第8話
夢を見る。
赤子を抱いた女性が、真っ黒な男の前で必死に訴えている。
何を言っているのかと、傍に寄る。
『どうか、お願いします!』
女性は叫ぶように懇願する。
男が何か言い返したが、登には聞こえない。
『いいのです、私のことなど。私の代わりにこの子を!』
男の返答は今度も聞こえない。
女性の背後が歪み始めた。
その景色は少し前見てきたものと同じだ。
『私は放置ください!』
女性が赤子を男に押しつけた。
男がまた何か言った。今度は少しだけ聞こえる。
『……この世界は石化する』
『覚悟はできております。マスター』
世界は歪んでマーブルのような空間に変わってしまう。
女性の足が石に変わっていく。急激に加速度が増す。ピキピキピキと、石化していく女性は最後に呟いた。
『どうか、生き抜いての……』
言葉は途切れた。
男が踵を返す。
瞬間、登と目が合った。
ピンポーン
登はボーッと起き上がる。
何か夢を見た。だが、思い出せない。
登はウーンと背伸びした。
頭が次第に起きてくる。
ドンドンドン
ピンポーン
「分かったって」
登はのっそりと歩き、ドアを開けた。
「寝ていました?」
ヘルヴィウムが言いながら、部屋に入ってくる。
「ああ、寝てた。てか、まじか」
「何がまじなのです?」
「本当に夢じゃなかったのかってこと」
ヘルヴィウムが怪訝そうに登を見る。
「どんな夢を見たのです?」
「いや、異世界就職がまじなのかって。この前からのことは、寝て起きたら壮大な夢でしたってオチを期待してたんだけど」
ヘルヴィウムが呆れた顔をする。
「あそこまで、順応しておいてまだ現実味が湧かないとは、登はズレた感覚の持ち主ですか?」
登はボリボリと頭を掻きながら、欠伸した。
「シャワーでも浴びてスッキリしてください」
「了解……ていうか、なんでスーツ?」
吸血鬼仕様の異世界マスター制服でなく、ヘルヴィウムはスーツを着ている。そうは言っても、いつものように黒一色仕様であるが。
「今日は、逃亡犯を捕獲する仕事なので」
「いや、問いの答えになってない」
「今日は、現実世界での仕事なのですよ」
「え? こっちでも仕事ってあるのか?」
異世界管理がマスターの仕事なら、現実世界に仕事があるなど考えなかった。登は少し驚いて、ヘルヴィウムに問うた。
「ええ、あります。異世界と現実世界はゲートで繋がっています。そのゲートから現実世界に逃亡する者がおりまして」
「鍵がなくてもゲートが開くのか?」
「管理されているゲートは開きません。ですが、未確認ゲートや登のようにゲートの意思によって開く場合があります」
登はハッとする。確かに、登が初めて異世界に入った時、鍵はなかった。
「えっと、ゲート管理も仕事だったりする?」
「流石、登! 話が早い。未確認ゲートから異世界の住民が逃亡しまして、その捕獲に向かいます」
ヘルヴィウムが登をシャワールームに押していく。
登は急かされながら、身支度して濡れた髪のまま部屋を出ることになったのだった。
「なあ、闇雲に捜すわけ?」
登はヘルヴィウムと並んで歩く。
「いえ、探偵社に向かいます」
「ちょ、おいおい。まさかの探偵頼りなのかよ? 異世界人を捜してくださいって、無理な依頼だろ」
「これから向かうのは、異世界マスターを引退した者がやっている探偵社なのです」
「あ、そういうことね。事情を知っているわけか。というか、異世界マスターって引退できるのか?」
「ええ、条件はありますがね」
ヘルヴィウムがそれ以上言わなかったから、登も訊かずに『フーン』と反応しただけだ。
多くの問いはあるが、きっと登の頭は処理できないだろう。まだ、異世界就職したばかりで全てを知ろうとしても、頭は混乱するだけである。
現状、一杯一杯だ。
「こっちです」
最寄り駅手前の商店街に着いた。噴水を中心に三叉路になっていて、路地で繋がった奇妙な商店街だ。上から見れば、噴水を中心とした蜘蛛の巣のような感じだろう。
「引っ越してきたばかりで、よくこの路地の構造が分かるよな。俺なんて数カ月は迷子だったけど」
「この程度の路地は、異世界では初級ですよ。矛盾だらけの町並みなど、腐るほど経験しますから、そのうち目を瞑っても歩けるようになりますから」
ヘルヴィウムの言う矛盾だらけの町並みとは、想像主が書く異世界街のことになろう。町並みの描写を事細かに想像設定できる想像主はほぼいないはずだ。
「あそこです」
ヘルヴィウムが指を差す。
一階が古物商になっている建物の二階に『探偵社Z』の真新しい文字が窓に貼り付けてあった。
人ひとり分の幅しかない階段を上げる。
二時間ドラマにでも出てきそうな、古ぼけた探偵社。
ヘルヴィウムが探偵社のドアを開けた。
「来たか」
渋い声がした。
登はヘルヴィウム越しで声の人物を見る。
陶芸家ですかと言わんばかりの、作務衣姿をした白髪の老人が笑っていた。
長髪を一括りにし、タオルを頭に巻いている。
そんな出で立ちよりも、激しく目がいくのは口ひげだ。名探偵ポアロのような、いやダリのような……個性的な口ひげである。
「そいつが例の奴かい?」
「ええ、新人マスターです」
ヘルヴィウムに促され、登は軽く会釈する。
「山田登です」
「私は浦島羽左衛門だ」
「お前かよ!?」
登は思わず突っ込んだ。
「ええ、彼が浦島羽左衛門です。登の先輩になりますよ」
羽左衛門がひげを撫でた。
「よろしくな」
「ええ、こちらこそ……」
登は引退したマスターの成れの果てに少し引き気味だ。自分もこうなるのだろうかと、不安になった。
「玉手箱さえ開けなければ、ヘルのように若々しくいられたんだが」
「ちょ、ちょっと待て」
「あの異世界の後遺症でこんななりだ。お前も亀には気をつけろよ」
「そこは女にじゃねえのかよ!?」
登は突っ込みながら噴き出した。
「さて、挨拶はこの辺で。ヘル、例の奴の居場所が分かった」
羽左衛門がタブレットを操作する。
画面上にグルッとマップが表示されて、どこかの山奥の一軒家にズームされた。
ヘルヴィウムと一緒に登も確認する。
「独りですか?」
ヘルヴィウムが訊いた。
「ああ」
あからさまに、ヘルヴィウムが安堵の息を吐いた。
「今流行りのスローライフじゃねえの?」
登は肩を竦める。
ヘルヴィウムと羽左衛門が登をハッと見る。
「なるほど! 確かに彼の異世界は『遭難からの異世界スローライフ』という主題でした」
「こっちに逃げてまで同じ生活をするとか、意味が分からないな」
登は呆れたように言った。
「いえ、彼は友人Aで、主人公と一緒に遭難して先に逝ってしまわれまして……そこが冒頭展開でして、想像主が何度も書き直しをするものですから、彼は今まで十三回生き死にを繰り返しています。それが逃亡の原因でしょう」
登はヘルヴィウムの言葉を理解する時間を要した。
「十三回転生して、十四回目に現実世界転生したのか? いや、そこじゃない。転生って書き直しから生まれているってことか!?」
「ええ、そうですが」
ヘルヴィウムがキョトンとした表情で答えた。
「いや、ちょっと、なんていうか……今まで楽しんで読んできた展開が、ただの書き直しとか……」
「登、一歩大人に近づきましたね」
ヘルヴィウムが、登の肩をポンポンと叩いた。アンニュイな表情で登を見ている。
登はサッとヘルヴィウムの手を振り払う。
「お前、わざとらしいな」
「ワッハッハッハ。いいコンビだな」
そんなヘルヴィウムと登の様子に笑いながら、羽左衛門が言った。
「俺は他の依頼もあるから、二人で行ってくれ」
羽左衛門がカードを取り出してゲージを確認している。
「入金確認した。またの依頼を」
「ええ、またよろしくお願いします」
ヘルヴィウムの言葉に合わせて、登も軽く会釈した。
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