第2話 香草の四角

 まだ暗い中をやってきた新聞配達は、そのまま通り過ぎた。

 そのあとに軽トラックで通りかかった牛乳配達も気がつかなかった。

 かたわらに小さな鞄を携えた老女が一人、夜の明ける前から座っていたのに。

 道路に面したその場所を通過した人たちは、そろって彼女の姿を見落とした。


 なぜかといえば、そこは歴史的建造物として知られる樫木郵便局あと、現在は「樫木どんぐり記念館」となっている場所だったからだ。百年以上前から同じ姿でそこにあって、日常的に前を通る人々は、あらためて見たりはしない。

 それに、記念館の印象的な建物の周囲にはこれまた立派な木陰があった。葉の覆い茂って垂れた下には木製ベンチがあり、彼女はその上に座っていたからだ。

 老女の名前は、松永武子。一年前に染めるのをやめた髪は、きれいな銀色になっていた。


 記念館は、樫木商店街の東の端にある。同商店街は東京の巣鴨にたとえられるほど高齢者向けの店が集い、同時に個性のある飲食店が軒を連ねて近くの学校、企業や団体に集う人々には食事スポットとしても機能している。

 そして武子女史は、商店街の西の端ちかくにある「甘味処松永」の名物店主として、あたりでは知らぬもののない存在だった。

 しかし、日が昇るまで彼女はそのまま放置されていた。大勢に囲まれた賑やかな彼女の日常を知る人が見れば、なんと感じただろう。


 理由は、この付近の夜の静けさにもあった。

 夜間には交通量が激減し、飲食店を含む商店街のほとんどの店も早々と閉まる。記念館の前庭と駐車場のあたりなど、地元小学生の夏の天体撮影イベントに利用されるぐらい人も車も通らない。

 そのうえ、彼女を乗せたベンチは、先にも触れたように鬱蒼とした樹に隠され、日が落ちてしまえば近づいてもよほど注意しなければ小さな老人が座っているのはわからない。ましてや表情などまったく見えなかった。


 彼女がようやく身の上におこった異変に気付いてもらった時は、朝の7時を回っていた。


 早朝清掃にやってきたボランティアスタッフのひとり、六十八歳になる吉野守は、ベンチに座る人影を見て、当初はいぶかしげな顔をしただけだった。なぜなら、ベンチのあるのは記念館の手前であり、そこは館の前庭にあたるからだ。

 ここは昼間なら誰が入ってもかまわない開放空間となっているが、この時間だとまだ大人のへそあたりまである高さの門扉によって外部から閉じられている。早朝に出勤した関係者は、裏に回って小さな通用門から入ることになっている。


 吉野は隣の郵便局に長年つとめていた。だから付近の夜間の動きはおおよそ分かっている。この時間に人が座っているのに疑いを抱くとともに、判断力の衰えた近所の老人が座っていたことがあったのを知っていた。だから彼はいきなり追い出したりはしなかった。

 しばらく離れて観察していると、人影は身動ぎもしなかった。

 次第に異様さに気付いた吉野は、当初ベンチの前までやってきて、人影を見つめた。マネキン人形を使ったいたずらとの疑いもあったからだ。空を覆っていた雲が切れ、あたりの明るさが増すと、

「うえっ」

 と、悲鳴を上げ、見事に腰を抜かした。その後は膝を地面につけたまま後退りした。


 きちんと座ったままの老女は灰色のパーカーを着ているが、その前面には黒い模様が付いている。乾いた血痕だった。

 そして顔には暴行によるものと思われる傷が複数あり、フードをかぶった老女の額には大きな傷があった。深さもあり、額を割って頭蓋骨に食い込むほどだった。それは、のちに鉈状の刃物によるものと判明した。救急車より先に、警察が呼ばれた。


「殺人かあ、殺人だよお」車から降りた宇藤木海彦が、深呼吸しながら言った。

「生々しいのは、久しぶりだ。かなり前にお亡くなりになって、白い骸骨になっていらっしゃったのは、つい最近あったけど」

「やめてよ、そんなうれしそうな声を出すのは」和気みずるが言った。

「血の跡なんて、みたくない」

「それは、わたくしもです。夢を見るのがいやだ」


 ふたりは、「樫木どんぐり記念館」の駐車場に降り立った。施設の規模のわりに駐車場は広く、道を隔てた隣には、さらに大きな駐車スペースが設けてある。観光バスを駐めるためのものだろう。

 反対側には、地元の伝統織物の技術を応用した草木染めやデニム製品を売る店もある。記念館の掲示板には、高齢者モデルを使った、草木染めニットキャップのポスターが貼られてあり、一階にある喫茶室でも取り扱っていると表示されてあった。


「事件発生からもう三ヶ月か。いつもながら、呼ぶのが遅い。ああ、生前に店に行きたかったなあ。四角い今川焼きかあ。どれぐらい角が立っていたのかな」

 宇藤木は語り続けた。ドライブスルーでコーヒーを買って飲ませたのが効いてきたのかもしれない。

「殺されたから呼ばれたのでしょ。事件がないと永遠に店と関わりがなかったのでは?」と、みずるが指摘すると、

「ほんとうだ」宇藤木は大袈裟に驚いた顔をして見せたが、いつものことなのでみずるは放置した。


「和気さんは、あの店に行ったことはありませんでしたか」

「一度もないなあ。噂は知ってましたよ。けど、樫木なんて普段こないし」

 被害者の店は、小麦粉から作った生地を形に流し込み、中央部に餡を注入して焼いた菓子を客に供していた。一般的な今川焼きや大判焼きと異なるのは、形状が太鼓型ではなく直方体だったことだ。商品名もそのものずばり、「四角」だった。

「そんな形だと焼きムラとか金型が傷みやすいとか、なかったのかな」嬉しそうに首をひねる宇藤木にみずるは、

「でも、あの手のお菓子は美味しいよね。私のおじは、大阪に出張すると御座候を買って帰ってきてくれたの」と言った。「私が喜んだから。今考えると、持って帰るの大変だったろうなあ。2軒分を合わせると結構重い。残ったら冷凍にしておくのよ」

「白餡と赤餡の割合はいかほど」

「えっ、半々ではなかったはずよ。たしか白が少ない」

「そうか。すてきだなあ、鷲羽先生の汗のしみた御座候」


 メカマニアの一面がある宇藤木にとって、機械工学の研究者だったみずるの叔父は、「大谷翔平選手以上のスター」なのだそうだ。

「いやねえ、ばっちいみたいじゃない。ちゃんと紙の箱に入ってましたよ。叔父は綺麗好きだし」

「御座候はくせのない味だけど、松永の『四角』は、微量のシナモンなどを隠し味として入れたバージョンがあったというでしょう。あれ、美味しかったのかな。店は閉じたままだし、確認できない」宇藤木は悩んで見せた。「もっと前に君と出会えばよかった」

「ご遺族には店を再開する気は全然ないのだってね。手間がかかって大変だし、亡くなったおばあさんみたいにコスト度外視は今更難しいから」

「ふーん。でも再開要請はあると聞いたな。テレビで見たのだったか」

「ええ、あちこちから口を挟まれて大変だって。通りの流れが変わっちゃったとかで、お客より商店街がうるさいとか」

「なるほど。あとで実見しにいってみよう。でも、一時的に開店してくれないかな」

「宇藤木さん、お店を継いだら?その容姿を売りにして」

「食中毒事件を起こして三日で閉店する」

 

 二人は打ち合わせどおり「樫木どんぐり記念館」の本館へと足を向けた。本館と呼ばれるのは大正時代の建築物を補強してあり、決して大きくはないのだが風格がある。この付近のシンボル的存在なのだという。

 装飾の施された正面入り口から難波刑事が出てきた。いつものように騒がしくなく、小走りに出てくることもないと言うことは、誰かいい格好を見せたい同行者がいるのだろう。と思っていたら、案の定うしろから人影が続いた。

 木陰から日の下にでてきたその人物は、小柄な女性だった。

 「やあ、いらっしゃい」

 難波の気取ったあいさつに、背中がむずむずしたが、ふたりはにこやかに応対した。

 ついてきた女性もまたほほえんだが、上空にある宇藤木の顔にピントがようやくあったらしく、困ったような八の字の眉をした。

「樫木署の柳瀬さんです」

 難波が紹介したが、彼女が事件の説明をしてくれるのはあらかじめ聞かされていた。


 柳瀬はみずるよりもさらに短い髪をして、少年のような雰囲気がある。事前情報ではみずるよりわずかに歳上のはずだが、学生と言われても信じてしまいそうだった。

 今回、みずると宇藤木のもとに協力要請が持ち込まれた老女殺害事件は、もともとは地元の樫木署に捜査本部を設けて難波たちが協力する形で捜査にあたっていた。

 当人がローカル有名人であったことで、当初はそれなりの体制が整えられた。

 しかし事件発生から三ヶ月を経過してもはかばかしい進捗が見られず、その間に別の重大事件が発生したこともあり、第一線の捜査員たちを拘束し続けるわけにもいかないとの意見が多数を占めるようになった。それで方針が転換され捜査本部は縮小、当初から捜査に加わっていた柳瀬たち少数が専従捜査班として継続捜査にあたることになり、同時に「副作用たっぷりの劇薬」が注射されることになったのだった。


「まず、記念館に入られますか。時間はありますので、とりあえずこれまでにわかったところを説明します」

 柳瀬は陰りがなく、口調もはきはきしている。みずると宇藤木を見下したり、敵視することもなく、わずかに接しただけで、自然と人柄の良さが伝わってくる。

「はい、ただその前に」宇藤木が言った。

「被害者の倒れていた場所を、まず見たいですね、先入観なしに」

 めずらしく探偵っぽいことを言うじゃないかとみずるが思っていると、「誰か死体役をやってくれるひとが……」と続いた。視線を感じたみずるが睨み返すと、「いえ、いいです」と訂正した。


「あれです」と柳瀬が指差したのは、木製のベンチだった。たしかに頭上には重たげに樹が茂っていて、離れて見れば下に人が座っていても誰がどんな状態でいるかは、すぐにはわからないだろう。足元に花が供えてあった。

 記念館の管理人によると「先月ぐらいまでは、花とお菓子で掃除が大変だった」のが、「この二週間はすっかり減りました。飽きたのでしょう」とのことだった。

「ベンチの横にあるのはなんですか」まず宇藤木が訪ねた。たしかに洋風建築にあまり似合わない、小ぶりな地蔵がうずくまっている。色が黒くなっていて新しいものではない。

「あとで説明しようと思っていたのですが」柳瀬が言った。「およそ七年前、ここで似たところのある事件があったんです」

「地元のお年寄りが、暴行を受けて放置されていた……」

 みずるの言葉に柳瀬はうなずいた。「近くに住む田丸さんという高齢男性が、今回と同様に暴行を受けて死にました。発見されたのも早朝であり、同じベンチです」

 彼女はベンチを指差した。

「そのうち、横に殺人記念植樹でも……」宇藤木が言いかけ、みずるの視線に黙った。

 

 なにもなかったように柳瀬が続けた。

「ご存知でしょうが、前の事件では犯人は捕まっていません。いえ、犯人が見つからなかったのではなく、証拠が不十分なまま、容疑者三人が事故を起こして死にました。当時の捜査員の多くは二人を主犯、もう一人を何らかの形で関わっていたと考えていましたが、最終的な結論は出ないままでした」

「それ、自殺って可能性はありますか、良心の呵責ってやつで」難波が聞くと、

「地面を擦りそうなほど車高を低めた自動車に、俗に言うハコ乗りをしながら、100キロ近いスピードを出しつつ、仲間のバイクの後輪をひっかけて一緒に道路横の水門につっこんだのを、罪に悩んだ結果だと考えるならば」と、柳瀬は言い返した。彼女の方が難波よりも思考は複雑そうだ。


 当時は付近に暴走行為が頻繁にあったと柳瀬は背景を説明した。被害者の田丸は地域の防犯見回り活動に熱心な人物であり、事故死した暴走グループとは近所に住んで顔見知りでもあった。

「遺恨の末ということですか」

「と、思われます。それと田丸さんは発見直後に息がありました。病院に搬送後に亡くなったのです」

「一方の松永さんは、ベンチの上ですでに亡くなっていた」

「はい。完全に息のない状態でした。実は暴行の様子もかなり違います。当時の資料によりますと田丸さんは」

 柳瀬は、素早い動きでベンチに腰を下ろし、横向きになって見せた。片足まで垂らす大サービスだった。もちろん、スカートではなくパンツスタイルではあったが。

「こんな感じで倒れていて、かすかに息をしていました。そして傷の多くは、木刀や靴によるものでした。気の毒に顔はでこぼこになっていて、腹部や下肢にも皮下出血がありました。ところが」

 次に柳瀬は、ベンチの上で両手を膝においてきちんと座って見せた、「松永さんは、このように行儀良く絶命されていました」

 その行動に宇藤木が深く頷いているのを見て、

(理知的な女性かと思っていたら)

 みずるは、内心ひそかにため息をついた。(このお姉さんも、こっち側かよ)

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