焼き鳥「快楽」

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焼き鳥「快楽」

   焼き鳥「快楽」


「やきとり快楽」のやきとりはうまかった。


 鉄道交通における東京の北向きの玄関口としての役割、これが東北本線と東海道線の直通運電によって東京駅に奪われたのちの上野駅周辺の凋落は著しかった。

 店のおやじたちは、経営方針を変えたり新しい商売の切り口を考えたりすることなどできるわけがなく、どんどん首を吊っていった。

 立ち飲み屋街もシャッターだらけになり、上野はさながら地方小都市の駅前のようなゴーストタウンと化した。

 そんなところに新規で店を開いてどうするのか、と人々は嘲笑ったが、「やきとり快楽」の繁盛具合は尋常ではなかった。


 基本的に、上野駅に乗降する客は「快楽」で飲み食いをするための人々か、店で働く人たちだけだったが、結構な数だった。

 しかしそのうち、「快楽」の周辺でまた、商業が盛り返してきたのである。

 「快楽」に入れなかった客の受け皿である立ち飲み屋や、キャバクラ、パチンコ屋、果物屋、靴屋、干物屋、千円均一の偽ブランド屋などが、「快楽」の周辺に連なって行った。


 そのうち、「快楽」からあぶれて来た客を狙うだけでなく、「快楽」に真っ向から挑みかかり、客を奪おうという、命知らずのやきとり屋が現れた。それが「やきとり原理」である。

 「原理」の経営者は、理化学研究所の元理事長・島田である。やきとり好きが高じて、自らやきとり屋をやろうと思ったのだった。

 そしてどうせなら、日本一との呼び声戦い、上野の「快楽」を倒し、やきとりの至高を目指そうと思ったのである。

 何、簡単なことだ。かつての杵柄、職権とツテの濫用で、理化学研究所の科学の粋を結集すれば、「快楽」よりうまいやきとりを作ることなど、お茶の子さいさいだ。島田はそう考えた。

 「原理」では、特別チームの科学技術によって考案された至上最高のタレと、本場九州で育てられた最高級のブロイラーで作られた至高のやきとりが、「快楽」よりも安値で提供された。しかもビールは立ち飲み屋なのに発泡酒ではなくちゃんと生ビールが出てくるし、ハイボールのウィスキーの配分も「快楽」より濃いめである。

 これで「原理」が「快楽」に負けるわけがない。島田はほくそ笑んだ。


 「原理」閉店の日が来た。島田は信じられなかった。

 あれだけ最高のやきとりを供したのに、「原理」に客が来たのは初めのうちだけ。そのうちすぐに閑古鳥が鳴くようになり、すべての客は「快楽」に戻って行った。

 島田が組織した至高のやきとり研究チームは、スパイとして「快楽」に入り込み、持ち帰ったやきとりの成分分析を行った。

 たいしてうまいはずがないのである。タレは普通。肉だって高いものではない。酒だって、薄いのだ。

 高利多売の悪徳商法であると言ってしまってもいい、ひどいやり口のやきとり屋なのである。「快楽」は。

 それなのに、なぜ私の「原理」は負けたのか。島田はうちひしがれた。


 彼は自らの店の鍵を降ろしたその足で、「快楽」へ向かった。日は暮れ始めていた。

 意趣返し? ちがう。事業に失敗して一息つきたかった島田は、ただただ、うまいやきとりを肴に、酒を飲みたかっただけだ。

 それには「快楽」が一番なのである。科学や理屈では証明できない「快楽」のすごさを、島田は改めて、身をもって知った。

 街は、かつてのさびれ具合がうそのように、むしろ最盛期のそれを超えて、一級の繁華街としての姿を見せていた。それもこれも、「快楽」繁盛による好影響によるものである。


 店の前の行列に並んだ。そばにいた誘導係の金髪青年ががなる。「ここから4時間待ちだよォーッ!」そのくらいのうまさなのだ。「快楽」のやきとりは。島田は列を離れようとも思わなかった。

 そして4時間。立ちっぱなしで足が棒になった島田はやっと、広くて汚い店の中のカウンターの端の狭い席に座ることができた。

 周りを見渡してみると、競馬新聞を抱えて安酒をあおる金のなさそうなおっさんから、高いスーツをぴしっと着こなして高級日本酒を燗で楽しむ、本来なら銀座の高級バーにでもいそうなビジネスマンまで、ありとあらゆる客層が居ついていた。

 胸元にどくろの入れ墨の彫ってある、よれよれのタンクトップを着た少しく太った若い給仕係の女性が、注文を取りに来た。島田は串焼きの盛り合わせと、焼酎のお湯割りを頼んだ。


 厨房にいた、腕中に般若やら文法の間違った英文やらの入れ墨が彫ってある青年は注文を聞くと、汚くて少しひびの入ったガラスコップに少しだけ、安焼酎を注いだ。そして隣にあった湯沸しポットから適当に湯を注ぐと、次に自らの前掛けに付いているポケットに手を突っ込み、そこから取り出した白くてさらさらの粉を、ほんの少しだけ焼酎割りに注いだ。

 運ばれてきた焼酎をぐい、とあおった島田は、うまいな、と思った。ただの焼酎、しかもこんなに薄い焼酎がこんなにうまい。やはり、今日までに味わった苦渋が生産されて、ただの安酒もこれほどまでにうまく感じるのかな。それとも何か、「快楽」の秘密の味のサービスが仕込まれているのか。


 一手にやきとりを焼くのは、「やきとり快楽」経営者の一人娘・麻実であった。

 麻実は島田の頼んだ串焼きの盛り合わせの材料を焼いていく。安い炭火で焼いていく。じっくりとではなく、強火で、適当に。たくさん数をこなして、たんと利益を上げられるように。

 焼きあがったものを、スーパーで買ってきた「やきとりのタレ」にどぶんと漬けると、麻実はそれを平皿にぱぱっと適当に乗せていった。そして前掛けのポケットの中の白い粉を少量ふりかけると、給仕係に手渡した。


 目の前に乱暴におかれた、タレがびちょびちょに飛び散った皿の上に、少し焦げたやきとりが並んでいる。

 食べた島田は「なんてうまさだ。これは勝てない。それにしてもああ気分がいい。負けて悔いなしだ」と思った。そして、「快楽」の常連となり、理研から流れてきていた大量の裏金を、すべてこの店で消費することになる。

 完全に「快楽」の思惑通りになってしまったのであった。

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