決意~真澄、十七歳の春~

「お父様……」

「何だ?」

「これは何ですか?」

「見ての通り見合い写真だ」

 高三に進級した四月早々、夜に父親の書斎に呼びつけられた真澄は、机越しに渡された幾つかの物を確認してから雄一郎に問い掛けた。それに対する答えに、真澄が眉を寄せながら淡々と感想を述べる。


「浩一は高一になったばかりです。幾ら何でも早過ぎませんか?」

 その台詞に、雄一郎は机を叩きながら娘を叱責した。

「馬鹿者! ふざけるな! 男の写真なんだから、お前の相手に決まってるだろうがっ!」

 しかし負けず劣らずの勢いで、真澄が机に両手を付いて身を乗り出しながら父に怒声を放つ。


「ふざけているのはお父様でしょう!? 私だってまだ高校生ですよ? どうして見合いなんかしなくちゃいけないんですか!?」

「勿論、今すぐしろとは言ってない。例の新年会でお前の顔見せをしたら、最近ポロポロと縁談が持ち込まれる様になってな」

 比較的冷静に事情を説明した雄一郎に、真澄が胡乱げな視線を向ける。

「……ひょっとして、仕組んだんですか?」

「お前もあと一年で卒業だし、そろそろその後の事を考えておいてもおかしくはなかろう」

 真顔でそう言い聞かせようとした雄一郎だったが、それを聞いた真澄は鼻で笑った。


「卒業と同時に永久就職ですか? はっ! ありえませんね。何ですか? その時代錯誤なカビの生えた考え方は」

「そういう考え方もあると言うことだ。勿論高校から系列の大学に進学して、それから結婚しても構わんぞ?」

 宥める様にそう口にした雄一郎だったが、真澄には全く効果がなかった。


「冗談じゃ無いわ! 何でこんなオッサンを相手にしなきゃいけないのよ!?」

「オッサンって……、真澄。この人達はまだ二十代後半か三十そこそこの、若手の有望株揃いだぞ!?」

「そんなの十代の私からすると、十分オッサンだわ。オッサンをオッサンって言って何が悪いのよっ!!」

「彼らがオッサンならお前は小娘だろうがっ! 少しは年長者を敬ったらどうだ!?」

「小娘相手に見合いしようなんて、頭の足りなさそうなのを敬うつもりはサラサラ無いし、そうでないなら財産とコネ目当ての、こすっからい奴に決まってるわよっ!」

「全く、お前という奴は……」

 容赦なくぶった切ってみせた真澄に、文字通り頭を抱えて呻いた雄一郎は、机をトントンと小さく何度か叩いてから、徐に言い出した。


「それでは聞くが……、お前は社会に出て働く意志が有るとでも?」

「勿論です」

 即答した真澄に、雄一郎が冷静に言い聞かせる。

「甘やかしてきた自分が言うのも何だが……、過保護に育てられたお前がか? 適当に腰掛け程度に働いて結婚退職する位なら、今からなるべく条件の良い所を探してやろうという、親心なのだがな?」

「それこそ余計なお世話です。人並み以上に働いてみせます!」

(今時そんなの、本当に冗談じゃ無いわよ! 第一……)

 憤然として父の言葉をはねつけた真澄だが、その時ある人物の顔が脳裏を掠めた為、僅かに顔を赤くした。しかし憮然とした表情の雄一郎は真澄のそんな僅かな変化に気が付かず、溜息混じりに評する。


「……相変わらず、口だけは達者だな」

「何とでも言って下さい」

 そこで顔付きを改めた雄一郎が、座ったまま僅かに身を乗り出しながら提案してきた。


「それでは並み以上にやれる事を、お前に証明して貰おうか?」

「どうやってですか?」

 それを聞いて眉を寄せた真澄に、雄一郎が冷静に話を続けた。

「お前は高校のテストでは毎回満点を取って得意になっているようだが、所詮井の中の蛙だろう。模擬テストの点数はそれと比べたらはかばかしくは無いな」

「……それが何か?」

 表情を消して応じた真澄に、雄一郎が淡々と告げる。


「社会に出てから人並み以上の仕事ができると豪語するなら、大学も人並み以上の所に入って貰おうか。それ位して貰わなければ話にならんな」

「なるほど、一理有りますね」

「それならこうするか。お前が私が指定する大学に現役で合格したら、その後一切お前に縁談などは勧めん。その代わり不合格だったら、進学した大学卒業後に結婚するのを前提に見合いをして貰うぞ?」

「分かりました。それで結構です」

 予想に反して真澄があっさりと了承した為、雄一郎は途端に機嫌良く考えを巡らせ始めた。


「それではどこの大学にするかな? 国内最高峰は文句無しに東成大だから、万が一そこに受かれば文句の付けようがないが、流石に厳しいだろうからな。そうなると……」

「それなら東成大で結構です」

 すこぶる冷静に娘の口から放たれた言葉に、雄一郎は一瞬自分の耳を疑って問い返した。


「は? 今、何と言った? 真澄」

「東成大に現役合格したら、文句は無いんですよね? ですから、それで構いませんと言いました」

 真顔でそう繰り返す真澄に、雄一郎は顔色を変えた。


「お前……、正気か?」

「勿論です。お止めになりますか?」

(何だ? この変な自信は……。はったりか、何か策でもあるのか?)

 真澄の落ち着き払った態度に疑念を抱いた雄一郎だったが、少し考えて結局このままの条件で話を進める事にした。


「……お前がそれで良いなら私は構わん。後で泣きつくなよ?」

「お父様こそ、そんな話はしていないとか、言い出さないで下さいね?」

「くどい。もう良い、写真を置いて出て行きなさい」

「失礼します」

 そんな風に腹の探り合いを終えた真澄は父の書斎から退出し、廊下で思わず溜息を吐いた。


(はぁ……、売り言葉に買い言葉で、とんでもない約束しちゃったわね)

 しかし真澄に後悔する気持ちは微塵も無かった。


(高校入学の時から模擬テストの点数をわざと落としてたのは、本来は難度の高い大学に合格する事で、入学後に一人暮らしを許可して貰うのを狙っていたんだけど……)

 そんな事を考えて廊下を歩きながら、真澄は自分自身に活を入れるように、独り言を漏らした。

「こうなったら仕方が無いわね。開き直って頑張るしかないわ」

 そう決意を新たにして自室に戻ると、ほどなくして玲子がやって来て真澄に声をかけた。


「……真澄、今、構わないかしら?」

「お母様? どうぞ」

 早速勉強を始めていた真澄だったが、気を悪くする事無く立ち上がり、テーブルに備え付けの椅子を勧めた。そして向かい側の椅子に座ると、玲子が笑いを堪える表情で口を開く。


「雄一郎さんから聞いたわよ? 大言壮語を吐いて賭けをしたそうね」

「……お母様相手に愚痴でも言ったんですか?」

 思わずうんざりとしながら応じると、玲子が笑いながら答える。

「そんな所ね。最後は『あんな点数では到底無理だ』とか断言して、一人で納得していたけど」

「そうですか……」

(油断してたら良いわ。今に見てらっしゃい!)

 見た目はしおらしくしつつも、心の中で息巻いていた真澄だったが、続く玲子の台詞に瞬時に真顔になった。


「本当にね、娘が点数を誤魔化している事にも気付かないで、上手く口車に乗せたつもりが乗せられるなんて……。仮にも一流上場企業のトップが、あんな事で良いのかしら?」

「……お母様?」

 そこでわざとらしく首を傾げてみせた玲子に、真澄は探る様な視線を向けた。それを受けて、玲子がその顔に不敵な笑みを浮かべる。


「あら、私が気付いていなかったとでも?」

「理由を聞いても良いですか?」

(一体どうしてバレてるわけ?)

 納得できずに問い掛けた真澄に対し、玲子の返答は明確だった。


「簡単な事よ。模擬テストを受けた後、私は毎回『今日の出来はどうだった?』と聞くでしょう? そうするとあなたは『これは85点位、これは82点位』と細かい点数で予想してるの。普通はもっと大ざっぱな点数で予想するし、実際の点数は上下するものでしょう?」

「それで?」

「私、あなたが言った点数を控えているけど、届いた成績表と照らし合わせると、いつもあなたの予想とピッタリ一緒なんだもの。本来そんなに間違える程度の学力しかないなら、正確に点数を予想する事なんか無理でしょう? だから真澄はいつも満点に近い理解力はあっても、敢えて答えを間違えてその点数に調整していると思っていたの。真面目すぎる性格が徒になったわね? 適当に点数を言っておけば良かったのに」

 そう言ってクスクスと小さく笑った母に、真澄はあっさりと白旗を上げた。


「……お母様、見掛けによらず慧眼ですね」

「あら、ありがとう。でも『見掛けによらず』は余計よ?」

「それで? お父様にこの事を教えたんですか?」

 内心(まずい事になったわ)と思いながら尋ねると、玲子が予想に反する事を口にした。


「そんな事はしないわ。真澄が大博打を打つ決心をしたのに。……これから十ヶ月、全力で頑張るつもりなんでしょう?」

「勿論です。これまで点数は誤魔化してましたけど、本来の点数でも合格ラインギリギリですし」

 力強く頷いた娘を見て、玲子は嬉しそうに笑った。


「真澄が本気でやる気になってくれて、私は嬉しいわ。わざと点数を落としてたのは、浩一が取る点数より良い点数を取らない様にする為でもあったんでしょう?」

「別に……、それとこれとは、無関係です」

(やっぱり侮れないわ、お母様……)

 普段おっとりしている様にしか見えない母親の、意外な一面を知って真澄は舌を巻いたが、玲子は穏やかに諭し続けた。


「くだらない対面ばかり気にする人達の相手は、成人してからでも十分よ。今のうちは、やりたい事を全力でやりなさい。……それじゃあ、お義父様にも話をつけておかないとね。今から離れに行くから、付いていらっしゃい」

 そう言いながら玲子は立ち上がり、反射的に真澄も立ちながら怪訝な顔を向けた。


「はあ? どうしてお祖父様に?」

「側で騒がれるのは嫌でしょう? 上手く話をつけてあげるから、真澄は私やお義父様が何を言っても、ひたすら黙って恨みがましい目でお義父様を睨んでいること。分かったわね?」

「はぁ……」

(何を考えているの? お母様ったら)

 わけが分からないながらも真澄は玲子に従って廊下を進み、離れの総一郎の部屋に入って、促されるまま玲子と並んで総一郎の前に正座した。そして玲子が雄一郎とのやり取りを総一郎に簡単に説明した上で、訪れた理由を告げる。


「そういうわけで、雄一郎さんと真澄の間で話が纏まりましたので、一応お知らせしておこうかと思いまして」

 それに対する総一郎の反応は、冷淡、かつ素っ気ないものだった。

「無駄だな。真澄は女だから、別に学問を身に付けなくても良い。それより花嫁修行でもする方が良いだろう」

(何なのよ! その時代錯誤な考え方はっ!!)

 思わず腰を浮かせて怒鳴りかけた真澄だったが、玲子が手を伸ばして真澄の膝を軽く叩いた。それで踏みとどまった真澄は、辛うじて無言を保つ。すると、玲子が溜め息を吐いてから困ったように訴えた。


「困りましたね……。真澄が東成大に合格してもお義父様がそんな態度では、雄一郎さんがそれを理由に進学を認められないとか言い出しそうですもの」

「勿論、儂は認めん」

(ふざけんじゃないわよ! このくそジジイ!!)

 取り付く島もない総一郎の台詞に真澄が切れかけたが、ここで玲子が沈鬱な表情で穏やかでは無い事を宣言した。


「……そうですか。それなら仕方がありません。お義母様の形見の品を洗いざらい叩き売る事にしますので、ご了解下さい」

「は? 玲子さん、何を言っとるんだ?」

 思わず目を丸くした総一郎に、玲子が真澄も知らなかった打ち明け話を始めた。


「実は……、お義母様がお亡くなりになる直前、頼み事をされたんです」

「澄江が何を?」

「『香澄の進学の時は発病直後で、結婚の前後は入退院を繰り返していて全然力になれなかったから、真澄が進学や結婚の時に主人や雄一郎と揉めたら、あなたが真澄の力になってあげてね。香澄に関してはもう諦めているから』と。お義母様が涙ぐんで私の手を取ってそう言われた時には、どれだけ香澄さんと真澄の事が心残りなのかと、思わず貰い泣きしそうになりました……」

「む……」

 さり気なくハンカチを取り出して目元に当てつつ、涙声らしき口調でそう語った玲子に、総一郎は決まり悪そうに黙り込み、真澄はしみじみと心の中で感心した。

(知らなかったわ……、お母様って慧眼だけじゃなくて、意外に演技派だったのね……)

 そこで更に玲子の訴えが続く。


「香澄さんは兄妹の中でも一番成績が良くて、東成大も合格確実と言われた位でしたのに、お義父様の『女なら黙って花嫁修行でもしていろ』の一言で、通っていた高校の系列のお嬢様大学に進学しましたでしょう?」

「それがどうした!? 儂は何も間違った事は言っておらんぞ!」

(え? そうだったの!? 何て横暴なジジイなのよ、最低!!)

 知られざる事実に本気で腹を立てた真澄だったが、その横で玲子がわざとらしく溜め息を吐いてみせた。


「思えば……、あれが全ての間違いの元、でしたわねぇ……」

「玲子さん。それはどういう意味かな?」

 思わず眉をしかめながら問い掛けた総一郎に、玲子は真顔でその理由を告げた。


「香澄さんは常々、その事に関して私に愚痴って恨み言を漏らしていて……。それが積もり積もって結婚騒動の時に爆発したんです。『あの分からず屋のせいで行きたくもない大学に四年も通う羽目になったのに、どうしてまた好きでもない相手と結婚しなきゃいけないのよ! 結婚相手は絶対自分で決めるわよっ!』と言って、片端から見合い相手を蹴散らしていましたもの……。挙げ句に清吾さんと駆け落ち同然で結婚して、それ以来あの通りですし?」

「…………っ」

 チラリと皮肉げに玲子が視線を向けると、返す言葉が無い総一郎は黙り込んだ。それに容赦なく玲子が話を続ける。


「もし、仮に……、ですが。あの時お義父様が折れて、香澄さんの東成大進学を認めていたら、卒業後案外素直に見合いをして、気の合う方と出会って大人しく結婚していたかもしれませんね。まあ、今となっては言っても詮無い事ですが……」

「それは……」

「お義母様もそう思っていたから、真澄まで家出して絶縁状態にならないように、私に庇って欲しいと頼まれたのでしょうし。それで『持っている宝飾品を全部譲るので、事が起きた時には全て売り払って真澄の進学費用や結婚費用に充てて欲しい』と言われたんです」

「玲子さん。ちょっと待て!」

 そこではっきりと顔色を変えて押し止めようとした総一郎だったが、玲子は事も無げに話を続けた。


「ですから、お義父様達があくまで真澄の進学に反対して、費用一切を出さないと仰るなら、お義父様がお義母様に婚約時に贈ったダイヤの指輪や翡翠の帯留め、四人の出産毎に贈った花玉三点セット、チョーカー、ブローチ、指輪、結婚十周年記念に贈った蒔絵の簪や櫛、その他諸々を叩き売らせて頂いて、真澄の進学費用に充てますので。……それでは真澄、行きましょうか」

「待てと言っとるだろうがっ!」

 言うだけ言って腰を浮かせかけた玲子を、総一郎が鋭く制止した。それに玲子が臆する事無く、笑顔で応える。


「あら、お義父様からも何かお話がございましたか?」

「……出してやる」

「は? 今、何か仰いましたか?」

 小声で呻いた総一郎に、玲子がわざとらしく問い返した。すると総一郎が腹立たしげに口にする。

「進学費用は儂が出してやる。澄江の思い出の品を売るのは許さん」

 それを聞いた玲子は、勝利の笑みにも似た晴れやかな笑みを浮かべた。


「あら、それなら私もそれをそのまま真澄に渡せますから、願ったり適ったりですわ。では雄一郎さんがゴネた時は、お義父様が説得して頂けると?」

「ああ……。だが合格した時は、だぞ! 落ちて後から泣きついても、聞く耳持たんからな!」

 真澄の顔を見ながら吐き捨てる様に告げた総一郎だったが、玲子は平然と更なる要求を繰り出した。


「勿論ですわ。それから、受験期間中に嫌味を言ったり、勉強の邪魔をしたり、やる気を削いだりする言動はくれぐれも」

「くどい! そんなセコい真似はせん! やりたいだけやれば良かろう!」

「ありがとうございます。……真澄、あなたもそれで良いわね?」

「……はい」

 玲子から目配せを受けた真澄は殊勝に頷き、それを契機に二人は立ち上がった。


「それでは失礼します。お邪魔致しました」

 そして憮然とした顔付きの総一郎の前から離れ、廊下を歩いて部屋に戻りながら、真澄は喜色満面で母親に礼を述べた。

「ありがとう、お母様」

 すると玲子が小さく苦笑いした。


「普段なら怒って怒鳴りちらす筈の真澄が黙っているから、お義父様も不気味に思ってあれ以上強く出られなかったのよ」

「何それ。酷いわよ、お母様」

「どちらにしても、背水の陣である事には変わりないでしょうけど。幾らかは風当たりはマシになったかしらね?」

「格段に違うわよ。絶対に受かってみせるわ!」

 そう力強く宣言した真澄に、玲子はいつもの上品な笑みを浮かべながら指摘した。


「そうと決まれば、一応断りを入れておいた方が良い所が、もう一カ所有るんじゃない?」

「断りって……、何を?」

「頻繁に顔を出している所に急に出向かなくなったら、先方に色々心配されるかもしれないわよ?」

 そう言われた真澄は一瞬考えた後、母が言わんとする事を察して僅かに狼狽した。


「あ……、え、えっと……、そうですね。今度の週末に出向いて、お話ししてきます」

「その方が良いわね。じゃあ頑張って」

 そう声をかけて優雅に自室に引き上げていく玲子の背中を眺めながら、真澄は思わず溜め息を吐き出した。

(……お母様に、色々見透かされているような気がするのは気のせい? 何だかお父様と対峙した時以上に疲れたわ)


 ※※※


「実は、志望校を東成大にする事にしまして、これまで以上に勉強に時間を割く事にしたんです。それで最近月二・三回の割でこちらにお伺いしてましたが、その回数がかなり減るかと思います」

 真澄が雄一郎と賭けをした日から、何日か経過した週末。佐竹家を訪れた真澄が見合い云々の話は省いて、今後訪問を控える理由を説明すると、清吾は感嘆の、香澄は驚愕の表情を浮かべた。


「東成大ですか……。真澄さんは凄い優秀なんですね。頑張って下さい」

「あの頑固じじいと雄兄様が、良く受験自体を許したわね。そっちの方が驚異だわ」

(叔母様……、確かに過去の事でしょうけど、余計な事を一言も言わないのは流石だわ。お母様のお陰で受験させて貰えるだけでも、私は本当に恵まれているわよね……。口にするつもりはないけど、叔母様の分まで頑張ってみせますから!)

 そんな決意も新たにしている真澄の横で、話を聞いてもキョトンとしていた清香に、清人が補足説明をする。


「清香、真澄さんは今年もの凄く忙しいんだ。だからうちに遊びに来て貰えなくても我慢するんだぞ?」

「……ますみおねえちゃん、うちにこないの?」

 途端に目を潤ませて自分を見上げてきた清香に、真澄は内心たじろいだ。

(うっ……、お父様よりお祖父様より、清香ちゃんの涙が最大の難敵だったかも……)

 真澄はそう思いながらも、心を鬼にして清香に詫びを入れる。


「ごめんね、清香ちゃん。私もなかなか会えなくなるのは辛いのよ? 時々は遊びに来るからね?」

「ときどきって、いつ?」

「そうね……、夏休みとか、冬休みとか……」

「それだけ? ふぇっ……、そんなのやだぁぁ……」

 とうとう両手で目を擦りながらぐしぐしと泣き出してしまった清香に、真澄は本気でうろたえてしまった。

(ああぁ、泣かせるつもりじゃ無かったんだけど……)

 しかしそこで、清人の幾分厳しい声がかけられる。


「いい加減にしろ、清香。真澄さんが困ってるだろう?」

「で、もっ……」

「真澄さんだって清香と遊びたいのを我慢して、一生懸命勉強するんだぞ? 我慢すればするほど、後から嬉しくて楽になれるんだから」

 それを聞いた清香は、涙を手で拭きながら真面目に考え込んだ。


「えっと、それって……、おやつをがまんすると、ばんごはんがとってもおいしいこと?」

 ちょっと迷った風情を見せた清人だったが、面倒な説明をするつもりは無かったらしく、適当に流しながら清香に再度言い聞かせる。

「……まあ、そんな所だな。だから真澄さんが幸せになる為に、お前も我が儘を言わずに我慢しろ。分かったな?」

「うん……、おねえちゃんとあえないのさみしいけど、がまんする」

 うなだれた清香を見て、真澄は慰める様に声をかけた。


「清香ちゃん、丸々一年会えないわけじゃないし、会いに来た時は一杯遊んでね? 私の顔を忘れたりしちゃ嫌よ?」

 そう言って優しく笑いかけた真澄に、色々感情が振り切れたらしい清香が勢い良く抱き付いた。


「わ、わすれないもんっ! おねえちゃんこそ、さやかのこと、わすれないでねぇぇっ!!」

「大丈夫よ、心配しないで。大好きよ、清香ちゃん」

「さやかもおねえちゃんがだいすきなの~!」

 涙声の清香と穏やかに笑って宥める真澄が互いにひしと抱き合う様は、端から見ればなかなか感動的な場面の筈だったのだが、ここで予想外の声が発せられた。


「あらあら清香ったら。今生の別れってわけでも無いのにね?」

「ああ。……しかし清人。感動的な場面なのに、そんな仏頂面で睨むのは止めないか」

「本当、人相が悪くなるわよ?」

「親父、五月蝿い。それにほっといて下さい、真澄さん」

 それを耳にした真澄が、清香を抱き締めたまま清人に目を向けると、何故か清人は清吾や香澄が言った通り何となく面白くなさそうな表情で、プイとそっぽを向いて真澄から視線を逸らした。


「清人君?」

(え? どうして気分を悪くしてるの? 私何か気に障る様な事をしたかしら?)

 清人に顔を背けられ、一瞬胸が痛んだ真澄だったが、すぐにその理由に思い至り、密かに溜め息を吐いた。

(…………ああ、そうか。相変わらずのシスコンっぷりを発揮しているという訳ね)

 そうして納得した真澄は、相変わらず腕の中の、自分に抱き付いている清香をゆっくり引き剥がして声をかけた。


「清香ちゃん」

「なぁに? おねえちゃん」

 不思議そうに清香が見上げてくると、真澄は真顔で優しく言い聞かせる。

「清人君がね? 自分も清香ちゃんに抱き付いて貰いたくて、私を睨んでいるのよ。清人君が可哀想だから、一度私から離れて、お兄ちゃんをぎゅ~ってして貰えないかしら?」

 それを聞いた清香は、可愛らしく小首を傾げた。


「おにいちゃんをぎゅ~っと?」

「そうよ」

「ちょ……、真澄さん! いきなり何を言い出すんですか!?」

 互いに真剣な顔でのやり取りに、どことなく焦った感じの清人の声が割り込む。しかし清香は「わかった!」と真澄に頷き、清人に駆け寄ってその首にしがみつく様に抱き付いた。


「おにいちゃん、ぎゅ~」

「こら、清香! 真澄さん、止めさせて下さい!」

 狼狽気味に清人が清香を窘めつつ真澄に訴えたが、真澄は不思議そうに清人に尋ねた。


「だって清香ちゃんに抱き付いて欲しくて、私を羨ましそうに見ていたんでしょう?」

「そんな訳じゃ……」

「じゃあどうして?」

「…………っ!」

 僅かに首を傾げながら再度真澄が問いかけると、清人はうっすらと頬を染めながら絶句した。

 その時、真澄の背後で一連のやり取りを傍観していた清吾と香澄が、何故か唐突に笑いを堪える口調で立ち上がる。


「くっ……、ふはっ、だ、駄目だっ! すみません真澄さん、ちょっと席を外します」

「わ、私もっ! ゆ、ゆっくりしてて……」

「……はい」

 そうして口元を押さえて襖の向こうに消えた二人だが、何やら台所の方から笑いの気配が伝わってくる。先ほどのやり取りで何かおかしかっただろうかと、真澄は心底不思議に思った。


「どうしたのかしら? 二人とも」

「……さあ、俺にも良く分かりません」

 幾分引き攣り気味の笑顔を清人が向けると、そこから清香が真澄の元に戻って、再度力一杯抱き付いた。


「こんどはまた、おねえちゃんをぎゅ~なの! がんばってね! さやかのげんき、わけてあげる!」

「ありがとう、頑張るわ」

(うん、元気が出て来たわ。絶対に受かって見せるんだから!)

 激励してくれた清香に満面の笑みを向けつつ、真澄は東成大合格への決意を新たにしたのだった。



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