激突~真澄、十六歳の初夏~

「はい、おにいちゃん、あ~ん!」

「ああ、ありがとう。ほら、清香にもあげるよ? あ~ん」

「おいしいの! ありがとう、おにいちゃん!」

「どういたしまして」

 清人が非礼にならない程度の挨拶を終えた途端、清香が満面の笑みでその膝の上に座り込んだ。そして苦笑する清人と交互に、自分の皿のメロンを相手の口の中に入れて食べ始める。それを些か呆れた表情で、同じ卓袱台を囲んでいる真澄達が眺めていた。


(なんというか……、ここに来るまでに想像していた清人君と、全然違う……。確かに以前に一度だけ、泣きべそをかいていた顔しか覚えていないけど)

 そんな事を考えていた真澄の耳に、小さな呟きが聞こえてくる。


「……何かさぁ、バカップルみたいじゃない?」

「お前は黙ってろ!」

 ボソッと囁いた修を正彦が小声で叱りつけると、その声が聞こえたのか清人がメロンを食べるのを中断し、ゆっくりと穏やかな笑みを浮かべながら一同を見回した。


「今日は結構なお土産をありがとうございました。荷物になって大変だったでしょう?」

「あ、そんな事は無かったよ? 車で来たし」

 そのちょっと聞いた限りでは相手を気遣う台詞に、浩一は素直に応えたが、清人は小さくクスッと笑って、丁寧な口調のまま付け加えた。

「ええ、普通車の駐車スペースからはみ出る位の非常識な車に乗っている人なら、移動中は心配要らないでしょうが、降りてから苦労しそうだな、と。『エレベーターが無いなんて信じられない』とか『だから貧乏人は体力が有り余ってるんだ』とか言いながら階段を上っていそうで」

「…………」

 思わず黙り込んだ客人達に対し、清人は淡々と話を続けた。


「まあ、そんな冗談はさておき……。皆さん、今日はどのような用件でこちらにいらしたんですか?」

「……えっと」

「それは、その」

 微妙に清人から圧力を感じ始めた面々が気まずそうに口ごもると、横から香澄が口を挟んでくる。


「何でも、柏木さんからのお電話だと、『子ども達をそちらに出向かせるから、清人君と仲良くさせてやってくれ』だそうよ?」

 それを聞いた清人は、自分の分のメロンを清香に「食べて良いぞ?」と言って渡してから、どこか皮肉っぽく笑ってみせた。


「『仲良く』ですか……。でも香澄さん、俺の『仲良く』と、この人達の『仲良く』では、かなり意味合いが違うような気がするんですけど」

「そうねぇ……、普段から衣食住の環境が随分違うでしょうから、自然と価値観も違ってくるのは当然よね?」

「ここのワンフロアが一世帯用と考える、とか?」

「実際に、それ位の広さに住んでいるご家庭もあるでしょうけどね」

 そこで如何にもわざとらしく、清人が困った顔をしてみせる。


「困りましたね……。香澄さん、そんな風に価値観が違う人間が顔を合わせる場合、どちらがどちらに合わせなければいけないと思いますか?」

「それはやっぱり……、『郷に入れば郷に従え』の精神じゃないかしら?」

 小さく笑って促す香澄に、当然とばかりに応じる清人。


「世間一般的にはそうでしょうね。……美味しかったか? 清香」

「うん、ごちそうさまでした!」

「…………」

 香澄と二人で平然と嫌味を繰り出し、食べ終わった清香の口元をテッシュで拭き、お手拭きで甲斐甲斐しく手を拭いてやっている清人を、真澄以外全員が固まって見やった。


(まさか、車を降りてからのあれこれを全部聞かれていたの? でも清人君は、私達よりかなり遅れて、かなりの荷物を持って帰って来たわよね?)

 そんな事を考えて顔を青ざめさせた真澄だったが、彼女の従弟達は違った反応を見せた。一連の二人のやり取りから、はっきりとバカにされたと感じた友之と正彦が反撃に出る。


「そうですね。色々価値観が違うと、顔を合わせるだけならともかく、一緒に生活するのは大変でしょうね」

「でも香澄さんはお嬢様育ちと聞いてますが、清人さんとは意外に仲が良いみたいですね」

「あら、ありがとう。だって清人君は自慢の息子なんだもの」

 堂々と香澄が清人を誉めると、二人は何とも言えない微妙な笑みをその顔に浮かべながら、揃って清人に向き直った。


「流石『腐っても鯛』と言うべきかな?」

「得体の知れない父方はともかく、母方の血統はなかなかの物みたいだし?」

「…………」

 二人がそう口にした瞬間、清人はスッと表情を消し、目つきを険しくして相手を睨み付けた。しかし台詞の意味が分からなかった真澄は、急速に悪くなっていくその場の空気に焦りながら、慌てて二人に問い掛ける。

「ちょっと友之、正彦。あなた達、一体何を言っているの?」

 その問い掛けを、二人は半ば笑いながらはぐらかした。


「別にぃ? 『ボロは着てても心は錦』って言葉も有ったかな~、とか?」

「正彦、それちょっと違わないか?」

「う~ん、でも俺の言いたい事は伝わってるだろ?」

「所謂『掃き溜めに鶴』って奴? なかなかお上品な物腰だし、血は争えないよな」

「そう言う事」

 そんな事を言い合った二人がニヤニヤ笑うと、全く意味が分からない修と清香はキョトンとし、真澄と浩一はこの場をどう収めれば良いのか見当が付かずに呆然とし、香澄は黙って清人の顔を窺った。すると清人が、静かに口を開く。


「……香澄さん」

「何? 清人君」

 そこで清人は、つい先程まで完全に表情を消していたその顔に、気味が悪い位の愛想笑いを浮かべた。

「天気も良いし、ちょっと外で遊んできても構わないかな?」

 そう断りを入れてきた清人に、これまた香澄が満面の笑みで返す。


「勿論良いわよ? 男の子なんだもの、元気良く外で遊ばないとね。皆で行ってらっしゃい。真澄ちゃんはここで清香と遊んでね?」

「え? えっと、あの……、おばさま?」

 有無を言わせない香澄の視線に促され、少年達は揃って外へと出て行き、オロオロとしているうちに香澄だけ室内に取り残されてしまった。仕方無く皿を片付けるのを手伝おうと香澄と台所に入った真澄は、卓袱台で折り紙遊びを始めた清香の様子をチラリと眺めてから、香澄の顔色を窺いつつ先程気になった言葉の意味を尋ねてみる。


「あの……、叔母様?」

「何かしら?」

「さっき友之達が言ってた事は、どういう意味ですか? 何だか清人君の母方の血統を、当て擦っていたみたいでしたが」

 その問い掛けに、香澄は皿を洗う手を止めないまま説明を始めた。


「和兄様と義兄様は、興信所を使って調べた内容を子ども達に教えたけど、雄兄様はあなた達に教えなかったのね。……必要が無いと判断したんでしょうけど」

「何をですか?」

 まだ怪訝な顔をしている姪の顔をチラリと横目で眺めてから、香澄は単なる世間話の様に言ってのけた。


「清吾さんの前の奥さんって、由紀子さんって言ってね? 小笠原物産会長の、小笠原幸之助氏の一人娘なのよ」

「へえ、そうなんですか。小笠原物…………、はあぁ?」

 父親が社長に就任している会社のライバル企業の名前が唐突に出て来たことで、真澄が布巾片手に驚きの声を上げると、清香が何事かとパタパタと小走りでやって来た。


「どうかしたの? おねえちゃん」

 不思議そうに見上げられて、真澄は我に返った。

「な、何でも無いのよ、清香ちゃん。もう少ししたら行くから、向こうでちょっと待っててね?」

「は~い!」

 そうして清香が大人しく遠ざかってから、真澄は声を潜めて香澄に再度問い掛けた。


「それは本当の話なんですか? 叔母様」

「こんな事で嘘を言っても、しょうがないでしょう」

「じゃあどうして清人君はここに……、あ……」

 思わず口走った真澄だったが、自分が口にした内容が愚問以外の何物でも無い事に気付き、途中で口を閉ざした。そんな姪の額を、香澄はエプロンで水気を取った指でペチッと弾き、小さく笑う。


「そんな顔しないの。大丈夫よ。別に真澄ちゃんが当て擦ったわけじゃないんだし」

「そういうわけにも……。あの……、因みに、今現在清人君と由紀子さんとは?」

「由紀子さんが実家に戻ってからは没交渉ね」

「……そうですか」

 ますます気が重くなってきた真澄だったが、その時横で香澄が聞き捨てならない事を呟いた。


「全く頑固なんだから……。家事育児をタテに脅されたら、無理強いできないじゃない。せっかく清香に台詞を教え込んで、清人君を悩殺させようと思ってたのに……」

「脅す、って……、それに悩殺って……、叔母様?」

 物騒過ぎる言葉を耳にした真澄は思わず顔を引き攣らせつつ尋ねたが、香澄は笑ってごまかす。


「ううん、何でも無いのよ、こっちの話。……正直に言うとね、清人君は由紀子さんにあまり良い感情を持っていないの。でも私としてはやっぱり親子なんだし、どんな形でもある程度の交流は持って欲しいと思っているのよ」

「……それで、叔母様が何かお節介をしているんですか?」

 これまで把握している香澄の性格から、容易に推察された内容を口にすると、香澄は気分を害したように反論した。


「お節介なんて失礼ね、真澄ちゃん。継母としては、当然の気配りというものよ」

 そう言って胸を張った香澄を見ながら、真澄は密かに溜め息を吐いた。

(叔母様って……、普段は割と冷静なのに、昔から思い込んだら一直線な所があったものね……。下手に清人君母子の関係を、悪化させない事を祈るわ)


「だけどね? 今回清人君を真澄ちゃんときちんと引き合わせる事ができて、希望が見えて来たわ。本当の事を言うとね、今日は真澄ちゃんだけ来て貰えば良かったのよ。浩一君達は単なる金魚のフンよ、フン」

 ウキウキとそんな事を言い始めた香澄に、真澄は怪訝な顔を見せた。


「叔母様? どういう意味ですか?」

「あのね? 真澄ちゃんが清人君に『お母さんと仲良くして』って言えば、清人君は時節の挨拶位、由紀子さんにすると思うの」

「どうしてですか? 私、清人君とは殆ど初対面なんですけど。今日も皆と一緒に『初めまして』って挨拶されましたし……」

 本気で首を傾げた真澄に、香澄が益々上機嫌になりながら話を続ける。


「個別に挨拶するのが面倒だったのと、助けて貰った時に無様な姿を晒したのが恥ずかしかったんじゃない? 思春期の男の子って、なかなか難しいもの」

「……はぁ」

「だけど私、知ってるのよね~。この前、こっそり隠してあるのを見つけちゃって。だから兄様達が子供達を寄越すのを、許可した様なものだし」

 そう言って今度はクスクスと一人で笑い出した香澄を、真澄は唖然として眺めた。


「何を見つけたんですか?」

「それがね?」

 そこで真面目な顔で真澄を見詰めてきた香澄だったが、何秒か二人で見詰め合ってから、ふと視線を逸らして如何にも悔しそうに呻いた。


「……………………………うぅっ、もの凄く言いたいけど、やっぱり駄目ぇぇっ! これを口にしたら絶対清人君が激怒するし、そうなったら二度と炊事洗濯掃除育児を手伝ってくれなくなっちゃうもの! ごめんね真澄ちゃん! 不器用で意気地無しの私を許してっ!」

「私は別にどうでも良いですが……」

(叔母様……、昔から時々突き抜けた言動をする人だったけど、結婚してからそれが顕著になったのかしら?)

 叔母に対して結構失礼な事を考えていた真澄に対し、香澄が気を取り直す様に和室の方に彼女を促した。


「とにかく、これから色々協力してね? 真澄ちゃん」

「それは勿論構いませんけど……、来る早々清人君の心証を悪くしましたよね?」

 並んで歩きながら確認を入れると、香澄は苦笑して頷いた。


「ええ、母親の事を当て擦った上に、あなた達車から降りてここに来るまで、結構好き放題言ってたんじゃない? 絶対、皆に聞かれていたわね」

「皆って誰の事ですか?」

「あら、周りに全く無人ってわけでも無かったでしょう?」

「それはそうですけど……、遠くの方から物珍しそうに見られたりとか、怪訝な顔をした人とすれ違ったりとか……。じっくり話を聞かれたりは、していない筈ですけど……」

 思い返しながら不思議そうに言葉を濁した真澄だったが、香澄は事も無げに断言した。

「ここに入るまでにその中の何人かに後を付けられて、ばっちり一部始終を聞かれていたわね」

「どうしてですか!?」

 仰天した真澄に、香澄が笑って説明する。


「ここって昔からの団地で、住んでる人達の入れ替わりも少ないから、見慣れない人間が固まって歩いてたら人目に付くもの。それなのに失礼な事を放言していたら『一体どこの部屋の客だ?』って怒って、後を付けるのは当然じゃない」

「当然って……」

「それに、私との結婚前にお父様や兄様達が清吾さんと清人君に色々仕掛けてた時は、団地内でも結構噂になったらしいし。『またぞろ、何か佐竹さんの所に嫌がらせに来たんじゃない?』ってあっという間に広まって、買い物から帰って来た清人君を捕まえて報告したって所じゃない? 団地コミュニティーを甘く見ていたわね、真澄ちゃん」

(甘く見ていたって言うか……、そんな事、想像すらしていなかったわ……)

 地域コミュニティーの洗礼を受け、無言で項垂れた真澄だったが、ここで重要な事を思い出した。


「あの……、叔母様。どう考えても清人君とあの馬鹿達が険悪な雰囲気だったんですけど、放置しておいて良いんですか?」

 心配になって尋ねた真澄だったが、香澄は清香と一緒に折り紙を折りながらあっさり言い放った。

「良いんじゃない? 男の子同士、今頃拳と拳で語り合ってる筈だし、邪魔しちゃ無粋ってものよ」

「こぶ……、叔母様!?」

 動転して身を乗り出した真澄に、目の前の母娘が怪訝な顔を見せる。

「おねえちゃん?」

「どうしたの? 真澄ちゃん」

「だって、幾ら何でも四対一ですよ?」

 本気で清人の身を案じた真澄だったが、それを聞いた香澄は盛大に笑い飛ばした。


「……ぷっ、あ、あははははっ!! 清人君の心配をしてくれて嬉しいけど、あの清人君が四対一だからって、あんな箱入りボンボン連中に遅れを取るわけ無いから大丈夫よ。十歳から柔道を始めて、中学の部活は空手なのよ? もう……、あんな王子様顔なのに、どうしてそんなムサいのばっかり……」

 最後は不満そうにぶつぶつ呟いた叔母に、真澄は深々と溜め息を吐いてみせた。


「顔は関係無いと思いますし、ボコボコにされる前提なのは、一応あなたの甥達なんですが?」

「そうだったかしらぁ~? あ、清人君は紳士だから、幾らムカついても私の甥だったら多少は手加減してくれる筈よ。良かったわね?」

「全然良くありません……」

 ニコニコとすこぶる上機嫌な香澄とそれ以上議論するのを、真澄は潔く諦めた。

 それから女三人で折り紙に熱中してふと気が付くと、結構な時間が経過していた。


「叔母様? あれから四十分近く経ちましたけど」

 その指摘に、香澄は娘を促しつつ立ち上がる。

「う~ん、そうねぇ。じゃあ、清香。そろそろ皆でお兄ちゃん達を迎えに行きましょうか?」

「うん! いく!」

 そうして三人連れ立った部屋を出て階段を降り、その棟の出入り口から外に出たと思ったら、香澄が幾つか建っている棟の中庭の様に配置されている公園とは逆の、建物の裏側に回って歩いて行く為、真澄は訝しげに尋ねた。


「叔母様、公園は反対側ですよね?」

「あんな人目に付く所に居るわけ無いわ。こっちにはこの団地を造成する時に、そのまま残した雑木林があるの。暴れるならこっちよ」

「……そうですか」

 最早突っ込みを入れる気も失せて大人しく香澄と清香の後に付いて歩いて行くと、すぐに鬱蒼とした雑木林が現れた。

 そこに続く申し訳程度に均してある砂利道は、団地に入る時に軽く上がった道に繋がっているらしいが、確かに人気は感じられず、真澄は周囲を見回しながら密かに香澄の判断に納得した。すると清香の嬉しそうな声が響き渡る。


「おにいちゃ~ん! おむかえにきたの~!」

 反射的に清香が走って行った方向に目を向けると、先ほど別れた時とは寸分変わらない姿で、清人が佇んでいた。そして突進して行った清香を笑って抱き止めたその姿に安堵したのも束の間、その周囲に目を向けて真澄の顔が盛大に引き攣る。

 真っ青な顔で立ち尽くしている浩一は見た目に変化は無かったものの、他の三人は至近距離で固まって地面にへたり込んでいた。

 もっと正確に言えば一番年下の修は一応手加減して貰ったらしく顔は無傷だが、地面に座り込んでえぐえぐ泣いており、その隣で片足を投げ出して座っている友之の顔は見事に腫れ上がり、シャツの片袖が裂けている上、更にその横に仰向けに転がっている正彦は鼻血が出た形跡があり、シャツと言わずズボンと言わず、泥と埃まみれだった。

 思わず続ける言葉を失った真澄だったが、流石に清香も周囲の様子に不穏なものを感じたらしく、清人に問い掛ける。


「おにいちゃん、みんなどうしたの?」

 この事態をどう説明するのかと、真澄は思わず清人を凝視したが、当の本人は白々しい笑顔で妹に説明した。


「ああ、皆で鬼ごっこをしてたんだよ」

「おにごっこ?」

「うん。だけど俺位足が早い人は居なくてね。全然俺を捕まえられなくて、皆疲れちゃったんだ」

「そっか! おにいちゃん、はやいもんね~」

「それから、馴れない所で走り回ったから、木にぶつかったり砂利道で転んで怪我をしてね。清香もでこぼこの所で転んだ時、怪我して痛かっただろう?」

「うん、とってもいたかったの」

「だからそろそろ家に帰るって」

「そうなんだ~。さやか、おにいちゃんたちと、もっとあそびたかったな~」

 そんな一見ほのぼの兄妹会話が交わされている横で、真澄は拳を握り締めてプルプルと震えていた。そして無言で三人の所に歩み寄ると、無言のまま修の頭に拳骨を食らわせ、友之の顎に膝蹴りを食らわし、正彦の掌を容赦なく踏みつける。


「いつっ!」

「ぐあっ!」

「うぇっ!」

 途端に背後から上がった呻き声に、清香が目を丸くして振り返った。視界の端で真澄の行動を捉えていた清人も、驚いた表情を見せる。


「おにいちゃんたち、どうかしたの?」

「あら、何でも無いのよ? 清香ちゃん。……あ、浩一、ちょっと動かないで」

「え? うん、分かったけど、何?」

 清香ににこりと笑いかけた姉が自分に声をかけつつ近寄ってきた為、その指示に大人しく従った浩一だったが、目の前に立った真澄からもの凄い勢いで平手打ちを食らわされ、呆気なく地面に転がった。

(何か……、前にも似たようなな事が有ったわね……)

 思わず白けた目つきで真澄は弟を見下ろし、香澄は小さく「あら、まあ……」と呟いただけだったが、他の者達は一瞬何事が起きたのか理解できずに固まる。


「お、おねえちゃん? どうしたの?」

 驚いた清香が思わず清人にしがみつき、怯えながらも真澄に尋ねると、真澄はしゃがんで清香に目線を合わせながら謝った。


「清香ちゃん、驚かせてごめんなさいね? 今、季節外れのヤブ蚊が浩一の頬に止まっていたの」

「か? かゆくなるやつ?」

「そう。浩一はボケッとしてるから血を吸われ放題で、いつも私が追い払ってあげてるの。今のはちょっとだけ、力が入り過ぎたけどね」

「そっか! こういちおにいちゃん、いいなぁ~。さやかもますみおねえちゃんみたいな、やさしいおねえちゃんがほしい~」

「…………ぶふっ」

 清香が羨ましそうな声を上げた瞬間、変なくぐもった音が聞こえた。その発生源と思われる人物に、清香と真澄が顔を向ける。


「え?」

「おにいちゃん?」

 すると清人は堪えきれないといった感じで、腹を抱えて盛大に笑い出した。


「………くっ、……ぷっ、……ふ、は、ははははっ! ま、真澄さんっ! あなたって人は、相変わらずですね!」

 そう叫んで笑い続けている清人に、真澄が憮然として尋ねる。

「……それって嫌味?」

「いえ、……褒めているんですよ? 本当に最高です」

 そう言ってこれまでの取り澄ました笑顔や、わざとらしい慇懃無礼な態度をかなぐり捨てて笑い続けている清人は、年相当の明るい笑顔を惜しげもなく振り撒いていた。その顔をしげしげと眺めた真澄は、一人密かに動揺する。


(こんな風に笑うと、結構格好良くて素敵…………。って! 素敵って何よ!? 清人君は私より二歳も年下でしょ! 年下の子相手に、何を考えてるのよっ!)

 そんな姪の内心の動揺を見透かした様に、少し離れた所に立っていた香澄は、口許を手で押さえて笑いを堪えていたのだった。

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