紙の上の背徳

冷門 風之助 

VOL.1

『へぇ』、俺はその人物の顔を見て、改めてそう思った。


 今、俺の前に不安そうな顔をして座っている人物が女性で、しかも依頼人だとはね。


 え?


 だから何だって?


 これから話すよ。かしなさんな。


 弁護士の平賀市郎君から電話を貰ったのは、一昨日のことだった。

”実はある人物の相談に乗ってやって頂きたいんですがね。”という。


”まあ、こっちも今手は空いているから構わんよ。でもどうしてそんなひそひそ声で話すんだ?何か訊かれたくない事でもあるのか?”


 すると、彼は一層声を小さくして、

”くろだ薫って名前を聞いたことありますか?”

 と来る。


”知らんな、誰だい?それ?”

”漫画家ですよ。ちょっとなね”

彼は”特殊な”というところを強調しようとしたのか、妙なアクセントを付けた。


”兎に角会ってやって下さい。場所は杉並区荻窪のDマンションです。”


 彼はそれだけ言うと、これから法廷があるからと付け加え、電話を切った。


 俺は暫く受話器を見つめ、断ればよかったかなとも思ったが、彼には日頃から世話になっているし、このご時世、仕事があるだけましだ。


 そう考えなおし、俺は洋服掛けからコートを取り、出かけることにした。


 

 そこは六本木ヒルズにあるような豪華絢爛なマンションではないにしろ、少なくとも俺のネグラなんぞよりは遥かにましな建物だった。


 入口のエントランスにはテンキーがあり、部屋番号を押して、中の人間が許可を出さぬ限り、エレベーターにも乗れない。


 俺は言われた通りの部屋番号を押す。


”はい?どちら様ですか?”


 返って来たのは女性の声だった。20代半ば過ぎくらいだろう。


”平賀弁護士からの紹介で来ました。私立探偵の乾宗十郎いぬいそうじゅうろうです”

俺はそういってポケットからホルダーを取り出し、認可証ライセンスとバッジを

広げ、モニター画面にかざした。


 少し間はあったが、向こうから同じ声で、


”はい、伺っております。どうぞお入りください。”


 と回答が返ってくると、二重になっていた目の前のガラスの扉が開く。


 フロアの正面には大型のエレベーターが二基ある。

 俺は右側を選択し、中に乗り込むと、操作パネルで指定の階(最上階だ)を押すと、エレベーターはそのまま止まることなく、一直線に上がっていった。


 ドアが開くと、そこも、俺のビルよりは遥かにましな景色がずっと続いている。


 廊下を歩き、指定の部屋番号の前で足を止め、インターフォンを押すと、先ほどと同じ声が返って来た。


 もう一度俺はドアの真ん中ののぞき穴に認可証ライセンスと、バッジをかざす。


 チェーンを外す音が聞こえ、ドアが開いた。


 中から顔を出したのは、俺の想像通り、20代半ばほどのメガネをかけた、茶色のトレーナーにジーンズというラフな服装に銀縁眼鏡、黒い髪の毛を肩まで伸ばした色白の女性が立っていた。


『ええと、漫画家のくろだ薫さんにお会いしたいんですが、今、お仕事中ですか?』


『え、いいえ?私がくろだ薫ですが?』


 彼女は極めて自然な口調で、むしろ俺がそう聞いたのが不思議であるかのように堪えた。。


『とにかく中へどうぞ』

 彼女はそう言って、俺を部屋に案内してくれる。


 2LDKといったところだろう。


 真ん中にリビングのような広い部屋があり、そこには事務用の机が三つ、コの字型に配置してある。


 彼女によると、ここは仕事場なんだそうで、とりあえず今は新作の入稿が終わったばかりだから、二人いるアシスタントも帰宅していないという。


 漫画家の仕事場なんかに入るのは生まれて初めての経験だ。


 想像ではもっと雑然としたイメージがあったのだが、それほどひどくもない。

 机の上には道具類が置かれてあったが、整理整頓はなされているし、壁際に並べられた本棚には、資料やら、これまで彼女が出版した単行本、作品が載った雑誌などが、整然と並べられてあった。


『今月新しく出た新刊のコミックです』自分の机に置かれてあった本を、手ずから俺に渡してくれた。


 表紙は何てことのない、大人しやかなものである。

”あなたと私、秘密の時間”

 とあり、清純そうな女性がこちらに向けて微笑んでいる。

 

 しかし、中を見ると・・・・


 まあ、これ以上は言うまい。

 つまりは”アダルトコミック”

 そう言う事だ。

 

 そのコミックは、何でも青年向け(こんな漫画、男しか読まんだろう)の漫画雑誌に短編ばかりを連載したものをまとめたもので、ストーリーは殆ど同じだ。


『人妻と年下の男性の不倫』

『年配の男性と若い女性(というより女子高生)の不倫』

 という、もっぱら不倫ものばかりで、それが繊細なタッチで、それでいてかなりリアルに描写されている。


”なるほど、堅物の平賀センセイが口ごもったのも分らんでもない”


 俺は頭の中で呟いた。


 俺は渡された漫画と、目の前に立っている作家とのギャップを見比べた。

 




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