第12話:恐怖の兆候、失われた過去

 チャコール色の小さな門扉は、手で軽く押すと、ギギという鈍い音を立てて開いた。まるで静止していた時間が動き出したように、小さな庭に生い茂った草木から、数匹の小鳥たちが飛び立っていった。黄砂の混じった暖かい風が、佐伯さえきトワの後ろ髪を揺らしている。湿った草木からは小さな虫たちの鳴き声が聞こえていた。


 彼女は玄関へと続く茶色のインターロッキングを歩いていく。その後ろ姿は、ツグムにとって日常の風景の一部だったものだ。過去形で語られるその景色は、おぼろげではあるけれども、彼の日常として確かに記録されている。この家はツグムが帰る場所でもあるのだ。


 トワは玄関の前に立つと、壁を這う植物の枝葉をかき分け、施錠システムの端末モニターに触れた。


「通電されていないのね……」


 そう呟いた彼女は、ズボンのポケットから銀色のカギを取り出して、端末に差し込む。施錠が解除されるガチャリとう音が住宅街に響いた。扉が開く瞬間、ツグムはこの家に初めて来たときのことを思い出した。それは彼がまだ小学生のころだ。真っ黒なスーツで身を固めた男たちに連れられ、この家の玄関の前に立たされた。そんな彼を出迎えてくれたのは、佐伯トワの母親と、その後ろに隠れる幼き頃のトワだ。


 玄関に降り積もった真っ白な埃は、流れ去って行った時間の総量と等しい。リビングへと続くフローリングの廊下。その奥にある洗濯機と洗面台。トワと喧嘩をしたツグムが引きこもる場所は、二階へと続く階段下の納戸だった。


「記憶はなぜ、こんなにも断片的なのだろう……。あの装置で寝ていたことが原因なんだろう、トワ」


「ええ、そうよ」

 

「それとも、未だに夢を見ている、そんな気さえする。信じられないんだ。僕の現実は、いったいどこに行ってしまった?」


 トワは廊下からキッチンへと足を踏み入れる。正面に佇む大きな冷蔵庫。その横には食器棚があり、ガラス扉の向こう側には、皿やマグカップが、そして使いかけの調味料も並んでいた。生活の痕跡は今もまだ確かな温もりを宿している。


「ツグムのご両親は、お二人とも立派な研究者だったわ」


「研究者……」


「これから話すことは、わたし自身が直接に見てきたや経験したことじゃない。それはわたしの母の記憶と言ってもかもしれない。でもおそらく、真実なのだと思う……」


トワはゆっくり息を吸うと、呼吸を整えながら話を続けた。


「あれは、わたしたちが八歳にならない頃よ。最初はただの風邪が流行っただけだと、誰もがそう思ったわ」


 ツグムはトワの話を聞きながら、キッチンの床に転がっていたインスタントラーメンを拾い上げる。色あせたパッケージにはウメワサビ味と大きくプリントされており、その下に表示されている賞味期限はおよそ十年前のものだった。


、それがあの感染症の俗称だった。だから、少しばかりの手洗いと、うがいをしていれば問題ないって、みんながそう信じていたの。でもね、この新しいウイルスはとても狡猾だったわ。もちろんウイルスに知能なんてありはしないのだけれど……」


 流し台の向かいにあるカウンターボードには、郵便物の山が積み重ねられていた。その多くを占める灰色の封筒には『新東京都市開発機構』と大きく印字されている。ツグムはようやく思い出した。トワの母親が勤務していたのは田邉重工株式会社だったことを。


「多くの人たちが未知のウイルスに対してあまり関心を向けなかった。でも、あの感染症を楽観視せず、警笛を鳴らし続けてきたのが君のご両親よ。お二人ともウイルス学者だったと聞いてるわ」


 両親の姿について、東亜メトロの全線開通式典での出来事を除けば、ツグムが思い出せることはほとんどない。ただそれは、必ずしも彼の記憶が断片的なこととは関係がないのかもしれない。ツグムの両親はいつだって研究室にこもり、家にほとんど帰らなかったのだから。


「そして、本当の恐怖に人々が気づいたとき、感染はすでに世界規模で流行していた」


「本当の恐怖?」


「ええ、インフルエンザと同じか、それより少し辛い症状、それですむわけではなかったのよ。もちろん、感染者の多くは、そのまま治癒に向かった。でも、一定の割合で発症から数日後に重症化する人が出てきたの。当時の感染感受性人口は七十億人。このうち十%が重症化して一%が死亡するという疫学でデータが発表されたのは、世界保健機関がパンデミックを宣言した一か月後よ」


「僕も、感染したんだね……。そして僕だけが助かった」


 幼き頃のツグムの記憶、それは何者かに抹消されかけたツグム自身の生い立ちそのもの。高熱にうなされたツグムが意識を取り戻したのは、病院の地下駐車場にずらりと並べられた簡易ベッドの一つだった。バイタルサインを計測し続けるモニターのアラーム音が鳴り響く中、全身を防護服に包んだ医療スタッフがせわしなく駆け回っている様子がコマ送りのように再生されていく。


「残念なことに……。父は君のご両親と学生時代からの友人だったの。身寄りのない君を、この家で引き取ることにしたのよ」


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