第三夜「彼女の護るもの」(Bパート)②
〇
車から降りると、地に足を下ろす。
もう日はすっかり沈んでしまっていて、幽かな月と星の明りと、遠く離れた町の灯以外にはろくに照明もない。
それでも足元がはっきり踏めて、歩きたい方向に進めるのは、〝活性〟のおかげで通常よりはだいぶ夜目が利いているおかげらしい。
だだっぴろいグラウンド、そしてその先にシルエットを浮かびあがらせる、もとは白かったのだろう、風雨と埃で暗灰色の構造物。
風格がある、と言ったらそれは嘘になる。
斎月館に比べれば、これはただ古いだけだ。使われなくなって既に数年が経っているそうだし、永らく省みられることがなかった寒々しさしか感じない。
……わかっていた、わかってはいたが、こうして実際に目の当たりに足をつけると、やはり、血の気が引いた。
胃が締め付けられ、口の中が酸っぱく感じるのは、気のせいではあるまい。
それに、もう、この敷地内――地面の下だか物陰だかには、強力な個体のウィッチが潜んでいるはず、なのだから。
「〈鳥籠〉は……もう設置済みだね」
「イツもこウだと、楽でいい…お荷物が居なければもっと良かったガね」
「……悪かったな」
と、返しながら、首をひねった。
ここに来るまでは、車中にて、口を酸っぱくして、作業のようなものだから、すぐに終わるからと安心して欲しいと言われてはいたが、流石にそろそろ斎月さんの表情も硬い。
無理もあるまい、いくら効率的に、リスクを軽減した上で戦える算段が付いているとはいえ、これから命のやり取りをすることになるのだから。
不要不急の声かけは憚られるところなので、代わりにびゃくやに声をかけた。
……そう。どうも、さっきから、アレが気にかかって仕方がない。
「……なあ」
「ン?」
「……なあ……なあびゃくや。アレ、何なの?」
件の焦熱装置の入っているトランクを取り出すのにかこつけて、車のの収納スペースに身を伏して声を潜め、そんな風に聞いてみた。
「アレ、というのは?」
「ほら、例の、斎月さんが持ってる奴」
「君は……聞カん方ガイいと思うガ……そンナに気になルノか?」
「……まあ、それなりに」
いや、あの筒の現在の所在位置が羨ましいと言う訳ではないです、はい。
「……件の〈綱手姫〉のお命を頂戴するためにその戦部式焦熱装置が必要なわけだが……もう一つ、お出まシイただくために必要なものがある。野生動物の延長上ノモのだからな、傷を負っていル時には、簡単には姿を見せン」
――はて。
ウィッチを、誘き出す?
何か、そういうの、最近聞いたよな?
そういう、生物としての習性……危険を忌避し、自己の生命の安定を最優先するという原則を破ってまで、攻撃を仕掛けずにはいられないおとりとなりうるもの。
「……以前、ウィッチの呪いを受けて処理さレタ者の、体の一部。それを加工したものだ」
「――っ! じゃあ、それって……」
「……いや、その言い方は正確ではなイか。……殺されたのだ、人類を守る教皇院の手にヨッてな」
静かに付け加えたその声には、わずかにだけど、非難するような色があった。
「あレヲ開示スれば、すぐにでも姿を見せるだろうが、……そういウ危険なものだからな、使い終わった後には、すぐに再度厳重に保管するこトニ……」
「――びゃくやっ!」
……そして、ぼくたちのそんなやりとりは、彼女の耳にも捉えられてしまっていたようで。
少し前に立っていたはずの斎月さんが、血相を変えて寄ってくる。
「……勝手に、御剣さんにそんなことを言わないで! ……御剣さん……その……」
びゃくやへの一声だけはするどいと言っていいものだったけど、斎月さんは困り果てたような顔だった。
「彼にはいツカ言っテ置くベキことだろう、くおん」
「……すみません、隠すつもりはなかったのですが」
隠すつもりはなくても、話し難かった、そんなところか。
……まあ、そりゃそうだろう。
「その……斎月さん……それ、見せてもらっても……いいですか?」
それでも、聞いてしまった以上、やはりそれをそのままには出来なくて。
斎月さんは、少し逡巡してから、懐にしまっていたそれを取り出し、ぼくに手渡した。
「見る、だけなら……」
細い円筒の、先端部分、半透明のカバーが被さった、その奥で。
――赤黒い、石の欠片みたいなものが、収まっていた。
小さく冷たい金属の筒に収められたそれは、どこか、鮮血に似た色をしていた
「…………」
……一歩間違ったら、ぼくもこうなっていたかもしれない。そういうことか。
納得ずくのはずだったことではあるが、……流石に、少し堪える。
「……お返しします」
斎月さんは、無言のままそれを受け取ると、元通りにしまい込む。
そのまま、申し訳なさそうに、ふいと俯き、斜に目をそらす。
「君ハ……わたし達ヲ責めてもいイとこロだぞ?」
頭上からそんな声が降ってきたので、
「別に怒らないよ」
と、返す。
「まあ、愉快じゃないのは確かだけどさ、それは精々、斎月さんが感じてるのと同程度だよ」
言い終えると、もう一度、前を向き直った。
再び向けた視線の先には、精々あと十分と少しで炎上し倒壊することになるであろう、先程と何も変わらない、古ぼけた建物。
……ああ、大丈夫だ。
ぼくは何も感じないし、何とも思わない。
「ええと……それで……ぼく、どうしてたら良いですかね?」
微妙に気まずくなったので、車の中に戻っていようかとも思ったが、そうもいくまい。
「万が一ということもあります、わたしとびゃくやと、一緒にいてください、それが一番安全です」
「さっきのおとり餌を開けばそっちを最優先で狙ってくるだろうが、向うも傷を負って腹を空かせている。呪いなしデも君はごチソうに見えるってこトを忘れルなヨ」
「……そっか。……ああ、そうだよな?」
「……いや、忘れテナかっただろウナ?」
「……ごめん、ちょっと、忘れそうでした」
「まッタく……気ヲつけてくれよ?」
「いや、何て言うかその……斎月さんと一緒だから、大丈夫かなって気分になってて……」
言い訳にもなっていないようなことを口にするぼくに対して、
「……ベストは尽クスが、限界はあるかラナ……軽はずみな行動はツツしんデクれよ?」
「……はい、絶対に、守ってみせます」
と、それぞれが口にしたのは、まったく同時だった。
直後、斎月さんは微妙に下唇をかみしめていて、びゃくやは気まずげに明後日の方に嘴を向けていた。
……いや、仲良くしましょうよ、2人とも。
「まあ、そノ焦熱装置運ぶのさエ済めば、君は待っていてくれレバいいノダから」
その言葉にはいはいと頷き、トランクを抱えなおして。……ふと思い出す、みやこさんが館から立ち去る際、ぼくを呼びとめて、二言三言言葉を交わすとともに、手渡されたもののことを。
「あ、でも……そうだ、これもらいましたよ」
脇に手挟んでおいたソレを、引き抜いて示した。
武士が腰に手挟む大小の、小の方。
黒漆塗りの鞘に収まった脇差が、今ぼくの手に握られている。
「っ……!」
鞘から抜いてみると、研ぎ澄まされた刃の輝きが、目に刺さる。
刀剣の目利きなんかできないが、斎月さんの持つ、神器と言うのがふさわしいほどの大業物には及びもしないにせよ、それなりにしっかりした作りの一振りである。
少なくとも美術品としてはそこそこ価値がありそうだ。
「あはは、こんなもの渡してぼくにどうしろって言うんですかね?」
「……あなたは……それを、受け取ったのですか……?」
どこか、低く押し殺したような声で、斎月さんがそう尋ねてくる。
「まあ……一応。使うことはないだろうとは思いましたけどね」
「すみません」
……一瞬、目と耳を疑った。
斎月さんが、深々と頭を下げていた。
「一応、慣例としてそういうことはあるのですが、あなたには必要ありません。それは後でわたしから返しておきます。二度とこういうことをしないでほしいって、ちゃんと言っておきますから。……もっとちゃんと、あなたの傍にいるべきでした」
いや、頭を上げてほしい。
……確かに、彼女が苦戦するような相手を、ぼくが加勢した程度でどうにかなると思われているわけではないし、……彼女としてはプライドが傷つくことであろうけれど。
……何か、おかしい。
「あー、あノナ、昴一郎……大体君、ウィッチを……生き物を殺スなンてことが、そモソも君にできルノかね?」
「いや、そういう問題じゃ……」
「そういう問題、ダろう?」
まあ、持ち主が誰であれ、武器は武器だ。
美術品としての価値云々はともかくとして、これだって確かに、広い意味では件の戦部式焦熱放射装置と同じ〈兵器〉には違いない。
「……そう、だな、できないだろうと、思う」
そう答える言葉も、我ながら、何とも途切れがちだった。
多分できない。少なくとも今は、聞かれてもそうとしか答えられない。
自分の命を守るためという仮定の上であろうとも、そういう「強い」言葉は、ぼくからは出てこない。
「あの……何のためのものだと、おもっていたんですか?」
眉をひそめて、斎月さんが尋ねる。
流石に、既に口にした通り、これを振るって斎月さんの為に「及ばずながら」と助太刀致せということまでは望まれてないということは判ってはいたが。
「……お守り、みたいなものだと思ってました」
使うことはまずなくても、人間はただ武器を持っている、最低限身を守ることができるあてを持つことで多少気が大きくなる。その余裕はうまく働けば冷静さにもつながる。
……そういうものと、認識していた。
「はハはッ、お守りでウィッチが倒せたらソれはすばらしいな!天才戦部卿の発明品も、それからわたしも明日からはお払い箱サ!」
びゃくやの嫌味も、どこかいつもの調子とは少し違う、ふて腐れたような調子があった。
「だからそこまでは思ってなかったって」
「びゃくや、意地悪な言い方をしなくてもいいでしょう?」
「まあ、仮に、くおんが万が一その蝸牛だか蛞蝓だかに敗れた場合」
びゃくやが、意地悪どころか悪趣味な、ありえないであろう仮定を持ち出してから言う。
「その時はそれを使いたまえ。余計な苦痛を、味合わズニ、済むぞ」
数秒遅れて、その言葉の意味するところが、ぼくにも理解できて――さすがに、血の気が引く。
つまり、この脇差は、ウィッチと戦うための物ではなく。
「そ……そういう意味だったのかよ!」
つい大声を出してしまった。
だったらせめてこれ、毒薬とかにしてくれよ、自分で自分の喉やら心臓やら絶命できるまで抉るの、結構大変そうだぞ。
「……御剣、さん」
聞こえてくる、感情のこもらないその冷えた声に、後悔せずにはいられない。
……ああ、どうして、どうしてぼくはほんの少しの間だけ、平気そうに振る舞うことができなかったのか。
斎月さんの声が、冷静に徹したものであるが故に、いま彼女に圧し掛かっている罪悪感とか自責の念とかそういうものがどれほどなのか、いま彼女にどんな顔をさせてしまっているのか。なにより如実に伝えてくる。
そう思うと、どうしても、振り返ることが出来かねた。
「……すみません、取り乱しました。……行きましょう、斎月さん」
色んなことを割り切って、斎月さんにそう声をかけて、促した。
そして目にした斎月さんの表情は、もはやぼくに対して済まなそうな顔をしてみせることすら、彼女の矜持が許しはしないのか……色々な物が渦巻いているその胸中をすべて凍りつかせた、仮面のような無表情、だった。
続け様に目の当たりにすることになった、教皇院と言う組織の持つ冷徹な面。
それらはすべて、彼女自身に非があることではない。
教皇院という正義の組織の大原則となる方針が、ぼくのような、たまたま運悪くして、他者にとっての危険物と化してしまった奴をいちいち多大なリスクを払ってまで生き延びさせることを認めておらず、気の毒ながらその帰結として命を失うに至った際にも、残った者の為に有効活用しようともせずにただ葬るなんて非効率的なことも、よしとしていないのだから。
身の程知らずにも、彼女たちの手助けをしようなんて申し出る者を戦いの場に伴うのなら、最悪の場合、安楽な最期の迎えられるようにはからうのも、せめてもの慈悲と言って、差支えがないことのはずだ。
けれど今、……斎月さんともあろうひとが、いちいちぼくごときの感情の揺れを気にかけ、戸惑い、迷っている。
そっちの方が、ぼくには、辛い。
「あー……とりあえず、これはまだ持ってます。ぼくから次に合った時に還しますよ」
それが、彼女の正しさを損ねることはないし、あってはいけない。
ましてや、こんな程度の事で、ぼくの彼女に対する信頼が揺らぐことなど、ありえない。
……ああ、だからお願いだ。そんな顔をしないでほしい、斎月さん。
……ぼくのここに来た理由の九割は、もう済んでいる。早くここでするべき事を片付けてしまおう。
そうしてしまいさえすれば、彼女がそんな居心地の悪さを感じることも、ないのだから。
眼前の木造の建造物を、どこか遠いよその国の風景みたいに眺めながら、声をかけた。
……ここは現在既に閉鎖された施設であって、出入り口に鎖錠もされているはずだけど、斎月さんが合鍵を受け取っていたのは見ている。
「……鍵、あるんでしたよね、貸してください」
「……くおん、昴一郎の言うとおりだ、もう行コウ」
鍵束を受け取る、びゃくやに促され、斎月さんもそれに続いた。
「……ン?」
「北側からでは…ありませんでしたか?」
ぼくが向かう方向を見て、ふたりが問いかけた。
「……この部屋だったら、
件の爆弾入りトランクを肩に担ぎ、足を進めてゆく。
「……えっと、そこ、段差があるから、気を付けてくださいね」
ふりむかずにそう告げる。斎月さんに限って、そんなもので足元を掬われることなどありはしないだろうけど、言っておくに越したことはないだろう。
「あ、ほンとだ、転ぶなよくおん、下着が見えるぞ」
「……判っていて転んだりはしませんよ」
……なら、いいんですけど。
――目指すのは、3階、正面突き当り、多目的大教室。
○
滞りなく合鍵で扉を開け、滞りなく目的の大教室へとたどり着いた、そこで――
ちょっと、予想外の光景が。ぼくたちを出迎えていた。
……まず目についたのは、壁一面に張られたパステルカラーの模造紙。
その上に張り付けられた、大量の写真や、子供がクレヨンや水性絵具で描いた風景画や、同窓生の似顔絵や、色紙を切りぬいてつくった、花や鳥や……。
「……う、わ」
「ねえ、びゃくや。ここ……って、確か……」
「どウシた?」
ぼくはそれに対していかなる感情もなかったのだけれど、斎月さんはちょっと異なるようだった。
「……資料にも、書いてあッタだろう?」
「――閉鎖された、児童保護施設です。もう、役目を終えて数年経っています」
「そウだ、そシて、ここは来週には解体される」
「でも……こんなの……きいて、いなかったよ?」
「資料には……書かれていなかっタカらな」
それは多分……、知る必要がないことと、そう判断されたのだろう。
それでいいと思う。おそらくは、ぼくだってそうする。
斎月さんが目を向けている黒板には、よく目立つ桜色のチョークで、ここの施設名、そして、明日の日付と「思い出をありがとう」とか「さようなら」とか「絆は」とか「未来に向かって」とか「永遠に」とか「それぞれの夢」とかの文字が、カラフルな文字で記してあった。
「来週で解体されるにあたって、卒業生が、ここでお別れの会みたいなものをすることになっていたようです」
「その……予定日は……」
「はい、明日、ですね。だから……今日の昼くらいまでは、その同窓会の実行委員と有志たちが集まって、ここで準備していた。……みたいですよ」
残念ながら、その時間と手間は、すべて徒労に終わる。
間もなく、ひとりの天才が人間を護るために作った道具によって焼き尽くされ、地上から消える。
それはけして誰かが、悪意を持ってそうしているわけではなく。誰もが納得のいく理由で、半日ほど前に決まったこと。
効率的にウィッチを駆除し、多くの人の生命と財産を守るために、ここを選ぶのが適していた。
それだけのことだ。
今日びよほど脳が煮詰まったライターでもやらないだろうが、TVドラマのように、泣き叫ぶ子供たちがまだ残っている孤児院にブルドーザーを突っ込ませて解体工事をはじめようとか、そういう話ではない。
……解体の手間も省けて大助かりと言ってしまってもいいだろう。
……ぼくの頭でも理解できる。
斎月さんだって、そう思うはずだ。
「……どうしたんですか?早く爆弾セットしましょう、ぼくじゃそれ、できないし」
「あア……さ、くおん」
一度だけ黒板に、そこに書かれた明日の日付に目をやった。
そう、ほんの数時間先だったはずのその明日は、――来ない。
この建物は、あと精々、数分で地上から姿を消す。
もうそのように決まっていることだ。仕方がないことだ。
けれど。
「……びゃくや、ここにいて、御剣さんについていてあげて」
「くおん?」
「少し、予定を変えます」
「どうヰう……ことだ」
――けれど、白い少女は、静かにそう告げる。
「…焦熱装置は、使いません。この建物も、燃やしません……ここの人たちに、お別れの会をさせてあげたいと思います」
……咄嗟に、彼女に対して答える言葉が出なかった。
まさかと思うが、おい。
「きっと、この人たちにとっては、大切な……自分が育った場所だったんです。……ひとりでも、それで悲しむ人がいるのなら…わたしは」
「そっ……」
「そレには同意できない、」
ようやくぼくが口を開こうと思った、その時にはびゃくやが先んじてそう言葉にしていた。
「私は君の道具ダ、最大限君の考案する戦術ヲ忠実に遂行し、最大限君の判断を優先シ、最大限君の意思と感情を尊重しよう、ダが、君が明らかに「するべきデないこと」をしヨうとしているのを、見過ゴすわけにはいかない」
いま、ぼくの言いたいことは、大体彼が言ってくれた。
そう、彼女は、この建物をそこまでして、――もっとも手っ取りばやく脅威を排除するための戦術を放棄してまで、護るべきではない。
「わかった」
「それデあレばよい、さあ、早く」
「そうじゃ、ない、……賛成してもらえないなら、それでもいい」
本来ならば、肩口でもつかんで彼女を止めなければいけないのであろうはずなのだが、それはできず。
「……わたしはひとりでもたくさんの人を、悲しみから、守ってあげたいから」
ぼくは、すぐそばをついと通り抜け、窓際へと立つ彼女を見送るしかなかった。
「少し時間がかかると思う……から、……御剣さんを護っていてね。びゃくや」
古びたサッシの軋む音と、小さくつま先が床を蹴る音と、短くつげた声だけを残して。
斎月さんは、窓辺から闇夜へその身を躍らせた。
○
ひと跳びでかなりの距離を跳躍し、グラウンドの中央近くに、ふわりと舞い降りる。
宵闇の中で、斎月さんの白いブラウスが、鮮烈に目についた。
「……窓を閉ジろ、昴一郎、寒い」
苦々しげにつぶやくびゃくやの促すのに従い、ぼくは窓ガラスを閉める。
ほんの一枚のガラスに隔てられただけなのだが、長い黒髪を風になびかせるに任せて闇の中に立つ斎月さんの姿が〝活性〟のおかげだろうが、妙にくっきりと見えた。何だか、テレビの画面に映る遠い世界の景色のようだった。
何ら逡巡することなさそうに、懐から取り出した銀色の筒を、斎月さんは頭上に掲げた。
掲げたソレは、先端のカバーが開き、その中からの鈍い光を、仄かに零れ出させる。
「……来るゾ!」
びゃくやが叫ぶ、――刹那。
地を割り土砂を撒きながら、それは姿を現した。
質感――白に近い半透明、表面は粘液に覆われたように濡れている。
形状――節と呼ぶべき個所は伺えず、一定して一本の太さがまずは10センチだが、先端の数十センチほどは、刃状に硬質化していた。
その数――視認できただけで、まずは十四本の…管状の器官、生きた鞭。
悉くが、まず数メートル真上に伸び上がったかと思うと、鋭利にとがった先端を、――斎月さんへと、向けていた。
――ぎゅん!
おそらくまともに突けば鉄板でも穿ち、蜂の巣に変えるであろう初速をもって、14本全てが、一斉に放たれた。
が、それが目標を捉えることはない。
斎月さんは機関銃の斉射のように降り注ぐそのすべてを、数ミリのところで躱し逸らし、手にした剣の切っ先で払うことすらせずに虚空を切らせ、半歩分だけ踏み込んで、鞘ばしらせた愛剣を一閃させる。
ぼとり、ぼとり、
槍の穂先のようにも見えた部分を悉く切り落とされ、生きた鞭は断面から体液をこぼしながら、ひゅるひゅるとしりぞき、その根元側、地面の下へと引き下がる。
グラウンドの土の上で、切り落とされた箇所が白い炎に包まれて消し炭に変わって行った。
「……そんなものでわたしは仕留められない、姿を見せたらどうですか?」
告げる、その言葉に応えるようにして、地の底から、ソレの本体部分が姿を見せた。
……ギリシャ神話で言うところの、〈ケンタウルス〉。
下半身が馬の胴体になっている、半人半獣の種族。
さらにその後ろ半分が魚やイルカのそれになっている、〈イクティオケンタウルス〉なんてのもいることになっているのだったか。
アレの下半分を、馬ではなくワゴン車ほどのサイズの、蛞蝓の胴体に入れ替えたようなものを、想像して頂きたい。
そして、その上には、生白く透き通って、てらてらと粘液を纏いつかせた、樽を思わせるシルエットの胴体と、末端に行くにつれて肥大する形の二本の腕、芋虫を五匹づつを並べたような、計十本の指。
ならば最上部に位置しているボール状の肉の塊は、あれは、頭か。
……つまり白い粘土をこねあげて作ったような、歪な、人間の上半身の模造品が乗っかっていた。
ソレは、おおむねそんなものであった。
頭に当たるその丸っこい部位には、目や鼻、耳と見えるものはなく、のっぺりした下半分に、裂傷のような裂け目が開いていて……
その裂け目は、ゴムホースに勢いよく息を吹き込んだような声を、あげた。
「ぼ、ああ、あああ、あああああああ」
おそらくは威嚇の為のものであろう声と、遠く離れているこちらにまで十分に伝わってくる、殺意と、破壊衝動と、……捕食の意思。
「…ああ、出てきましたね」
真っ向からそれを叩きつけられながら、斎月さんは動ずることなく、目前の敵に向き合い、懐を示す。
「――滅茶苦茶に壊したいんだろう?わたしを、それから、これを」
「ぼああああああああああああっ」
顔(にあたると思われる部分)を斎月さんに向け、その姿を認めると、再度雄叫びをあげる。
それは、出来損ないの管楽器の音のようにしか聞こえなかった。
……が。
「……ほう……つ……い!」
幾度も繰り返される咆哮はやがて、不快なビブラートのかかったものながらいくつかの音節に途切れていく、
「……まほう……つかい……!……まほう、つかい!」
数回目のそれは、確かに、意味を持ってそう叫んだように聞こえた。
「……喋ってるぞ、あいつ!」
「そレがどうした!喋るくライ私にもできるぞ!」
――言ってる場合か。
……ウィッチというのは…言葉を操るのか?
それに、……何だ、何だ、アレは。
白く、粘液にまみれた胴体部分の、中央あたり、体幹に位置する箇所。
「……あの……」
白く半透明の体から漏れるように、薄赤い光が放たれているのが、見える。
「なあ……あの……赤く光ってるの、何だ?」
「ン? ……ああ、それが見えるようになったノか」
うわ言の様にそう口にしたぼくに、びゃくやは
「ウィッチにはあれガ灯ってル、大小、発光具合の強弱はあれド、共通してナ」
と、だから何だ、というような口調で返した。
そういうものであるらしい。
視線を、斎月さんと、ウィッチに戻す。
両腕を振り回し、不格好な指を向けて糾弾するように斎月さんを指して、蛞蝓のウィッチは、もうはっきりと、意味を持って聞こえる声で、叫びをあげた。
「……まほう……つかいッ!」
斎月さんが応じる。
「そうとも!」
「……ツク……ヨミィッ……!」
「そうとも!」
斎月さんが、眼前の敵に己が名を告げる。
「我こそは133代ツクヨミ、我が名は〝剣の魔法つかい〟斎月くおんなるぞ!」
そして、これから為すべきことを、宣言する。
「さあ、討伐の時間だ!」
風切の音が、短く鳴った。
○
戦いが始まった。
〈スネイルウィッチ〉……いや、〈綱手姫〉は、体から新たな触腕を続けざまに生み出し、それをのたうたせ、叩きつけるように斎月さんに向けて振るう。
絶え間なく続くその攻撃を、斎月さんは掠らせもせず掻い潜り、払いのけ、凶器の穂先を切り飛ばしてゆく。
その様子を見ながら、ぼくはびゃくやに尋ねた。
「びゃくや……ここから、斎月さんと話せるかな」
「ン?できンことはないガ。……ふむ」
そう答え、びゃくやはばさりと一つ羽ばたくと、ぼくの背中側に移動する。
「少シ、痛むゾ?」
という前置きの後に。
首の後ろに、何か打ち込まれた。
「あがっ!」
激痛が走り、悲鳴を上げる。
痛みは一瞬で消えたものの、じんじんと痺れるような感覚が、首を中心に背骨に沿って駆け抜ける。
「……何……すんのさ……!」
「くおんと話したインだろう?今繋げた」
「痛いぞ……すごく痛い……!」
そりゃたしかに言われたけれど、ここまでの痛みを伴うならそう教えておいてほしい。
少しどころではない。背中に熱湯でも流し込まれたかと思ったじゃないか。
「……どうすればいい?」
「くおんのことを意識して、そのまま喋レ、そレで伝わル。喋る余裕くらイはあるが戦闘中だ。手短に頼ム」
とりあえず、言われたとおり、声に出して呼びかけてみる。
「……ええと、その、斎月さん!」
「……御剣さん?」
なるほど、半信半疑ではあったが、確かにすぐ傍で会話しているように斎月さんにはぼくの声が届いているようだし、ぼくの耳には斎月さんの声が聞こえる。
戦闘中に声をかけたりするのもはばかられるところではあったが、こうして見ている限り、斎月さんの動きには一切影響がないように見えた。
手を使う必要がないというのをのぞけば携帯電話と大差ないものの、まあ、こういうときにはそれなりに便利なものであるとは思う。
そのまま、話を続けた。
「斎月さん、……何かぼくにできることがあったら、言ってください」
自分の今身に着けている白い上着を一度見て、ひとつ、ダメ元で提案する。
「たとえばその……これ外して、ぼくが囮になるとか」
「……どうすル?コういっていルが?」
答えるようびゃくやに促される斎月さんだった、が、
「御剣さん。……本気じゃないですよね?」
案の上、冷たい声が帰ってきた。
「え……あ……ハイ」
「冗談なら言わないでください。……何かすることはあるかとお尋ねでしたか。……「そこを動かないでください」以上です」
静かな口調できっぱりとそう告げるのと同時、軽く側面に身をそらした斎月さんの白刃が、顔面のすぐ脇を通り過ぎた触腕を叩き落としていた。
続けて二本、三本、触腕が切断され、炎上し灰となりながら地に落ちる。続く刃はない。
今、触腕はすべて失われている。
斎月さんの刃を阻む障害物は存在していない。
――好機。
そうぼくの眼にも映ったのに違わず、斎月さんは一息に踏み込んでいた。
斬ッ!
白くゆらめく陽炎をまとった剣が、逆袈裟に「綱手姫」の胴部分を切り裂いた。
「…つっ?」
直後。斎月さんが、大きく数歩飛び退る。
「どうシた、くおん!」
「斬った手応えが……ない」
「……何?」
斎月さんの振るった聖剣は、確かに白くぶよぶよしたその胴体を引き裂き、断面に燐光を叩き込んでいたはずだった。
だが、〝綱手姫〟と呼称されるウィッチの、薄く透き通った肌には、毛ほどの裂け目も残っていない。何事もなかったかのようにきれいに癒着していた。
……恐らくは、斎月さんの斬撃が鋭利にすぎる、断面が鮮やかすぎるのだ。
それに加え、叩き込んだはずの白炎も、体表に纏った粘性の体液に阻まれて内部までを焼くことができなかったようだった。
ただ……単に軟質の滑らかな体表を持ち、火の性質に対して耐性を持つ液状の被膜を纏うというのみならば、昨夜の戦いで目にした中にもいたはずだ。
再生力の方はどうだろう?
ウィッチの形状や能力、特質が素体となった生命体に由来するものであるならば、それもまた同様。昨日見た中には、花水母だの豹紋蛸だの、明らかに高い自己治癒力を持つのが強みであろう個体が何体も存在していた。
しかし結果は僕が目の当たりにした通り、彼らは斎月さんによって、悉くそれらを発揮できぬまま、あるいはその機能を働かせてなお真っ向から打ち破られている。
……であるならば、眼前の巨獣は、昨日の個体たちよりも、純粋に生命体としての格が高い。
生命力の総量と、一秒ごとの回復量の両方が桁外れに大きい。
名前を付けて呼ばれ、特殊な個体と言われるだけのことはある。
そういう話なのだろう。
「一山いくらじゃ……ないってことか……!」
「となレば、これは少々厄介だぞ」
びゃくやの嘴からも、苦々しげな声が洩れる
刃も、刃から白く揺らめく燐光も、単体では決定打とはなりえない。
そう考えている間にも新たにその胴体部分から、幾本もの触腕が、植物が芽吹く様に生じてゆく。
のみならず、一種類の刃が生えていただけだった先ほどまでとは異なって、
「……来るっ!」
一つとして同じ形状のものは存在しない、数十種類、数十本の生きた鞭が、蛆虫が群がるように斎月さんへと殺到する。
「……随分と、芸達者ダな。あレハ……討伐に失敗した魔法つかいの持ち物カ…」
「学習……したって言うのか?」
「理解が早くてタスカるよ、その通りだ」
目の前の現象に対して、ある不安が、胸中によぎる。
「じゃあ、斎月さんの剣は?」
「形状を真似ることならできるかもしれンナ。……だが、それは何か問題か?」
「っ……ああ……いや……」
斎月さんの剣は、彼女の小柄な体躯に比しては確かに大ぶりであるものの、刃や柄の形状も全体のバランスも、ごくごく当たり前のものだ。
両刃の刀身には反りがなく、一般的な日本刀というよりは、古墳や遺跡から出土する古代刀に近い。
切れ味と強度こそ素晴らしいものではあるが、それらは使い手である斎月さんの精緻を極める技量あってこそ発揮されるものであり、形状やそれ自体の備える特別な機能は……少なくとも、今のところぼくは目にしていない。あの刀身からゆらめくように立ち上る白い燐光にしても、斎月さんのもつ技術もしくは能力だ。
「何十種類アロうが、あアシて触手の先端から生やして叩き付けテクるだけなら、くおんには掠りモセんよ、手数の多さで仕掛けてくるなら、むしろ同程度の体格、同程度の間合いで次かラ次へと得物ヲ入れ替えて仕掛けてこられる方がまダしも手ゴわいというものサ」
そこまで言うと、びゃくやは一度言葉を切る。
「厄介なのはむシロ……」
……そう、この状況、この流れ自体だ。
「こんなものが……わたしに通じるかぁっ!」
一声叫び、斎月さんは白刃を乱舞させる。
ぼくの眼には一度閃光のごとく彼女の両手が掻き消え、そしてすぐ再び視認できるようになったという、それだけのこと。
だが、十数本の触腕が尽く細切れに刻まれ、グラウンドの赤土の上に落ちてゆくという結果によって、斎月さんが両手に下げた剣によって一秒に満たずに、それを為したのだということが物語られる。
依然変わらず、斎月さんは一度たりともその身に触腕とその先端の凶器を触れさせることなく、繰り出される攻撃を破壊し続けてゆく。
だが……
「……くおん」
すこしの沈黙の後、びゃくやが切り出した。
「校舎内にウィッチを誘導、当初の計画通りに、建物ごト焦熱装置で焼き捨てることを再度進言する」
びゃくやのその提案には、ぼくもまったく同意できる。
焦熱装置も異常なくここにある、いまからでも十分、当初のプランは実行可能なのだ。
「そう決めるのは少し待って。……剣も魔法も、効いていないわけじゃない、それに、攻撃の為に高質化させた箇所にはしっかり入っているし、あれは自分の体を材料にして作り直しているだけだ、無限に再生できるわけじゃない、その部分はすり減ってゆくし……削り合いなら……総合力でわたしが勝つよ」
「そノ削り合いをしなくてもいいダロう。いツカらそンな意地を張るようになった!格好をつけている場合か!それとも……体面デもきにしているのか!」
「違う……そんなつもりはない」
「君のやリタい通りにしていたら君は劣勢に陥る!わたしの役目はきみを勝たせることだ、ツクヨミとしてのメンツを守ることまデは含まれていない!」
斎月さんとびゃくやのやりとりに、つい、横から口を挟んだ。
「斎月さん、素人が口をはさむなと言われそうですが、ぼくも、そうした方がいいと思います」
彼女たちには、戦術の蓄積があるし、武装も進歩している。
――だから心配しないでほしい。それは、確かに彼女自身の言葉だった、
ウィッチに対して致命的なダメージを与えられる発火装置という進歩した装備。
破壊しても問題ない箇所に追い詰め、爆弾で体組織の大部分を焼却してから安全かつ確実に止めを刺そうという完成された戦術。
けれど、今の斎月さんは、明らかにその両方を放棄し、己の個人的な武勇だけでしのごうとしている。
単に、この廃校舎を、今この場で燃やし尽くすということを厭うがゆえに。
「そうした処で、この建物がなくなるのは決まったことで、もう動かせない。……悪いけど、斎月さんがそこまでして、ほんの一日だけもたせるほどの価値を、ぼくはこの建物に見いだせません。……だから」
……もっとうまい言い方が、あるのかもしれない。
けれど、出てくるのはそんな言葉ばかりで。
「御剣さん」
だから、遮るように呼び掛けられるのも、当然では、あるんだろう。
「……すみません、一度切ります」
そう言ったきり、斎月さんからの答えは途切れた。
さぞ、冷たい奴だと思われたことだろう。
……事実だから仕方ないけど、さ。
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