマリーを連れて出掛けて、昼過ぎに戻ってきた。

せっかくの天気だし、公園にでも連れて行けば喜ぶかもしれないと思ってのことだったらしいが、結果は漬物石のように固まったままだったと、康介が苦々しく笑っていた。




でも確かに家の中に篭ってばかりだと気が滅入ってきてしまうから、外で日の光を浴びるのはいいかもしれない。

そう思って、その日の午後、ちょっとマリーを連れて外を歩いてみた。

しかし漬物石とはよく言ったもので、小型犬だと油断してたら、結構重い。

わたしを拒否しているせいもあるかな。

尚のこと重く感じる。

家から人通りの少ない場所まで抱っこして行き、落ち着いた所で下ろして歩かせようとしたんだけれど、彼女は頑として動かなかった。


紐をギュッと引っ張って無理にでも歩かそうとしていると、昔の康介を思い出してしまった。

7歳の時だったかな?

初めてのコンクールで出るのを嫌がっていて、わたしが手を繋いでなんとか連れていこうとした。

上手く弾ける自信がないと、それこそ漬物石のように座り込んで動かなかった。

それから…、その後どうしたんだっけ?


「梨奈子じゃん」

「わっ」


思い出の中から突然、現在の彼に呼ばれた。


「康介?どうしたの、こんな所で」

「俺は買い物頼まれたんだよ。お前は?」

「見て分からない?」

「漬物石の散歩か」


自分で言って、笑い出している。


「昔の康介を思い出したわ。初めてのコンクールの時の。そっくりよ」

「ええー? 全然覚えてないわ」


嘘だ。

わたしに嘘が通じる訳ないでしょ。

何年見続けていると思っているのよ。


「あ。マリーが好きだったおやつ買う予定だからさ、明日実桜に持っていかせるわ」

「康介は来ないんだ?」

「んー、まあ、うん」


歯切れが悪い。


「それがいいかもね。結婚の決まった男が、別の女性の家に通うのって、あんまり世間体いいもんじゃないし、美桜ちゃんだっていい気分しないと思うのよ」

「やっぱりそうかあ」

「そうでしょ」

「実桜に実はずっと梨奈子のこと好きだったって言ったのも、気にされてるかなあ」

「はあ!?」


何言っているの? この男は。


「今だから言えるけど、俺ずっと梨奈子のこと好きだったんだよね」

「今だからって…、今だからこそ、それは言ったら駄目でしょう?」

「や、でももう過去のことだし。実桜を好きになったから自分とちゃんと向き合えたって感じで、これから実桜とはずっと一緒に生きていく訳だから、誤魔化したり隠したりしないで、俺の全部曝け出しておきたかったんだ」


――自分だけ悟った気持ちでいて、言われた側の気持ちは想像しないわけ?


「俺さ、梨奈子の時は今更って感じでタイミングを掴めなくて、うまくいかなかったら気まずいなっていうのもあって、なかなか言い出せなかったんだけど、それがあったから、実桜には真っ直ぐに気持ちを伝えて、好きだってちゃんと行動で表したいと思ったんだ――っていうのを本人に言ったんだけど、不味かった?」

「不味いわよ!! 馬鹿じゃないの!? 終わったことなら今更口に出したら駄目なの! 言って、もうどうにもならないことなら、もうずっと! 胸の中にしまっておかなきゃいけないのよ!! 自分のことばっかりで、女心、全っ然、解ってないじゃない!!」


込み上げてくる感情に、これ以上は吐き出してはならないものが出てきそうで、わたしは康介に背を向けてその場から離れた。

漬物石のように頑ななままのマリーを抱き締めて。



初めて来た公園で、ベンチに座ってマリーを地面に下ろすと、なんだか落ち着かなかった。


本当は分かってた。康介の気持ち。

でも、付き合いが長いと却ってタイミングって難しいんだよね。

高校生の時女子に揶揄われて気持ちを隠したみたいに、なんでもないことにして流してきたことがたくさんあるんだ、きっと。


気持ちが過去へと向いて体から力が抜けてしまっていると、手の中から何かがスルリと抜けていく感触がした。


「え? あ。――マリー!!」


ずっと動かなかったマリーが、わたしの手を離れ、散歩紐を引き摺りながら公園を駆け出していってしまった。



――7歳のあの時

確か、座り込んで動かなかった康介は、わたしの説得にどうにか自分で立ち上がり、わたしの手から離れて舞台で成功を収めたんだ。


なんであの時、手を緩めてしまっていたんだろう。


わたしはマリーの向かった方へ走り、路地などを見て回った。


置いていかないで。


もっとしっかり握っていればよかった。

離さなければよかった。

ずっと一緒にいたかった。


嬉しい時、1番に報告したいのは貴方だった。

悲しい時、1番聞いてほしいのは貴方だった。


コンクールで緊張した時

親とケンカした時

面白い映画を観た時

大学に合格した時

ひとり暮らしを始めた時

初めての仕事

初めて弾く曲


その全部に貴方がいた。

わたしの思い出にはこれまでずっと貴方がいたのに。

これからは、もう、いなくなってしまうの。


好きだった。

好きだったのよ。

好きだったの。

好きだったのに。

ずっと、ずっとずっとずっと――。

どうしようもないほど。


タイミング?

どうでもよかったんだわそんなこと。

揶揄われるとか、人の目なんて気にしないでちゃんと気持ちを伝えればよかった。

好きだって言えばよかった。

こんなにも好きなのに。

素直になればよかった。

好きだって、言えればよかった。

こんなにも好きなのに。

もう一生、伝えられない気持ちになってしまった…。



マリーが見つからない。

どうしていいのか分からずに、マリーに何かあったらと思うと気が気じゃなかった。

そして他に当てがなく、結局今絶対に顔を見たくない相手に頼るしかなくて、「助けて」とメッセージを送った。


数分後、彼はマリーを抱えてわたしの前に現れた。

この辺りは元々マリーの住んでいた所で、先輩の住んでいたマンションの前に座って待っていたところを見つけたのだという。

泣きじゃくるわたしに、「助けを求めてきたのも泣いてる姿も初めてだ」と、康介は嬉しそうに笑った。


ずっと心を閉ざしていたマリーは、わたしに共感したのか頬に流れる涙をベロで拭ってくれて、そして、この時初めて、彼女はないた。






翌月、康介と実桜ちゃんは新居に移ったけれど、マリーはうちを離れなかった。

わたしたちに芽生えた女の友情は、そうそう簡単に断ち切ることは出来ないからね。

マリーはよく食べるようになって、それはいいんだけど、わたしが甘やかし過ぎたようで、ちょっと太ってきた気がする。

マリーを捜して走った時に自分の運動不足も痛感したから、今後は一緒にもっと外へ出ることに決めた。


実桜ちゃんはドリー組曲の練習を始めて苦戦している。

「康介と連弾したらいいんじゃない」

とは、絶対言わないでおくつもりだ。




ところで、マリーの飼い主だった康介の先輩が、近々一時帰国するらしい。

マリーを連れてはいかないと聞いて安心したが、マリーの気持ちを思うと複雑だ。

いろいろ文句を言っておきたいから、ちょっとだけ彼に会ってみようかな、と思う。

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