束の間の休息~真澄、十八歳の冬~
最寄り駅に着くまでは勿論、駅から迎えの大型ワゴン車に乗り込んでからも車窓にへばりついて外を見ていた清香だったが、いざ宿泊予定の旅館に到着して地面に降り立つと、周囲をぐるりと見回しながら固まった。
「う、わ~~~」
(本当に可愛いわね、清香ちゃんって……)
口を半開きにして呆けている清香を見て、真澄は笑いを堪えつつ声をかける。
「清香ちゃん、こんなに沢山の雪を見たの、初めてでしょう?」
その声で我に返った清香は、満面の笑顔で旅館の母屋の方に駆け出しながら、背後の清人に向かって叫んだ。
「うんっ! ぜんぶ雪! お兄ちゃん、すごいよっ! みてみてっ!」
「清香ちゃん、走っちゃ駄目! 雪で滑りやいのよ、転んじゃうからゆっくり歩いて!」
慌てて清香の後を追いつつ注意した真澄の台詞に、何故か他の面々が顔を強張らせる。
「げっ……」
「あの……、真澄姉」
そんな事などお構いなしに、清香が新たな興味の対象を見つけて近寄り、大きなそれを指差した。
「ほらほら、あれ《つらら》って言うんだよね!? さやかはじめて見た! あんなにおっきい! すっご~い」
「清香ちゃん、つららが落ちてくるかもしれないから、真下に入っちゃ駄目よ! 頭の上にまともに落ちたら、怪我だけじゃすまないわ!」
「……えっと」
「確かに危ないけどさ……」
真澄の台詞に、どこかうんざりした様に顔を見合わせる面々。しかし清香と真澄の無邪気な会話は更に続いた。
「ねぇねぇ、おっきな雪だるま作れるよねっ?」
「勿論よ。旅館の裏にかまくらだって作ってあるみたいよ?」
「かまくら?」
きょとんとして小首を傾げた清香の手を取り、真澄はワゴン車に戻り始めた。
「後で見に行きましょうね。雪だるまも作れるけど、皆で雪合戦もしようね?」
「うん!」
そして思い出したように付け加える。
「近くにスキー場は無いけど……、そり滑りに適当な場所があるんですって。旅館でそりも貸して貰えるそうだから、一緒に滑りましょう?」
「やったーー! いっぱいすべろうねっ! ますみお姉ちゃん!」
「ええ」
「………………」
そこで車から降り、何とも言えない表情で自分達を黙って見ている清人と浩一達を認めた真澄は、怪訝そうに声をかけた。
「あんた達、揃ってそこで突っ立って、何やってるの?」
その問いに、如何にも言い難そうに口ごもる面々。
「あの……、真澄さん?」
「気にならないわけ?」
「姉さん、一応受験生だと思うんだけど……」
その声に一瞬戸惑ってから、弟達が何を言わんとしているかを察した真澄は、両手を腰に当てて仁王立ちになり、鼻で笑ってみせた。
「はぁ? ここまで来て、あんた達何を言ってるわけ。『落ちる』『滑る』『転ぶ』『しくじる』『引っ掛かる』なんて受験生NGワードに一々ビクつく位なら、そもそもセンター試験二週間前に旅行しようなんて思わないわよ」
その堂々とした宣言っぷりに、思わずその場に乾いた笑いが漏れる。
「は、はは……、そうだよね」
「真澄姉……、相変わらず格好良過ぎ……」
「第一、試験の事は忘れて遊び倒そうと思って単語カードも持って来なかったのに、つまらない事を思い出させるんじゃないわよ」
「……すみません」
口火を切った正彦をビシッと指差しながら叱りつけると、正彦が神妙に謝った。その横から、幾分疑わしそうに修が口を挟む。
「真澄さん、本当に勉強道具の類は一切持って来なかったの?」
「そうよ? だって三日勉強しなかった位でまともな点数を取れないなら、丸々三日勉強したって大した事無いわよ」
「確かにそうだね……」
あっさりと言い切られて修がすごすごと引っ込むと、溜息混じりの感嘆の言葉が続いた。
「はぁ……、流石真澄さん。神経の太さが並じゃない。最早、しめ縄レベルだな」
「それはちょっとスマートじゃ無いんじゃないか? ワイヤーロープとかにしておいた方が良いと思うけど」
「正彦、友之、姉さんは結構繊細な所はあるから、神経は人並みに細いと思うよ? ただ細い割に、テグス並みに頑強だってだけの話で……、ぐわっ! ちょ、ね、姉さん!」
そこで正彦と友之に続いて率直な感想を述べた浩一の首に、真澄が背後から腕を巻き付け、締め上げ始めた。堪らず悲鳴を上げた浩一に、真澄がドスを利かせた声で叱責する。
「それでフォローしたつもりなの? 浩一。あんたの物言いが一番失礼よっ!」
「ごっ、ごめん! 悪かった、謝るから!」
「全くもう!」
プリプリ怒りながらもすぐに真澄は腕を離してやり、浩一は必死で息を整えた。その一連の騒ぎを見て、清人が微かに笑いながら真澄に話しかける。
「真澄さんが思ったより元気そうで安心しました。俺も流石にこの時期に旅行はどうかと、ちょっと思っていたので」
その声に、真澄は明るく笑って返した。
「そんな事気にしないで? 家に帰ったらそれこそ勉強三昧なんだから、三日間は清香ちゃんと一杯遊んで、エネルギーを充填していかなくちゃ」
「うん! さやかのパワー分けてあげるねっ!」
「お願いね? ……さあ、荷物を持って部屋に入りましょう?」
その真澄の指示で、一同は後方のトランクに入れておいた荷物を運転手に出して貰い、自分の物を引き取って旅館の表玄関に向かって歩き始めた。
「おい、このボストン誰のだ?」
「あ、俺です。そっちは明良だよな」
「ああ」
「これ誰のだよ? 三日分なのにやたらでかいぞ?」
そんな事を言い合いながら皆で受け渡ししていると、小さなリュックを手にした清人が清香を手招きした。
「じゃあ清香、お前はこれを背負って行け。出来るよな?」
「うん、だいじょうぶ! さやかもう年中さんだから、ちゃんと持てるもん!」
(ふふっ……、可愛い。一人前扱いして貰いたくて、うずうずしてるのね?)
恐らく小物だけ入れてあるだろうリュックを清人に背負わせて貰った清香は、意気揚々と玄関に向かって歩いて行った。その後ろ姿を真澄が微笑ましく見守っていると、ボストンバックを手にした清人が声をかけてくる。
「真澄さん、荷物はこれですか?」
「ええ、そうよ。ありがとう」
「じゃあこれは俺が持って行きますから」
「え? ……あの、清人君?」
受け取ろうと手を伸ばした真澄だったが、清人はさっさとそれを右肩に提げ、左手に自分のボストンバックを持ってスタスタと歩き始めた。その後を、真澄が慌てて追いかける。
「清人君、ちょっと待って!」
「どうかしましたか? 何か壊れ物でも入ってましたか?」
歩みを止める事無く尋ねてきた清人に、真澄は並んで歩きながら自分としては当然の申し出をした。
「そうじゃなくて……、私、自分の荷物は自分で運ぶから」
しかし清人は引き下がらなかった。
「受験シーズン直前に、清香の『雪が一杯ある所に行きたい』の一言に付き合って貰ってるんですから、これ位当然です」
「でも……、私は好きで来てるんだし……。清香ちゃんだってリュックを背負ってるのに、私一人だけ手ぶらって言うのは……」
自分がまるで清香以下の様に思える為、気まずそうに訴えたのだが、清人はそれに優しく笑って応じた。
「良いんですよ。真澄さんは特別ですから」
「特別?」
「ええ」
穏やかに笑って頷いてみせた清人だったが、真澄は途端に顔を曇らせて呟く。
「特別扱いなんて……、そんなの嫌だわ」
そう口にした途端清人は立ち止り、何故か傷付いた様な表情で真澄を見返した。
「……俺に特別扱いされるのは、そんなに嫌ですか?」
(うっ……、何でそんな、道端に捨てられた子犬の様な目で見るわけ!?)
どこか悲しげな眼差しで見つめられ、罪悪感を何となく感じてしまった真澄は、慌てて弁解した。
「だ、だって……、清香ちゃん以上に手の掛かるお子様みたいで、恥ずかしいじゃない」
そう真澄が告げると、清人は軽く瞬きしてから安心した様に小さく笑った。
「……ああ、そういう意味の《特別扱い》ですか。大丈夫ですよ? 子供扱いなんてしてませんから」
「じゃあどうして」
「いらっしゃいませ、遠路良くはるばるお越し下さいました。お荷物をお預かりします」
そこでいつの間にか玄関まで到達していた二人は、両脇にずらりと並んだ仲居達の列から出て来た世話役らしい女性に声をかけられた。すると清人が如才なく笑い返しながら荷物を預ける。
「お願いします。お世話になります」
「精一杯おもてなしさせて頂きます。お嬢様もどうぞ、お上がり下さい」
「は、はい……」
(さっきのは結局、何だったのかしら?)
これ以上荷物を持つことも無くなり、うやむやになってしまった疑問を抱えながら、真澄は良く磨き込まれた老舗旅館の廊下を奧へと進んだ。
それから夕方まで雪だるまを作ったりかまくらを見学したりと、銀世界を満喫した一同は、夕飯が済んでからも皆でトランプやUNOに興じて賑やかに過ごした。そして八時半位になった所で、清香が座布団にペタリと横たわる。
「……ふはぁ、つかれたぁ」
そのしみじみとした口調に、周囲の者達からつい笑いが漏れた。
「ずっと遊んでいたものね。清香ちゃん、そろそろお風呂に入って寝ましょうか?」
「うん、あの大きなおふろ、もういっかい入る!」
夕食前に入ってきた大浴場を思いだした清香は、元気良く跳ね起きた。それを見て真澄が清人達を振り返る。
「そうね。じゃあ私達抜けるわね」
「了解」
「お願いします、真澄さん」
「お休み、清香ちゃん」
「あったかくして寝るんだよ?」
真澄と清香は女二人で別室で休む為、皆口々に声をかけたが、ここで玲二が予想外の事を言い出した。
「あ、姉貴! 後から女湯に入りに行っても良い?」
「はあ?」
「玲二?」
「お前、いきなり何を……」
「玲二? 大浴場は一日毎に男女入れ替えるみたいだから、明日になれば入れるわよ?」
年長者達がギョッとする中、唐突に言われた内容に真澄が冷静に突っ込みを入れたが、玲二は楽しそうに言ってのけた。
「分かってないな~、姉貴。堂々と女湯の暖簾をくぐって入れるなんて、普通だったらできないじゃないか。この旅館、俺達が居る間は貸切なんだから、この機会を逃せないだろ?」
「あ、俺もその話乗った! 真澄姉、良いよね?」
へらっと笑いながら明良まで口を挟んできた為に、それまで黙っていた清人が鋭い視線を向けながら二人を恫喝する。
「お前ら、何をふざけた事を」
「構わないわよ?」
「真澄さん! 何を言ってるんですか!」
しかしケロッとした顔で真澄が了承した為、慌てて清人が真澄を叱りつけた。対する真澄は不思議そうに清人を見返す。
「玲二も明良も、まだ小学生だから良いでしょう? 女湯に堂々と入りたいなんて、如何にも子供らしい考えだし」
「は? どこがですか?」
僅かに顔を引き攣らせながら清人が更に尋ねると、真澄は真顔で答える。
「だって……、普通男の人って、相手に知られずにこっそり覗く事にロマンを感じるものじゃないの? 盗撮とか覗きとかは度々ニュースになるけど、正面から堂々と女湯に乱入したり、スカートを捲って下着を撮影したりって話は聞かないし」
その主張を展開した途端、室内のあちこちで溜め息が漏れ、清人は額を抑えながら呻くように言葉を継いだ。
「真澄さん……、それはロマン云々の話では無くてですね……、単に他人から見て明らかに犯罪行為と発覚するような真似をしないだけです」
しかしそんな清人の言葉を気にせず、真澄は清香を連れて歩き出しながら玲二と明良に声をかけた。
「じゃあ私達、一度部屋に戻って浴衣に着替えたら行くから、後からいらっしゃい」
「れいじお兄ちゃん、あきらお兄ちゃん、まってるね~」
「は~い」
「お世話になりま~す」
そして室内に微妙な空気を残し、真澄と清香はその部屋を後にした。
それから約一時間後。
「ちょっと玲二、明良! 清香ちゃんと待ってたのに、全然お風呂に来ないってどういう事よっ! ……あら? 二人はどこ?」
スパーンッと襖を引き開ける音も勇ましく、浴衣姿の真澄が清香を従えて再び部屋に現れて絶叫したが、非難する相手の姿が見えない事に戸惑った。すると清人が如何にも申し訳なさそうな顔で、説明してくる。
「すみません、真澄さん。あの二人、急に『館内探検に行ってくる』とか言い出して、まだ戻って来ないんです」
「はぁ? こっちはいつ来るのかと待ってたのに! 危うく清香ちゃんをのぼせさせる所だったのよ?」
憤慨する真澄に、清人が宥める様に言葉を継いだ。
「すみません、真澄さん。探検に行く前に大浴場に行って断りを入れる様に言ったんですが……」
そこで真澄は、これ以上議論してもしょうがないと気持ちを切り替えた。
「全くもう! 二人纏めて後で締め上げてやるわ。取り敢えず清香ちゃんを寝せないと。お休みなさい」
「お兄ちゃん、みんな、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ清香。おやすみなさい真澄さん」
「……おやすみ」
「……あったかくして寝るんだよ?」
挨拶を返してきた面々のうち、清人は満面の笑顔だったのだが、他の者達の顔が揃って引き攣っている様な気がした真澄は、代表して浩一に尋ねてみた。
「浩一、何だか顔色が悪いけど、どうかしたの?」
しかしその問い掛けに、浩一は益々顔を青ざめさせながら手を振った。
「なっ、何でもないからっ! おやすみ、姉さん」
「……おやすみなさい」
(何なのかしら?)
怪訝に思いながらも、清香を湯冷めさせる訳にはいかない真澄は、清香を連れて隣の部屋へと引き上げたのだった。
翌朝、清人達の部屋で朝食を食べる為、清香を伴って部屋を訪れた真澄は、入るなり座布団に座っていた玲二と明良を睨み付けた。
「おはよう。……あ、玲二に明良! 余所に行くなら一言声をかけて行きなさいよね? 清香ちゃんと、暫く大浴場で待ってたんだから」
「すみません……」
「ご迷惑おかけしました……」
いつになくしおらしく頭を下げて謝ってきた二人に、真澄は逆に気味の悪さを感じる。
「……何? 今日は随分素直じゃない?」
「おはようございます、真澄さん。二人は俺から一言注意しておきましたので、それ位にして貰えますか?」
そこで爽やかに清人が口を挟んできた為、(既に怒られているなら、これ以上蒸し返すのも可哀相ね)と思った真澄は、あっさりと頷いた。
「まあ……、清人君がそう言うなら……」
そのやり取りを見ていた玲二と明良を含む一同は、そこで密かに安堵の溜め息を吐いた。それから「いただきます」の挨拶をして、各自の前に並べられたお膳に手を伸ばして食べ始め、清人と真澄に挟まれる形で座っている清香の前には一人だけ子供用のお膳が出されていたが、前日の夕飯同様、単に大人の料理の品数を抜いた物では無く、かといってお子様ランチ状のありきたりな子供向けメニューで無い事に感心しつつ、真澄は箸を進めていた。
(う~ん、流石老舗旅館。子供用の料理にも手を抜いて無いのが一目瞭然で凄いわ。清香ちゃんも満足して食べてるし、良かった)
密かに心配していた清香の食事内容に安堵しつつ、真澄は自分のお膳をしみじみと見下ろす。
(だけど、旅館の朝ご飯って、どうしてこんなに美味しいのかしら? おかずも色々揃ってて、ご飯が足りないわ)
真剣にそんな事を考えた真澄だったが、チラリと清人の方に視線を向けてから、密かに溜め息を吐いた。
(でも……、まさか清人君の前でお代わりなんか恥ずかしくて出来ないし……。大食らいなんて思われたくないもの……。勿体ないけど少し残そうかしら?)
そんな事を考えながら残り少ないご飯を少しずつ食べていた真澄だったが、ここで清人が部屋の隅に控えていた、給仕役の仲居に片手を上げながら声をかけた。
「すみません」
「はい、お代わりでしょうか?」
笑顔でお盆を差し出した仲居に、清人は笑顔で首を振って真澄を指差す。
「いえ、俺のでは無くて、彼女のご飯とお味噌汁をお願いします」
「承知しました」
そのやり取りを聞いて、真澄が僅かに動揺した。
「え? あの……、清人君? 私、別にお代わりとかは……」
「足りないですよね? 受験生なんですから、しっかり食べて体力をつけないと駄目ですよ?」
「う……、は、はい……」
その場を取り繕おうとした真澄だったが、清人から断定口調で言い切られ、あっさり抵抗を諦めた。そしてご飯茶碗と汁椀を素早く空にしてお盆に乗せると、仲居がそれを持って部屋の隅に向かう。その背中から真澄に視線を移した清人は、多少咎める様に言い出した。
「真澄さん。まさか、ダイエットとかしてるわけじゃ無いですよね?」
「そんな事はしてないけど……」
「良かった。女性は変に痩せて鶏ガラみたいになってるより、ふっくらしてる方が良いですよ?」
にこりと笑いかけられながら言われた台詞に、真澄が反射的に尋ね返した。
「清人君はそう思うの?」
「ええ。……寧ろ太っていてくれた方が、外見だけで判断する馬鹿が纏わり付かなくて、俺的には好都合ですし」
何やら急に声量を落とし、ぼそぼそと呟いた清人を、真澄が不思議そうに見やった。
「清人君、何か言った?」
「いえ、何も?」
清人がそう惚けたところで、清香が何やら考え込んでいるのに気が付いた。
「とりがら……、とりがらって、あれだよね?」
「清香、どうした?」
清人が何気なく声をかけると、清香が真剣な表情で兄を見上げた。
「お兄ちゃん、さっき言ってた《とりがら》って、お父さんがおなべでコトコトにてるあれの事?」
「そうだ。あれが転じて肉が付いていない、骨と皮だけのような状態も言うがな。それがどうかしたのか?」
清人がそう優しく問いかけると、清香が真顔でとんでもない事を言い出した。
「だいじょうぶ。ますみお姉ちゃん、とりがらみたいじゃないよ? いっしょにおふろ入ったから知ってるもん。ピチピチのないすばでぃだよ?」
ニコニコしながら言われた台詞に、真澄は思わず箸を取り落とし、部屋のあちこちで何かを噴き出したり、むせたり、喉に詰まらせたりする音が発生した。当然、清人も激しく動揺しながら清香に詰め寄る。
「さっ、清香! お前そんな言葉、どこで覚えた!?」
それに清香はキョトンとしながら素直に答えた。
「ようちえん。この前ゆきちゃんが、『あやかせんせいみたいな人のこと、ないすばでぃって言うんだよ』っておしえてくれたの」
「…………あのな、清香」
思わず深い溜め息を吐いてから清人が言い聞かせようとしたが、清香が同意を求めてきた。
「お兄ちゃんだって、あやかせんせい、ないすばでぃだっておもうよね?」
「いや、まあ……、それは確かにそうだろうが……」
不自然に言葉を濁す清人を、周りの皆が生温かい視線で眺める。すると清香が真澄と清人を交互に見ながら、更なる問題発言を繰り出した。
「じゃあ、ますみお姉ちゃんとあやかせんせい、どっちの方がすごいないすばでぃだと思う?」
その問い掛けに、とうとう清人の顔が盛大に引き攣った。
「清香……、どうして俺にそんな事を聞くんだ」
「だって、ますみお姉ちゃんとあやかせんせい、りょうほう知ってるの清、さやかとお兄ちゃんしかいないもん」
「それはそうだが……、頼むからもう止めてくれ、清香」
「え? なにをやめるの?」
畳に手を付き、本気で項垂れた清人を見ても、清香はキョトンとするのみだった。そして弟や従弟達が完全に面白がってニヤニヤする中、何とか話題を変えようと真澄が話し掛けた。
「ねぇ、清香ちゃん、お風呂って言えば偉いわね。一人で体を洗ってちゃんと入れるんだもの。びっくりしちゃった」
すると清香は真澄の方に向き直り、誇らしげに胸を張った。
「だってさやか、もう赤ちゃんじゃなくて、レディーだもん。おとこの人といっしょに入れないから、お兄ちゃんとはもうだめなの。だから一人でできるように、れんしゅうしたのよ?」
「そうだったの」
(はぁ……、何とか話題を逸らせたみたいね。良かった)
心から安堵しながらも、真澄はふと先ほどの清香の台詞の中で引っかかった事を尋ねてみた。
「本当に凄いわね。……でも清人君は駄目で、明良と玲二なら一緒に入って構わないの?」
その問いに、清香がすこぶる真面目に答える。
「うん、二人はおとこの人じゃなくて、おとこの子だから。……あ、おさむお兄ちゃんもだいじょうぶだよ?」
その清香の判断を聞いた彼女の従兄達の何人かは、その顔にかなり微妙な表情を浮かべた。
「そうか……、清香ちゃんの中では、もう男の人認定なんだ……」
「一回位、一緒に入ってみたかったな……」
「何と言うか……、微妙な線引きだな~」
「俺、男の子の方に仕分けされて、喜ぶべきか悲しむべきか、良く分からないんだけど?」
男同士でそんな事をボソボソ言い合っていると、清香が思い出したように清人を見上げて付け加えた。
「あ……、おとこの人って言えば、ゆきちゃんがないすばでぃの話をした時、『たいていのおとこの人はないすばでぃがすきだけど、たまにゆきえ達みたいなツルンペタンなからだがすきな人もいるから、気をつけなくちゃいけないのよ』って言ってた。お兄ちゃん、ほんと?」
(今時の幼稚園児の話題って分からないわ……)
真剣に清人に質問する清香の姿に、思わず真澄は頭痛を覚えたが、それは清人も同様だった。
「……間違ってはいないと思うがな」
額を押さえながら清人が一応肯定すると、清香が勢い込んで話を続ける。
「そしたらみかちゃんが、『そんなへんな人には、『いちげきひっさつのせんせいこうげき』がゆうこうだから、『きゅうしょをけりあげろ』ってお兄ちゃんにおしえてもらった』って言ってたの」
「……確かに有効かもな」
(それ、幾ら何でも、幼稚園児には無理でしょう……)
もはや溜め息しか出ない真澄の目の前で、清香の衝撃トークが続く。
「そしたらゆりあちゃんが『わたしたちじゃ、まだきゅうしょまで足がとどかないから、ずつきした方がかくじつだわ』って言ったの」
「…………」
(本当に、幼稚園児の会話なの? これ……)
流石に言葉を返せなくなったらしい清人が畳に両手を付いて深い溜め息を吐くと、清香を除く室内全員から憐れむような視線を受けた。しかしここで清香が困った顔で清人に呼び掛ける。
「それでね? お兄ちゃんにききたかったの。だって分かんないんだもん」
「清香、何を知りたいんだ?」
唐突に質問される事になり戸惑ったものの、清人はすぐに顔を上げ、真顔で清香を見下ろした。すると負けず劣らずの真剣な顔で、清香が質問を繰り出す。
「あのね? 『きゅうしょ』って、なに?」
「……は?」
予想外過ぎる問い掛けに、清人はおろかその場全員が見事に固まった。しかしそんな異常に気が付かないまま、清香が幾分居心地悪そうに続ける。
「さやか、そのとき分からなかったけど、みんなうんうんうなずいてるから、知らないって言えなくて……」
「………………」
無表情で自分を見下ろす清人を、清香はどこか安心した様に、明るい笑顔で見上げた。
「思いだしてよかった。しらないと話についていけなくなっちゃう。おしえて? お兄ちゃん」
「……いや、あのな、清香」
チラリと真澄の方を見つつ、変な汗を流して口ごもる清人を、清香は不思議そうに見上げた。
「なぁに? まりちゃんが『さやかちゃんはお兄ちゃんがいるから、へんなひとの役をして、じっちでおしえてもらえるよね』って言ってたよ?」
「…………」
そこで室内に不気味な沈黙が満ち、真澄は思わず清香が言った内容を考え込んだ。
(『じっち』って、実地でって事よね? 清人君が変質者役って……)
そこまで考えて清人の顔に視線を向けると、ちょうど視線がぶつかってしまった真澄は、何とか我慢しようとしたが、堪えきれずにお腹を抱えて爆笑してしまった。
「…………っぷ、くっ、あ、あははははっ!!」
「お姉ちゃん?」
「真澄さん?」
「だ、だってっ! 清人君のその動揺しまくりに加えて憮然とした顔っ!! い、嫌ぁぁっ! 笑いが止まらないっ! もう駄目っ、誰か何とかしてぇぇっ!」
お腹を抱えるのみならず、畳に転がって笑い続ける真澄に誘発され、あちこちからくぐもった笑い声が漏れる。
「た、確かに、な……」
「ちゃんと実地で教えてやれば? 清人さん」
「よせ、笑うなよ」
「お前こそっ……」
クスクス笑いが伝わる中、清香がわけが分からない様子で清人に問い掛けた。
「みんな、どうしたの?」
「……朝食に笑い茸でも入っていたんだろ」
「わらいたけ?」
憮然とした口調で告げた清人に、清香が益々キョトンとして首を傾げる。それを見てこれまで何とか無言を貫いていた仲居達も、とうとうクスクスと笑い出してしまったのだった。
その後、清香の質問はうやむやになり、なかなか笑いが止まらない真澄以外は食事を再開した。そして食べ終わった者から順に隣の続き間に移動して遊び始めると、真澄と清人が十六畳の部屋に取り残される。
「……ごめんなさい、笑い上戸で食べるのが遅れて」
自分に付き合わせて食べるのが遅くなってしまった清人に謝ると、苦笑混じりの返事が返ってきた。
「構いませんよ? 偶にはゆっくり食べたかったですし。いつも清香と一緒だと、どうしても色々世話を焼いてしまうので」
(それにしたって……、大笑いしてお腹が空いてご飯を三杯も食べちゃうなんて……。どこまで馬鹿なの?)
そんな風に密かに落ち込んでいると、唐突に清人が声をかけてきた。
「……俺は四杯食べましたよ?」
「なっ、何で……」
(考えてる事が分かるのよ!?)
激しく動揺した真澄に対し、そこで清人が優しく言い聞かせる。
「つまらない事を気にしなくて良いですよ? 美味しく食べられたんだから良いじゃないですか」
「まあ……、それはそうなんだけど」
「真澄さんが十杯食べるなら、俺は二十杯食べますから。真澄さんに恥はかかせません」
真顔で言われたその台詞に、真澄は本気で呆れた。
「二十杯って……、あのね。フェミニストも大概にしないと、命に関わるわよ?」
「大丈夫ですよ? 真澄さん限定ですから」
「本当に?」
少し疑わしげに真澄が尋ねると、清人は一瞬怪訝そうな顔をしてから付け加えた。
「……ああ、それに香澄さんと清香、三人限定ですね」
「正直で大変宜しい」
真面目くさって真澄が応じると、どちらからともなく笑いが漏れる。そして二人揃って食べ終わると同時に、タイミング良く襖を開けて清香が飛び込んできた。
「ねえねえ、お兄ちゃん、ますみお姉ちゃん、たべおわった? はやくお外にいこう?」
「ああ、待たせたな、清香」
「ええ、雪合戦しなきゃね?」
そうして笑顔で立ち上がった真澄は、心の底から満足していた。
(本当に、こんなに思い切り笑ったのは久し振りだわ。清人君の意外な顔を見られたのも……。やっぱり来て良かった。帰ったらあと二ヶ月……、これで頑張れそうだわ)
そして三日間、心置きなく楽しんでいる真澄を眺めながら、清人も時折満足そうな笑みを浮かべていたのだった。
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