第一夜「魔法つかいと御剣昴一郎」(Bパート)

「ねえ、びゃくや、いつまで拗ねているの?」

「拗ねていルダと?わたしは至ッテ平静だヨ」

「……そうは、見えない」

「わたしは至ッテ平静だヨ」

「なら……別にいいのだけれど」

「ところでさッキの学生ダがな……間違いなク、君には私シカ友がいなイト思ったゾ?」

「……やっぱり、そうかな?」

「アゝ、君のことヲ、憐れンデいる顔だっタゾ」

「でも……いいひと、だったよね? ……さっきみたいなのじゃなくて、もう少し、ゆっくりお話しできると、良かったな」

「いいヒト…ハ!」

「わたしたちを助けてくれたんだよ? ……そんな風に言わないで」

「思ヰ出しテモ腹が立ツ。あの破廉恥漢め、わたしの……わたしのアンなところを……!」

「別にいいでしょう、喉の下を撫でられたくらい」

「君は、彼がいキナり喉の下をまサグってきたら、そレヲ許容するコトができるのカネ!」

「……あの人は、そんな事しないと思う」

「わたしはさレタ! ……それに」

「それに……なに?」

「……そレニな。早死にすルぞ、あアイう奴は」

「……そう、だね。あのひとにも、そばにいて、守ってくれるような誰かがいると、いいね」

「そレカら、君モあの程度のことで、動揺を見せルナ」

「……ん」

「……何が起こっテモ、何を言わレテも、揺るがズ、動ジ、ず強イままの君でいるンダ、……いいな?」

「ん。わかってる、大丈夫。……わたしは大丈夫だよ、びゃくや」

「そろソロ、報告さレタ地点だナ?」

「……少し、月が明るすぎるかな」

「特に、問題はなかロウ」

「ん。……でも……雨でも降ってくれないかと思って」

「その確率は非常に低イ」

「知ってる、希望を言っただけ」

「なら、葵の坊やでモ連レテ来れバよかっタか」

「そんなの、保護者が許してくれないよ。……平気、わたしは、いつでも行ける」

「……近イナ。……この下カ」

「……それじゃ、行こう、びゃくや」


 …まず、よくない点。


 ここに来るとき、僕は特に足音を忍ばせるとか、息をひそめるとか、そういうことは特にしていなかった。

 僕の足音も呼吸の音も、向こうに丸聞こえであったろうと云うことになる。

 すでに、ぼくという来訪者の侵入は察知されていると考えた方が無難だろう。

 今更どれほどの意味があるかはわからないが、叫びだしたいのを必死でこらえ、手で口を覆った。


 単に、今は食事の最中であるから後回しにされているだけであり、いつでも殺せるから捨て置かれているだけであるという可能性だって十分にあるから、こんなことにどれだけ意味があるかわからないが。

 何にせよ、ただこうして息を殺して小さくなっているのでは、どうにもならないということだけは間違いない。


 あっちの人のことは…考えるまでもないか。

 首から上を食い千切られ、噛み砕かれて生きていられるなんて、そんな事があり得るはずがない。


 それこそ、魔法つかいでもない限りは。


 あの血の渇きようから言って、すでに数時間は経過していると見て取れる。

 もっと早く来ていれば、なんてことは考えるな。

 もう、助けてあげることは不可能なのだ。

 ならぼくが今のところするべきなのは、どうにかこの場から生きて逃れること。

 それから後は……


 いったいどうすればいい?


 まず、あの化け物が食うだけ食ったら今度は睡眠欲を満たすために眠ってくれるのが一番だが、その手の希望的観測はしない方がいい。

 ここが何階かといえば、6階だ。窓から飛び降りたら確実に地面に真っ赤な染みを作る。

 入ってきた方を振り返る、上がってきた階段は……見れば小砂利と、外から吹き込んできた枯葉が細かく散っている。あっちはもう使えない、剣呑すぎる。


 では反対側は?

 外から見たときは分かりづらかったが、この建物、二つの棟が渡り廊下で繋がっている。

 あちらから回り込んだ方が、まだしも静かにこの場を退散できるかもしれないし、追われても建物の構造自体を盾にできる。。

 しかし、あちらは下の状態がわからない、下に降りたところで外に出られないとなればそれこそ目も当てられない。

 ――おおおおおお……ん。


 化け物。―その形状から〝棘付き〟と呼んでやることにした―が、咀嚼と嚥下を繰り返していたその大きな上下の顎をいっとき休め、気分よさそうに大きく天井を仰いで吠え声をあげた。


 これか、この叫び声か、ぼくが聞いたのは。

 空気の激しい振動で、ジェット機が通過した時のように窓ガラスがびりびりと震える。

 間近で聞くと、こうしているだけでも耳がおかしくなりそうな大音量。


 しかし……妙だ。


 なぜあんな雄叫びが、ぼくにしか聞こえなかった?

 もしかしたら、ぼくは頭に食らった投石で脳を損傷して、幻覚でも見ているのではないのか?


 或いは、ぼくはあの白いカラスを目にした時から、精神に異常をきたしていたのではないんだろうか?


 …いや、そうであってくれたならば、どれだけその方がマシであろうことか。

 たった今だが、それよりも状況はさらに悪化した。

 最悪の、さらに最悪があった。


 こつん。こつん。

 足音が聞こえる。 

 ―ぼく以外に、誰かが近づいてくる。

 

 ――どこの誰だよ、こんなところに後先考えずにフラフラ入ってくる馬鹿は!

 危険を察知する、生物としての勘というものがないのか?

 ……ああ、いや、それはぼくもだけど。


 息をひそめ、身じろぎの音を忍ばせて、足音のした方を見やる。

 渡り廊下の向こう側、小さな人影が、こちらに向けて歩いてくる。

 想定していた最悪よりも、さらに最悪だった。 


 だって、アレは。


 見間違えるはずがない、他人の空似なんてありえない。

 小柄な背丈、風が吹くたび揺れる、長い黒髪。

 大人しげな、かわいらしい容姿。そして、肩に泊まった、一羽の鳥。


 ――アレは、さっきのカラス子ちゃんと、びゃくやじゃないか。


「――っ!」


 大きく息を吸った、口の中が乾いていく。心臓が痛いほどに鼓動を早める。

 ……待て、何を考えてる。

 今吸いこんだ息で、何をしようとしてる。

 馬鹿なことを考えるな。


 「来ちゃだめだ早く逃げろ」とでも叫ぶつもりか。


 やめろ。


 お前が誰かを助けよう、誰かの役に立とうなんて考えたって、それはいつだって絶対にろくな結果にならないじゃないか。


 御剣昴一郎おまえは、ギャルゲーの主人公じゃないんだぞ!


 ごめん、カラス子ちゃん。

 ごめん、びゃくや。

 ぼくにどうにかできる範囲を、とっくに越えてる。

 今度は、ぼくには何もしてあげられない。

 君たちは運が悪すぎた。

 せめて……ここにいたのがぼくでなければ。


 もっと他の……たとえば、……あの人、だったなら。


 こういうのが嫌だから、逃げ出したのに


 ――逃げて逃げて、こんなところにまで来たのに!


 嫌なことだって、目をつぶって、耳をふさいで、下を向いてりゃ終わるじゃないか。


 これまでだってずっと、そうしてきたじゃないか。


 逃げてもいい、逃げてもいいんだ、逃げなきゃいけない。


 逃げろ。


 逃げろ。


 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!


 ――無理だ。


 できない、よな?


 無理、だよな?


 そんなこと、できるはずがないよな?

 ほかの誰か?

 今、いないよな?


 最良は二人とも生還することだけど、それはまずありえない。

 まず最悪は、先にあの子が、次にぼくが、二人ともこの場で殺される。

 ならば次善の結果。

 どちらか、片方だけでも生き残り、この場で起こった出来事を外に伝える。

 生き残れるのはどちらか片方だけ。


 ――なら。どちらを生き残らせる?


 ぼくか、彼女か。

 それは、考えるまでもない。


 ……あの子のことを、ぼくは全然知らないけど。

 彼女の方が年が若い。

 せいぜいその程度しか、理由付けをおもつかないけど。

 それでもいい、、彼女は逃げられるかもしれない。


 さて、選択肢は決まった。

 件の〈棘付き〉は、食事に夢中のようだが、彼女が獲物として捕捉されてからでは何もかも遅い。

 彼女の足音はまだ、規則正しくこちらに近づいてくる。

 〈棘付き〉が、ぴくりと身を震わせ、耳をそばだてるようにしてから、首を捻った。


 ぼくは、もう一度息を吸い込み。大きく声をあげる。


「おいっ!」

 弾かれるように階段の陰から飛び出し、姿をさらしてやった。

「馬鹿だな! 普通こっちだろ!」

 予想していた通り、〝棘付き〟が振り返り、ぼくをその目に捉える。


「ミツヒデさん、ごめんっ!」

 大きく振りかぶって勢いをつけ、手に持っていた荷物を投げつける。


「……牛乳、持って帰れないや」

 牛乳瓶数本が入っていた買い物袋は弧を描いて飛び、狙い通りに〈棘付き〉の頭部に命中した。がしゃんと音を立てて砕け、白い内容物をまき散らした。


「……ほら、こっちにおいで、逃げないよ」

 〈棘付き〉が、今度ははっきりと僕の方に向き直る。 

 さっきまではしゃがみ込んで腰を下ろしていたが、こうして立ち上がれば2メートル半はあるであろうことが判った。

 複眼状になった両目が赤い眼光を増した。明確な怒りがあった。

 とっさに、左側に身を伏す。


 轟音が、三度。


 一回目は、血まみれの床を獣の脚が蹴りぬいた。

 二回目は、狂的な殺意のこもった獣の雄叫び。

 そして三回目は、振りかざした獣の拳が、それまで僕の立っていた場所に叩き込まれていた。


 まっすぐ突っ込んでくるとは分かっていた。

 だから、そう判断した時点で、真横に全力で倒れこんでいた。

 それまで立っていた方を、見やる。

 コンクリートの内壁に、以前テレビで見た、バズーカ砲で攻撃された内戦地帯の建物のように、大きな穴が開いていた。


 なるほど、あの拳を頂戴するとああいうふうになるわけか。

 今のは、なんとか避けられた。

 でも、次は、よけられない。

 防ぐ手段も、ない。

 体を起こそうとしたときには、――もう目の前に、〝棘付き〟の大きな顎が迫っていた。


 ああ、これで本当に、もうおしまいだ。


 本当に絶望した時人間は笑うしかないなんて言うが、それすら出て来やしなかった。


 そして、御剣昴一郎は、つぶれたトマトのように、ぐしゃりと、


「…おヰ」


 目を開けて、見上げた頭上。


「おイ、そこの眼鏡!邪魔になルカら下がっていタマエ」

 奇妙にひび割れた、バラバラの発音を後から編集してつなぎ合わせたような声で。

 びゃくやが、――人間の言葉を、話していた。


「こんばんは。……といっても、さっき別れたばかりですけど」

 そう言って、〝彼女〟は振り返り、ぼくを見る。

「――は」

 早く逃げて、とでも言うべきだったはずのところなのだが、喉が委縮し、そんな言葉はとても出ない。

 抜けるような色白の顔には、さしたる動揺もないようで、

「あの……さっきの学生さん、ですよね?」

 なんて、また会うなんて奇遇ですね。みたいな口調で。

 そしてその手には細長い、布に包まれたが握られていて。

 先端は、――目の前にまで迫っていた、〈棘付き〉の口腔の中に、えぐるように叩き込まれていた。


「……ハッ!」


 そのままの状態で、一歩、いや、半歩前に〈彼女〉が踏み出した。動作としてはただそれだけ、だがそれにより生み出された結果として、乾いた破裂音と、すさまじい絶叫が上がる。

 大型トラックに正面から撥ねられたような勢いで、〝棘付き〟が弾き飛ばされていた。

 そしてそのまま、転げながら、さっきまで坐していた場所まで叩き戻され、苦悶の声をあげながらのた打ち回る。

 ぼくはといえば、……ぽかんと口を開け、呆然とそれを見ていた。


「……あ、大丈夫、ですか?」


 そんなぼくに〝彼女〟が、次いでびゃくやが口々に声をかける。


「しカシ……おかシイぞ。こイツ、が見えていルノか?」

「う……ウィッチ?……っていうの?アレ?」


 たぶん、うわずったぶざまで間抜けなものであるだろう声で鸚鵡返しに尋ねるけど、それすら、何かしらこんな状況の中でも、彼女たちにはおかしなことであるようで。


「わたしの言葉モ通じていル。……そうか」

「ん。……たぶんだけどさっきわたしが〝活性〟をかけたから、だから認識阻害が効いてないんだ」

「まズイぞ、こレハ、後々問題になるカモしレン」

 どうやら、ぼくのことがこの主従の話題に上がっているらしい。 

 相変わらず状況が全くつかめないのだが。

 何かぼく、まずいことでもしでかしたのだろうか。


「すみません、あの、もしかして」

 そんな中で、不意に、視界の中で彼女の黒い髪が広がった。

 〝彼女〟は、這いつくばり跪いたままのぼくの前に立ち、自分の口元に軽く手を当てる、妙にあどけない仕草で、


「もしかして、……あなたは、またわたしを助けようとしてくれたのですか?」


 と、問いかけた。

 ――それは、意図したところとしてはそうであったに違いないが、今までの経緯を見るに、どう考えても助けてもらったのはぼくの方なのだけれど

 こくんと、一度だけ頷く。


「そうですか、ありがとう」

 少し困ったような、苦笑いのようなものではあったけど、くすりと彼女は声を立てた。

「やっぱり、あなたはいい人ですね」

 後で思えば、まさにこのとき、僕は一生分の幸運というものを余さずすべて使い果たしたのかもしれない。

 一人の、かわいらしい女の子が僕の前に立つ。

 小柄な背丈、か細い手足、長い黒髪。

 白いブラウスに映える赤いリボンタイと、紺色のプリーツスカート。

 そして手には、――抜き身の剣を携えていた。


 夜の街、無人のビルの中。


 人の言葉をしゃべる鳥。人知れず人間を食らう化け物。


 そして、剣を持ってそれに立ち向かう小さな女の子。


 こんな物に出くわすとは、いよいよ僕も本当にこれまでらしい。


「あの。……少しだけ待っていてくださいね」

 言って、向き直る。その視線の先では〝ウィッチ〟と呼ばれていた、その生き物が先ほどのダメージから何とか体勢を立て直そうとしている。

 黒い殻と棘に身を包み、威嚇の唸り声をあげるそれに、彼女は一人対峙していた。

 けれどその表情にも、まっすぐに立つ姿にも、ついさっき、酔っ払い二人を相手にしていた時ともさほど変わらず、恐れも不安もまるで見られない。

 下に向けた手首を横に、一度振りぬく。

 剣の切っ先が床を引っ掻き、硬質な音をあげた。


「下手に動くと、却って狙われやすくて危険です。…その線から出なければ、安全ですからね」

 示された足元を見やれば、そこには一直線状に、大量の細かな文字が敷き詰められてい。

 そしてそれは、彼女が手に握っていた、冷たく輝く長剣と同じ、白い光を放っている。


「……まったク、打合せ通りのバックアップがアレばこんナコとにはなラナかった、まったクアあいった連中は信用できん!」

「びゃくや〝鳥籠〟は?」

「既に作成ずミダ、わたしがナ!まッタく鳥籠すら用意してオランとは、無能にもほどがある!」

「なら、いい」

「少しは怒りタマエ!」

「仕方がないよ。担当の子が怪我しちゃったんだし」

「勝手に先走った挙句「後はツクヨミさまにお任せします」だぞ、私たちを何だと思っているのだ!」

「解除までの時間は?」

「15分。何か問題でモ?」

「ない」


 単語が全く分からないが、おそらくは何か事務的な会話を交わしながら、びゃくやと〝彼女〟はゆっくりした、それでも確かな足取りで前に出る。

「あア君、どウセ見えているなら言わレタ通りそこでじットして、見物でもしていタマエ…少しは目デ追える筈だゾ」

 びゃくやが一度ぼくを振り返り、そう告げた時。再度、すさまじい大音量の咆哮が響き渡った。


 〈棘付き〉……ああいや、〈ウィッチ〉だったか、が、先ほど喉奥に受けてもだえ苦しんでいたダメージから何とか回復したか、両脚で立ち上がり、怒りと殺意に満ちた雄叫びをあげていた。

 さっきとのものとは比べ物にならない、本物の殺意だった。

 ぼくが受けたのが猟の獲物を打ち殺そうとするようなものであったなら、これは本当に、自らも傷を負おうと確実に殺さねばならない、本当の外敵に向けるものだった。


 真っ向から直接叩きつけられていたら、ぼくなどそれだけで心臓が止まってしまいそうだ。 


「そこのウィッチ」

「選択ノ余地を残ソウ」

 まず〈彼女〉が、ついで〈びゃくや〉が、その絶叫を一顧だにせず、静かな口調で告げてゆく。


「抵抗するしないに関わラズ、我々は君ノ命ヲもらい受けなけれバナらない。故に、この場で自害すルカ、彼女に斬らレて果テルか。――己にとッテ意味のある方を選びたまエ!」

 逃走も、降伏も許さない。

 それは本当に、ただの宣告だった。

 ならばそれに対して、返されるのは、

 ――再度放たれる、鼓膜をつんざく様な、殺意に満ちた咆哮。


「まだ、複雑な会話はできないみたいだよ、びゃくや」

「……フン!」

 目の前の少女を今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいという怒気にその身を震わせしながらも、一度痛手を受けた経験からか、〝ウィッチ〟はすぐには飛びかかって来ず、むしろ慎重にじりじりと、円を描くように距離を狭めようとする。


「……来るみたい」

「では、――討伐ダ。行け、くおん!」

「ん」

 小さく頷き、ぼくを庇うように前に出た。そして一度正眼に構えた剣を、体の前でくるりと一回転させると――


 〈彼女〉が、変身した。


 いよいよぼくが正気を手放してしまったと思われかねないから、繰り返して言う。

 彼女の身に着けていた衣服が、一瞬にしてその形状を全く別のものへと変えていた。

 全体的な印象と形状は、絵巻物や歌かるたに見える平安時代の狩衣に近い物。

 慎ましやかなサイズの胸を覆っていた白いブラウスは、その例えでいうなら水干に当たる貫頭衣に入れ替わり、両腕からはゆったりした袖がふわりと広がる。

 か細くもしなやかで少女らしいラインの両脚は黒いタイツに包まれて、腰に巻かれた帯からは何枚かの布が下半身全体を包み込む形で垂れ下がる。

 華美なものではないが、光沢と艶のある白で統一され、各所に銀と黒の縁取りがなされたその装束を纏う彼女からは、高位の神官じみた清廉さと、武人の峻厳さが放たれていた。

 そしてその手に依然変わらずあり続けるは、さほど刀剣に対して知識のあるわけでない僕でも感じる、冷え冷えとした威圧感と「業物」の風格を放つ抜き身の長刀。

 小柄な体には不釣り合いにも見えるサイズのそれに振り回されることなく、確かで迷いのない手つきで、一直線に切っ先を向ける。


 仄かに白い輝きを放つ、純白の戦装束。

 儚げな容姿、それに反する冷然透徹たる眼差し。

 そして、告げる。


「――わたしは百三十三代目ツクヨミ、〈剣の魔法つかい〉斎月くおん」


 それが、彼女の名前だった。


「あなたを、討伐します」


 囁くような声で短くそう言って、彼女は戦闘を開始した。

 ――後になって聞かされた話。 その夜、彼女の行っていたことは、特別なことではなかったらしい。

 直接の戦闘が必要となる以上それ故の危険はあるものの、それすら精々通常業務の範疇。


 極論すれば有害鳥獣の駆除、或いは民家近くに巣を作った毒虫を始末するに近いもので、いくつかの注意点にさえ気を付けていれば、彼女にとってはさしたる脅威とはなりえない。その程度の、作業のようなものであったそうだ。

 ただ今回の標的が、厄介なものを胎内に抱え込んでいたことが一つ。

 標的を討伐した上で、その異物を摘出し、回収ないしは速やかな破壊が必要であったことが一つ。

 彼女が単独での行動を強いられており、後方支援と十分な事前工作が行われていなかったことが一つ。

 そして最大のイレギュラーだったのは、大海に落とされた一粒の砂のごとき、ちっぽけな存在。

 すなわち、間の悪い高校生が、その場に居合わせてしまったこと。

 さくり

 さくり

 さくりっ!


 ――斎月くおん。

 そう名乗った少女が、黒い甲殻をその身に纏い爪と牙を振るう〈棘付き〉に向けて、白刃を打ち込み続けるのを、ぼくは見ていた。

 まぎれもなく、あの子は、身を守ろうとするのでもなく、追い払おうとするのでもなく、あの化物を、己の手でコロしにかかっている。

 白く輝く刃が、続け様に繰り出される、的確に四肢の付け根や胴体の中央部といった、確実に致命の傷を与え、殺傷せしめる箇所をめがけて間断なく払われ、振るわれ、叩き付けられる。


 彼女が振るっているのは、弱者が強者に立ち向かう為の努力などという生易しいものではない、今目の前で繰り広げられているような殺し合いか、限りなくそれに近い研磨の中で磨かれた殺戮の為の技術であるのだと見て取れた。

 小柄な体躯をむしろ利点として、竜巻の様に振り回される二本の腕を、大顎と尻尾をかいくぐり、最小限の動きで捌く。

 聞こえてくる音で判るのだが、手に持った剣が立てる音は、目前の〝棘付き〟の肉体に食い込み、引き裂くときの音のみ。

 彼女はけして自分からは攻勢に出ない。

 〈ウィッチ〉の攻撃を空振りさせ、すかさず踏み込んで一撃を加え、速やかに飛び退る。


 攻撃の届く範囲に、自分から一秒以上とどまっていることはけしてない。

 それは勘や本能などというものの立ち入る余地のない、あくまで、理論に基づいた、経験に裏打ちされた戦い方。

 そして、結果的にもっとも効率のいい、いわば処刑方法のごとき戦い方。

 舞うような、と表現するにはあまりに実務的に過ぎ、きれいに見せようとかの遊びがまるで伺えない。

 ああして、小さく小さく傷をつけ、大ぶりの一撃は、おそらく最後の一度のみ。それで足りてしまうのだ。

 あの棘付きの〝ウィッチ〟とて、見かけ倒しどころか、その瞬発力、敏捷性、そして先ほどコンクリートの壁に一撃で大穴を開けた膂力。たとえ、武装した警察や軍隊が駆除に乗り出したとしても、仕留めるまでにはまずかなりの損害を覚悟しなければならないに違いない。


 しかし、こうして目の前で繰り広げられている戦いはもはやワンサイドゲームの様相を呈している。

 ――単純に、斎月くおんと名乗った彼女の持つ技量が剣豪とか剣聖とか言われるレベルのものであり、さらに言うなら彼女の戦闘能力が異常なのである。

 ――だが、そこまで考えて、ぼくは違和感を覚える。

 何故、ぼくはこんなことが判る。

 何故、彼女の動きを、多少なりとも、目で追える?

 見えているがゆえに判るのだが、これは

「常人では動体視力が追い付かないであろう動き」だ。


 本当なら、ぼくの眼にはあの〝ウィッチ〟の周りを、白い物が超高速でひらめく様に動いているのが幽かに見えるだけのはずなのだ。

「くおん、一旦離れロ!」

 びゃくやが大きな声を上げ、彼女、斎月さんが大きく後ろに飛びのいて距離をとる。

 怒りの叫び声を放ちながら、出鱈目に手足を振り回していた〝ウィッチ〟に異変が起こっていた。

 その怒気と殺意のすさまじさを一層ましながら、向かって右側の腕をだらりと垂らし、左側の腕を大きく空に掲げる。

 次いで上がるのは、それまでの怒りからくるものではなく苦しげな絶叫。

 何を考えたか、彼は右の腕で、左の脇腹についた傷をかきむしり、傷口を大きく広げようとしていた。

 だらだらとそこから体液を流しながら、左の掌を、何度も握ったり広げたりすることを繰り返す。

 そして、生物としてはあり得ないことながら、その左腕が、肩口から首のところまで移動した。

「……報告よりも融合が進んでる」

 ぼくには何の意味があるのか判らなかった行動。――だが、斎月さんにとってはそうではないらしく、 彼女の声にも緊迫したものが感じられる。

 そしてそれは、すぐにどういうことなのかぼくにもはっきり感じられる形で具現化する。

 首筋まで移動した片腕が、僕の見ているその前で、堅い殻を内側から歪めるようにして姿を変え、その表面に、赤く爛々と輝く複眼状の眼が現れた。

 元々ほかの指と離れて配置されていた第一指が、裂けるように下側に移動していき、それぞれの表面にあった細かい棘が肥大して、それは上顎と下顎になった。

 つまり……腕だった部分が、二つ目の頭部になった。

「こいツは厄介な相手だナ!くおん」

「…言ってる場合じゃないよ」

 冷静な口調でびゃくやに応じると、剣を左手で握り直し、斎月さんは再び駆け出す。

 目指すのは、腕を頭部に変えてしまったが故無防備な左側。

 だが、それこそが〝ウィッチの〟狙いだった。

 斎月さんが肉薄した、その瞬間。

 脇腹の傷口、ぱっくりと開いたその裂け目から、ナイフを束ねて括り付けたような鉤爪を備えた2本の腕が、新たに姿を現したのだ。

 そしてそれは仕掛け罠のように、斎月さんの、無防備となる側面から襲い掛かった。

 さらに畳み掛けるように、二つの頭部の口から、大量の棘が、彼女目掛け吐き出される。

 ――しかし。

 その一撃は、けして彼女の血の味を知ることはなく。 

 代わりに、初めて、白刃が甲高い金属音を上げる。

「――双(デュアル)」

 鏡に映したかのように、数分違わず同じ形状の白刃が、右手の側にも握られていたからである。

 二本の腕の鉤爪は右の一振りで、口から吐かれた大量の棘は左の一振りで捌かれていた。

 それはどこからか取り出したというわけではないらしい。左右の手に一ふりずつ。瞬時に姿を現していた。

「君に二刀ヲ使ワセるとはな!」

「はああっ!」

 左右の手に一ふりづつ、全く同じ形の剣を握った斎月さんは、聊かも動じるところのない様子で、さらに数度の斬撃を見舞ったうえで、貫き風穴を開けんばかりの刺突を放ち、二頭三腕の異形となった〝ウィッチ〟を大きく後ろに突き倒す。

「…とりあえず払ったけど、何だった?」

 特別に構えはしないものの双剣を握った両手を左右にぶらんと下げた姿勢で、油断なく眼前の敵を見据えながら、斎月さんは尋ねた。

 彼女に届くことなくコンクリートの壁に刺さった棘を、びゃくやが嘴でつつくと、それはぽろぽろと砕け、破片となって落ちる。

「なルホど、コンクりーとにも突き刺さり、本体から離れるト急速に脆くナリ引き抜けなクナるか…体に生えてるのもそうだロウな。絶対に頂戴するナヨ?」

「これ以上変異させると、まずいかもね」

「早く片を付ケロ!くおんっ!

「んっ!」

 一声、びゃくやに応え、彼女は鋭く叫んだ。

「…コード・ラクシャス」

 ぱしぃん!

 破裂音であるかのようにただ一度鳴ったのは、床を蹴る足音。

 叫びと共に、彼女の姿が、視認可能な世界から消え失せた。

 直後、大気を震わせる破裂音と、地面から大量の砂塵が一直線上に舞い上がることにより、そう錯覚させるほどの瞬時の、単純に凄まじい加速なのだと、頭で理解する。

「せぃあぁっ!」

 風が吹き抜け、その後から激しい気迫のこもった斎月さんの声が聞こえた。

 そして、べしゃり。と、何かが地に落ちる音がした。

 〝ウィッチ〟が元から生やしていた右側の腕と、後から生やした腕の内の片方が、斬り落とされていた。

「群(レギオン)!」

 続いて、斎月さんがそう叫ぶ。

 そして、彼女にしては意外なほどに。愚直に正面から切り込んでゆく。

 それに対して向き直り、殴りかかろうとした〝ウィッチ〟が、

「…そっちじゃありませんよ」

 横合いから斬りつけられ、倒れこむ。

 彼は反射的に右側を殴った。

 そこにいたのは、――斎月さん。

 右側から現れた斎月さんはひらりと身を躱し、飛びのいて、正面に立っていた斎月さんと、鏡写しのように左右対称に並び、合計4本の剣を続け様に叩き込んだ。

 痛みに絶叫をあげ、側面に逃れようとするけれど、

「こっちにもいますよ」

 左側にも、斎月さんがいる。

 太く逞しい尻尾を振るって攻撃しようにも、その後ろからさらに斬撃を浴びる。

 真後ろを振り向いた、その眼の前にも、――斎月さんがいて

「悪いけど、数で行かせてもらいます」

 前後左右、計4人の斎月さんが、一斉に斬りかかった。

 それは何と凄惨で、なんて情け容赦のない〝かごめかごめ〟なのか。

 合計八振りの白く輝く刃が、一切干渉しあわず、そして回避も防御も不可能なタイミングで叩き込まれ続ける。

 もう、〝ウィッチ〟の黒い甲殻にも、亀裂や裂傷の入っていない無事な箇所はほとんどない。

 けれど、3本の腕のうち、2本を失って、それでも〝ウィッチ〟は戦意を失うことはないようだった。

 止むことの無いかのように繰り出される斬撃の嵐を、防御しようとすることを、止めた。 

 輝く白刃が叩き込まれ肉体に突き刺さった、――狙っていたのはその瞬間だった。

 縦横無尽に駆けていた4人の斎月さんの動きが止まる。

 おそらくは、貫かせることによって、剣を捕まえられたのだ。

 剣という武器を封じてしまえば、彼女自身は少女に過ぎず、身動きの取れない彼女には、叩き込まれる鉤爪を防ぐ手段など…!

 が。

 もしも、〝彼〟に、人間のいう意味での情緒みたいなものがあったとしたら。

 おそらくここで絶望しただろう。

 おそらくは全力で振り下ろしたであろう鉤爪が、分身を解除し一人に戻った、少女の掌で受け止められていた。

「捕まえテシまえば紙細工…とでも思ったカネ?」

 そして次に見舞われたのは…、 

「はあっ!」

 拳による殴打。だった。

「君が相手ヲしてルノは、ツクヨミだぞ?」

 一、二、三度。

 棘に覆われておらず、甲殻も可動性を確保するために全体を包むわけにはいかない喉もとに、続けざまに3度拳が叩き込まれていた。

 結局、彼女が自分の肉体を直に触れさせたのはその都合三度のみ。

 これまで必要がないからであったろうが…それでも、彼女の拳は十分に威力を発揮していた。

 時間はかかっても、やろうと思えば拳だけでも勝負をつけられるのではないかというほどに。


 もはや完全にグロッキー状態であろうと思われた〝ウィッチ〟が 己を奮い立たせ、最後の力を振り絞るかのように、もう一度、雄叫びをあげた。

 そして、二つの頭部から、先ほどと同じように、機関銃のように棘の弾丸を放った。

「コード・ラクシャス」

 しかし、斎月さんは再度瞬間的に移動速度を増してそれを躱すと。

「――ハッ!」

 白刃を一閃させた。

 長く伸びていた、二つ目の首が斬り落とされ、地に落ち転がっていった。

 たん。

 小さく、彼女が床を蹴った音がして、

「――捉えました」

 真上から、その声が響く。

 身にまとった純白の衣の袖を、二枚の翼のように翻しながら舞い降りる。

 放たれたのは雷光が天と地をつなぐような刺突。

 逆手に握った剣を打ち付けるようにして、脳天へと、叩き込んだ。

「ぎ――――!あ――――!」

 断末魔の声が夜気をつん裂いて響き渡る。

 しかし、満身創痍の〝ウィッチ〟は残った片腕を振り回し、なおも斎月さんに食らいつかんと…

「こいつ?まダ動クぞ!早く首を刎ネろ!」

「おのれえっ!」

 斎月さんが、気迫に満ちた叫び声をあげる。

「びゃくやぁぁぁぁぁ!」

「応っ!」

 呼び声に応え、斎月さんだけでなく、びゃくやもまた白い輝きを全身から放ち、超高速で空中を駆け、閃光の弾丸となって貫き、胴体に大穴を開けていた。 

「〝共に行こう、わたしの剣よ〟」

 斎月さんの唇が、詠うように言葉を紡いだ。

 それに合わせ、体の前で横一文字に寝かせた刃に、彼女は二本の指を添え、柄から切っ先の方へ、鞘から抜く様に奔らせて行く。

 元から仄かに光を放っていたその刃が、輝きを増してゆく。今ではほとんど、刀身自体が燃えているかのようだ。

「ウォォォォォォォッ!!」

 そう、これは、作業のように小さな傷を負わせてゆき、最後に放たれるものなのだろうと予想していた、渾身の一撃。

 放たれるその刃。 

 一度目で胴を横に、二度目で頭ごと全身を縦割りに、三度目は袈裟がけに。

 断末魔の悲鳴をあげながら、棘付きの〝ウィッチ〟は、白く吹き上がる輝きに、内側から食われるようにして、その場に倒れ、そのまま動かなくなった。

 崩れてゆく。

 陽炎か白煙のようにも見える、揺れ動き光を放つ、白い鬼火とでも表現すべきものに包まれて…

 細かくひび割れ、ぽろぽろと末端から砕け、小さく破片を落として、急速に崩れてゆく。

 2メートル半近かった巨躯も、見る間に今はもう、半分も残っていない。

「…あ」

 油断なくその様子を見ていた斎月さんは、ふと思い出したように、ぼくの方を振り返った。 

 さっきまでここであのすさまじい戦闘を繰り広げていたのと、本当に同じ子なのかと疑問に感じるほど、それは穏やかで親しげな顔で、

「少し、待っていてくださいね、全部燃えたら、色々、説明しますから…あ、お話させてください」

 そういう彼女に頷き返し――

 そしてぼくは、それを見る。

 何故か、それは判らない。

 先ほどの戦闘のさ中には、背中に目があるのではないかと思えたほどの感覚の鋭敏さを見せていた。

なのに、彼女は今、それに気付いていない。

 彼女の背後。

 先ほど、胴体から切り離され、明後日の方向に蹴り飛ばされた、元は片腕だった、新たな頭部。

 まずい。

 アレは、まだ、動く。

 放っておいても死ぬだろうが、未だアレは、複眼を輝かせて這いずり回り、彼女に食らいつこうという意思を失っていない。

 ――彼女が倒れれば、どの道ぼくはその後に殺される。

 血だまりを這いずり蠢くアレは、首の一本だけでも十分にそうするだけの力を持っているだろう。

 だが、それもおそらく一瞬だけ。

 その一瞬さえ失すれば、何事もなく、彼女に改めて切り捨てられる。

 一瞬だけしのげば、彼女はアレを倒してくれる。

 なら、仕方がない。

 …これは、仕方がないことだ。

 そうシンプルに判断した。

 文字列を踏み越え、駆けだした。

 間一髪、そこにたどり着く、

 想定外であったろうぼくの動作に、彼女が何かを言う前に、

 僕は、斎月くおんを、突き飛ばした。

 つまり、彼女をねらっていた、〝ウィッチ〟の生首が到達する場所にいるのは、彼女ではなく。

 その結果。


 ぼくの腹、中央辺りに、黒い大顎が、めり込んでいた。


 すさまじい激痛に、一瞬にして、意識の半分以上が持って行かれる。

 仰向けにそのまま倒れこむ。

 こちらに、斎月さんが駆け寄ってくる。

 右手の剣を一閃させ、ぼくの腹にめり込んでいた黒い頭部を消し飛ばした。

 ああ、よかった。

 彼女はちゃんと、窮地を脱してくれた。

 ――これでいいか、兄さん?

 これで、ぼくのこと、許してくれるか?

 最後に一度そう思って。

 ぼくは、完全に意識を手放した。

 二度と浮かびあがれないくらい深い海の底に沈んでいるみたいな、真っ暗な夜。

 まだ凍えるように冷たい夜気の中。

 僕は赤黒く血に染まっていて。

 あの子はただ一人、それらすべてから切り取られたように白く輝きを放っていた。


 ひゅううぅぅ……。ひゅうぅぅ……。

 獣の叫びのように風が吹き荒れている。

 そのどこか哀しげな音が鳴る度に、彼女の黒髪が揺れる。

 こつん、こつん、と小さな足音が近づいてくる。

 斎月くおんが、無言のまま、ぼくの前に立った。

 その手には、赤く濡れたままの白刃が握られている。

「あなたは」

 彼女が呟く。

 俯いているために、その表情は伺えない。

「二度も、わたしの為に血を流すのですか」

 彼女の肩の上、白い翼の相棒が、

「――ヤレ、くおん」

 射るようなその視線は、まっすぐに僕に向けられていた。

 路地裏で出会った時の大人しそうなものとも、ついさっきの、どこか人懐こい穏やかなものでもない。

 戦っているときに見せていた、斬らなければいけない相手に向ける眼差しだった。

 理由も、理屈も僕は知らない。

 けれど理解できるのは、致命的な非常事態と、前提となる条件の変化が起こってしまったのだということ。

 何かしら、ぼくがけしてやってはならないことをしてしまったのだということ。

 結果として、ぼくが、彼女にとって、護る対象から、切り捨てなければ相手に変わってしまったのだということ。

 ひゅんっと風を切る音を立て、白刃が一度振るわれた。

 それだけの動作で刃に付着していた血液が飛び、刃が輝きを取り戻して見せた。

 ああ、この子が、僕の死神か。

 その時の僕は、自分でも驚くくらいに穏やかな気分だった。

 こんなにも安らかなのは、これまでの人生でもついぞなかった。

 この子に斬られて死ぬならば、別にいいかとさえ思っていた。

「……!」

「ドうしタ!ウィッチの呪いヲ受けタモノハ斬ル、ソレガ掟ノハズダ」

 びゃくやが急かすように言う、けれど、彼女は動かない。

「これ以上、彼ヲ苦しまセルな!」

 ――どうしたんだい?早くやりなよ。

 ぱちんと、小さな音がする。

 目の前に突き付けられていた切っ先が、鞘へと納められていた。

「これはわたしの失態です。…見捨てることなど出来ません」

「しカシ!」

「それにこの人は、わたしを助けようとしてくれた。…わたしと一緒に戦ってくれたんだ。……力を貸してくれた人までも、犠牲にしなくてはいけませんか?」

「掟を忘れたか!」

「あの掟は、〝仕方がないから〟というものだったはずです」

「そレハ…!」

「仕方がないからする悪。必要悪――ならそれは、悪です。ツクヨミの名を持つものが、それに屈することは許されません」

 そこまで言うと、びゃくやとの会話を打ち切って、斎月さんはぼくの前にしゃがみ込んだ。

「学生さん。わたしの言葉が聞こえますか?意味が判りますか?」

「あ……ああ、わかる、わかるよ。……君が……助けてくれたんだろ?」

「申し訳ありません、まだ、助けたとは言えない状態です…あなたは今、非常に危険な状態にあります」

「…だろうね。自分でも、何かまずいなって感じ、してるからさ」

「これからいくつか質問をします。どうか、それに答えてください」

 真剣な、まっすぐな眼差しで、斎月さんはぼくの顔を覗き込んだ。

 黒い瞳に、ぼくの姿が映っていた。

「まず、わたしについてきて、いただけますか?」

「選びようがないよ。……君に、従う」

「もうひとつ、あなたの…あなたの名前を教えていただけますか?」

 その問いに、僕は、僕の名前を答える。

「昴一郎。…御剣昴一郎」

「昂一郎さん。ですね。そしてあなたは…助かりたい、生きていたいと望みますか?」

 斎月さんは確かめるように、そして、それがほかの誰でもなく、ぼくに対する言葉であることを強調するかのように、ぼくの名前を呼ぶ。

「昴一郎さん。あなたがそれを望むなら、わたしがあなたを助けましょう」

 そして、ぼくの前に、小さな、白い掌を差し出した。

「できることなら、さあ。どうか、手を」

 こんな局面で、まだ、選択肢を示されるということに、

 選ぶ余地があることに驚いた。

 助からないならもうそれは仕方がないことなのだ。そう考えていた。

 せめて、少しなりとも苦痛の少ないものであるのを望んでいただけでいた。

 ――けれど、

 彼女が、僕を見ていたから。

 だから、そう答えた。

「…助けて、ください」

 彼女が僕に、手を伸ばしていたから。

 だから、伸ばされた手を掴み返した、

「…どうか、おねがいします。斎月さん」 

 掴み返したその手は、少しひんやりして、それでも確かに暖かかった。

「そうですか。…良かった、本当に」

 彼女の表情は、特に感情の伺えないニュートラルなものであったけれど、それはどこか、喜んでいるように見えて。ふと尋ねた。

「…どうしたん…ですか?楽しそう…ですよ?」

「…そういないのですよ、こんなものを見て、こんな目にあって、まだあなたのように自分の名前を名乗れる人は…自分を失っていない人は」

 それがどんな意味の言葉であったか、ぼくにはまるで分らなかった。

 それでも、その時はまあ、「ほんの僅かでも、彼女が自分の判断に自信を持ってくれたなら、それでいい」と思った。

「あ――すみません、申し遅れていました。わたしの名前は…」

 斎月さんが、ぼくの手を握ったままそう言った。

「もう、知ってます、斎月さん…ですよね?」

「…ああ、そういえば、さっき、名乗っていましたね。でも…ああいうのじゃなくて、改めて、わたしの名前を、聞いてもらえますか?」

 こくりと、無言のまま頷いたぼくに、彼女は、涼やかな声で告げた。


「わたしの名前は、斎月くおん。教皇院133代目のツクヨミで……〈剣の魔法つかい〉です」


第一夜「魔法つかいと御剣昴一郎(A Boy meets wich)」

次回に続く。


次回予告


次回、第二夜


「魔法つかい・斎月くおん」


 ――御剣さん。


 あなたも、抗って!

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