僕と彼女とラムネの夏

神奈澤

僕と彼女とラムネの夏

 二〇二〇年、八月。夏休みもあと数週間を残すのみとなった日。

 僕は何時ものように実家の手伝いに精を出していた。

 僕の実家は港の近くにある、街で代々続く酒屋である。その名も『リカーショップつゆき』という。

 何ともレトロな名前だなあと思いながらも、僕はこの店名を気に入っている。

 昔は『つゆ商店』という名前だったらしいが、それでは少し味気ないと思う。

 「こうすけくん、休憩きゅうけいに行ってらっしゃい」

 僕がビールケースを運んでいると、さかさんが店内のカウンターから声をかけてきた。

 八坂さんは親父のいない日に店番をしてくれる、いわば店長代理である。

 高校生の僕にも優しく、仕事もしっかり出来る凄い人だ。

 仕事がない日は行きつけの店で飲んだくれているか、家でダラダラばんしゃくをして、何かあればすぐにカミナリを落とすかのオヤジとは大違いである。

 無論、僕の親父の事だ。

 僕はいつも八坂さんへ尊敬の念を伝えているのだが、決まって「ありがとう。でも君のお父さんに比べたら私はまだまだ」とけんそんする。

 僕はその度に八坂さんへの尊敬を深めるのである。

 閑話休題それはさておき、僕はビールケースをゆっくり指定の場所に置いて――中身の入ったケースはかなり重いので、集中しないと思わぬ怪我をする――八坂さんに休憩に入る旨を告げると、八坂さんは僕にラムネを一本差し入れてくれた。

 八坂さんに感謝を伝え、ラムネの瓶を受けとる。

 僕は手を洗った後、着古したジーンズで手を拭き、軒先のきさきの赤いベンチに座った。

 日本でもひときわ有名な炭酸飲料のロゴが書いてある木製のベンチは、あちこちペンキががれて白くなっている。ずいぶんな年代物だから、そろそろ買い替えても良いんじゃあないかと思う。

 背もたれに寄り掛かって空を見上げれば、雲ひとつない青空が見える。日差しが酷く眩しい。

 せみの鳴き声が聞こえ、嫌な暑さを感じる。

 汗がどっと吹き出てきた。前髪が鬱陶うっとおしく感じる。目には掛からない長さだが、夏だしもう少し短く切って貰えば良かった。

 丸首の半袖カットソーも汗でぐっしょり濡れている。あまり染みが目立たない白色で助かった。

 スマホを見てみれば、気象ガジェットの気温は三十度を表していた。暑いわけである。

 キャップの包装を剥がし、とつの字になっているふたの先端――玉押しと呼ぶらしい――をビー玉にあてがう。

 ベンチに瓶の底をつけて、手のひらで思い切り蓋を押してやれば、ビー玉が押し込まれてラムネの蓋が開く。

 ぶしゅう、と気の抜けた音を出して中身が溢れる。

 僕は泡が落ち着くのを待ってから、中身をゆっくり喉に流し込む。

 ああ、うまい。疲れた体に染み渡る。思わずオヤジくさい声が出てしまうが、それも仕方のない事だと思う。

 そうしてラムネを飲みつつ、だらだらしていると、明るく弾んだ声が耳に届いた。

 「サボってるなー孝介」

 声の方向を見やれば、よく日に焼けた健康的な小麦肌の少女がこちらにやって来ていた。

 鎖骨まで伸びた、ゆるくふわっとした黒髪が、歩くごとに揺れている。

 紺色の半袖セーラー服を着て、エナメルの白いスポーツバッグを肩にかけている彼女はみずあおいという。僕のおさなじみで高校二年生である。

 「葵かあ。今日も元気だね」

 「美味しそうなもん飲んでるね。私にも頂戴」

 「これは労働の対価だからあげません」

 「ケチ。こっちは部活で疲れているというのに」

 葵は肩の荷物を地面に置いて、そのまま僕の隣に腰を下ろした。胸元の白いスカーフが揺れる。

 僕は葵に文句のひとつでも言ってやろうと口を開くが、その前に八坂さんが軒先に顔を出して「部活お疲れ様。はい、いつものね」と葵にラムネを一本渡す。

 葵は満面の笑みでラムネを受け取って、八坂さんにお礼をすると、すぐに包装を開け始める。

 八坂さんは去り際に、僕へとウインクを飛ばして「ごゆっくり」と店内に入っていった。

 流石は八坂さん。でもお代は後で僕の小遣いから引いてもらおう。

 そんな事を考えていた僕は、隣から聞こえてくる――文字にすれば『あー』に濁音がつく――声に我に返った。

 「はしたないぞ、葵」

 「美味しいから出るの。孝介もさっき出してたじゃない」

 確かに。悔しいが反論出来ない。

 僕はこれ以上彼女に追求されないよう、話題を変える事にした。

 「そういえば全国大会に出るんだってね。おめでとう」

 「ありがとう。お陰様でいいタイムが出ました! というよりもラムネのお陰?」

 「何だそれ。おごっているのは僕だろう」

 「いつもは買ってけってうるさいくせにー」

 「そうしないと僕の小遣いが減るんだよ」

 葵は県下でも有名な水泳選手で、個人自由形の種目で県の記録タイムを持っている。どうやら将来を有望視されているらしい。

 断定でないのは僕が高校の水泳部に所属しておらず、校内の噂を聞いたからである。

 うちの学校は公立ながら体育系の部活はそれなりに強い。中でも水泳部はきょうごうの一角に入る。

 というのも顧問の先生がナショナルチームに所属していた経歴を持つ人らしく、教え方が上手いのだとか。

 僕にも学校で良く声を掛けてくれる。水泳部への勧誘もあるのだろうが、情熱的で良い先生だなあと僕は思う。

 気が付けば会話は止まり、蝉の鳴き声があたりに響く。

 じわじわと日差しが肌を焦がしてゆく。

 手元のラムネを一口えんする。炭酸の爽やかな刺激が喉を通り、すっきりとした心地よさを感じる。

 僕は葵と過ごす、この時間が大好きである。だらだらとあいもない話をしたり、景色をぼうっと眺めたりする事がとても好きだ。

 思えば葵とこんな時間を過ごすのはからだろう。

 物心ついた時から彼女とは一緒にいる。幼稚園から小学校、中学校と一緒だった。

 そういえば僕が水泳教室に通い始めてからだったろうか。すぐに葵も通うようになって、水泳の帰りに親父が僕と葵にラムネを差し入れてくれたっけ。

 僕が昔を懐かしんでいると、葵がしんみょうおもちで僕を見た。

 「孝介はさ、もう競泳やらないの?」

 そうして葵は少し寂しそうに眼をふせる。突然の変化に、僕は言葉を紡ぐ事が出来なかった。

 手元に握ったラムネ瓶が汗をかいて僕の手を濡らしてゆく。

 「僕は家業を継ぐって決めたんだ。だから競泳は中学で終わりって言っただろ」

 「それでもさ、孝介は誰よりも泳ぐのが好きだったじゃない。私を水泳に誘ってくれたのも孝介だったし、もったいないなって」

 葵の言葉に僕は何も言えなくなる。本音を言えば競泳にはいまだ後ろ髪をひかれる。

 自慢じゃあないが僕は中学生の頃はそれなりに速かった。今でも泳ぐ事は好きだ。

 だけど僕にはやりたい事がある。

 「葵は誤解しているみたいだけどさ、僕は家業を継ぎたいと思っているんだ」

 「家業って、の事?」

 「うん。確かに力仕事だし、配達はしなくちゃあいけないし、お酒の種類は多くて大変だけれど、僕はこの仕事が楽しいんだ」

 仕事が楽しい。これは本心だ。

 お酒を造るって凄く大変で、とても手間暇がかかっている。

 でも、作る人達の情熱や夢がそこにある。それを人に飲んでもらったり、楽しんでもらったりして、良かったと言ってくれる。

 それだけで僕はお酒を造る人達の努力が報われたように感じて、とてもうれしいのだ。

 「少しでも早く家業を手伝いたいと思った。だから競泳を辞めたことに後悔はないよ」

 そう言い切った僕に葵は優しく微笑んでくれた。何だか少し恥ずかしいな。

 「孝介ってなんか大人だね」

 「そういう葵に夢はあるの?」

 「私? 私は……」

 葵は少し考えて言葉を口にした。

 「私は競泳で、日本代表として世界大会に出たい。誰かの分もひっくるめて、大舞台で勝ちたい。どこまで出来るかわからないけれど」

 からん、とラムネ瓶のビー玉が音を立てる。

 葵は真っ直ぐに、ビー玉のようなれいな瞳で僕を見つめてくる。

 「大丈夫、葵ならきっと出来る。僕も応援する。もし辛くなったら、またここにラムネ飲みに来なよ」

 僕は葵の夢を応援したい。本気でそう思った。

 僕は思い出す。放課後、校舎のプールで見た葵の泳ぐ姿はとても綺麗だった。水をものともせず、しなやかに泳ぐ姿はまるで人魚のようで――。

 「――ありがとう。孝介がそう言ってくれるなら、私何処までも頑張れる気がする」

 あの時見た人魚は、まるでおとぎばなしのお姫様のようにれんに微笑んだ。

 瞬間、僕の胸は炭酸のように弾けた。

 この気持ちは何だろう。胸が苦しい。

 いつも一緒にいた幼馴染みだと思っていたのに。

 ――僕は葵の事が好きなのかもしれない。

 「……今のうちにサイン貰っておこううかなあ」

 「やらしい考え方だなー」

 僕はつい照れ隠しでちゃしてしまい、葵に肩を小突かれた。

 そんなやり取りが何故かおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。つられて葵も笑い、気がつけばお互いに笑いあっていた。

 ひとしきり笑った後に葵は真面目な顔になった。葵は手元のラムネをぐっと飲み干し、息を整える。

 「……あのさ、全国大会が終わったらさ、久々に海にでも行かない?」

 葵はお腹の前で指をもじもじさせ、恥ずかしそうにちら、ちらと僕を見てくる。

 僕も恥ずかしくなってきた。顔が火照るのを感じる。

 「そ、それは、その。つまり……?」

 「ふ、ふたりで! 私と孝介のふたりで!」

 葵は顔を真っ赤にしながらも腹を決めたのか、僕の目をまっすぐ見つめる。葵の剣幕に、僕は何度も頷いた。

 僕の頷きを見てホッとしたのか、葵はにっと笑顔を見せる。

 「それじゃあ、約束ね! ラムネご馳走様!」

 言うが早いか葵は空瓶を僕に押し付けて、荷物を抱え走っていく。

 僕は慌てて葵の背中に声をかける。

 「葵、頑張れよ!」

 僕の言葉に葵は一瞬振り向いて「がんばるー!」と大きな声で叫んだ。

 僕は中身が残っていた手元のラムネを口に含む。炭酸の中にほんのり檸檬れもんの味を感じた。そういえばラムネの語源ってレモネードなんだっけ。どうでも良い知識が頭をよぎる。

 店内から八坂さんの声が聞こえる。そろそろ休憩が終わる。

 僕は遠くなってゆく葵の背中を見送りながら、これからの事に思いを馳せる。

 僕と葵の夏がこれから始まる。

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僕と彼女とラムネの夏 神奈澤 @kana_ryu

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