第13話:ユーフォリアプロジェクトという名の希望

 佐伯さえきトワはキッチンからリビングに入ると、光が差し込む窓際に立ち、緑に包まれる庭を眺めた。


「その後も感染者の数は指数関数的に増えていったわ。専門家の助言に従い、感染症の封じ込め戦略として、社会的隔離が政策的に実施されるようになると、感染の拡大は鈍化していった。でも、不要不急の外出には罰則が科せられられたり、経済的困窮に苦しむ人も増えてしまったわ。ウイルスは身体だけでなく、人間社会の関係性をも蝕んでいったの」


「人間社会の関係性……」


「ええ。食事はなるべく一人で食べることが推奨されたわ。もちろん自宅でね。人の行動や消費が制限される社会で、経済活動は停滞、大小あらゆる企業が倒産に至ってしまった。人が何千年もかけて作り上げた資本主義社会を、あのウイルスはたった数か月で破壊してしまったのよ」


 リビングの中央に置かれたガラステーブルには、水色とピンクのマグカップが置かれていた。ツグムには、それが自分とトワのものだとすぐに分かった。あのカップに牛乳を入れてもらい、食パンと一緒に食べるのがいつもの朝だったのだ。


「なぜ、こんな世界に……。いくら未知のウイルス感染症だからって、九十パーセントの人は重症化もしないし、九十九パーセントの人は死ななかったんだろう?」


「ウイルスとの共生という出口の見えない不安、それがこの社会をもたらした本当の理由」


「不安?」


「ええ。この感染症に対する研究が進むにつれて厄介なことが分かったの。感染してもウイルスに対する抗体が数週間しか続かないのよ。つまり、ウイルスに対する免疫は極めて短期間しか維持されないということ」


「まさか……それじゃ、なんども感染を繰り返してしまう。治療薬はワクチンは開発されなかったの?」


「ええ。免疫を獲得できない以上、ワクチンの実効性は皆無と結論されたわ。そしてウイルスはその時々で変異を繰り返し、巧みに人の免疫システムを逃れ、抗ウイルス薬の開発を難渋させた。基本的には毎年のように繰り返しひく風邪と同じなのよ。でも、たちの悪いインフルエンザという比喩はあながち間違いでもない。むしろ文字通り。有効なワクチンや治療薬がなく、そして致死率はわずかではあるけれども、不安を覚えるくらいに高い」


「結局のところ感染は収束しなかった……」


「季節の変動に伴う毎年の流行が予測された。だから人間はあのウイルスとの共生する道を選んだの。生活様式の変化は感染の拡大よりも急激だったそう。その時点で社会保障制度はうまく機能していなかったから、残された財源でベーシックインカムが導入された。経済活動が停滞して、職を失う人も多かったから、国民全員が最低限の生活を営めるよう、一定の額のお金が口座に振り込まれる仕組みよ。もちろん、教育システムはすべてオンライン化。物流も無人で行われる計画が進んでいたの。あの当時の人たちは、ウイルスに負けない新しい社会の形に歓喜していたそうよ。でも母は違った」


「君の母さんは、そうした街づくりの中心にいたんじゃ……」


 断片をつなぎ合わせながら垣間見る過去の風景。パズルを組み合わせて全体を眺めて初めて理解できる情景。急速に変化する社会のただなかで、社会は混沌に満ちていったことは良く理解できた。


「ええ、母は田邊重工にいたわ。新東京都市開発機構の事業本部を統括していたのよ。でも、会社上層部は新東京という街を構想するにあたって、二つの派閥に分かれていた。人間の生活を維持しつつも感染リスクを最大限に抑えるよう都市を設計していく、スマートシティ推進派と、後にユーフォリアシティズムと呼ばれるようになった人たち。母は最期までイデオロギーが社会の希望となってはいけないと、ユーフォリアシティズムを批判していたわ」


「ユーフォリアシティズム……」


「ウイルスの脅威は出口のない不安にこそあった。その出口を真っ先に提示してくれたのは、スマートシティというモノではなく、社会の最大幸福を実現すると唄われたユーフォリアシティズム。それは過酷な現実を忘れ、夢を見ることによって生を豊かなものにするイデオロギー。確かに人は他者との関係性を放棄して孤独に生きることは難しい。でも毎年、総人口の一パーセントの人がなくなる恐怖に耐えられなかった。人の幸福にとって、現実世界は果てしなく絶望に近いものだったのよ。だからユーフォリアシティズムは多くの支持を得ることができた」


「現実から目を背けて、夢に浸り続けることが、それが人間の生き方って、そんなのおかしいよ……」


「もちろん反対する人も少なくなかったわ。ウイルス禍という混乱社会のなかでもユーフォリアシティズムに対する抗議デモはたくさん行われた。でも、人と人が争う愚かさに、この街の人間は民主主義を手放すことで合意を果たしたのよ」


「民主主義を手放した?」


「エンフォーサーを見たでしょう。あれは民主主義を確実に執行するための装置なの。一般意志執行インターフェイスと呼ばれているあの機械は、田邊重工が開発した人工知能『ミソラ』の意思に従って行動している」


「そんな……」


「まともな政治的判断ができないくらいに社会は混沌としていた。だから民主主義を部分的に放棄することで、完全な民主主義を手に入れることができると、みながそう信じたのよ。ミソラの意思決定によって、ユーフォリアプロジェクトは正式な国家プロジェクトとして承認されたわ。もちろん倫理的な批判も少なくはなかったのでしょう。人を死ぬまで眠らせる。そして、眠っている間の生命維持を、得体のしれない人工知能に任せることに抵抗を覚えることはむしろまともな倫理。でもあの当時、この国だけでなく、世界中のあらゆる地域で倫理や道徳は機能していなかった。許可なく外出しただけで射殺される国、限りある医療資源の観点から命の選別を行う国。だから、皆が幸せになれるのなら、たとえ偽りの幸せであっても、そのほうがいいって、そう考える人の気持ちもよく分かる」


「分かるかもしれないけれども、でも、眠りたくないと考える人たちの想いはどうなってしまう……」


「眠りから逃げた人は、眠らない人になった。ツグムも見たでしょう?」


「本を燃やしていた人、多摩川で釣りをしていた人、神社で祈り続けていた女性……あの人たちがユーフォリアシティズムの抵抗者だっていうのか?」


「ええ。眠らないことを承認する条件として、感染症の拡大防止措置と称した教育研修プログラムの受講が義務付けられたの。そのプログラムがあの人たちの人格を、記憶と編みかえている。それは、ある種のマインドコントロール。ユーフォリアシティズムに否定的な語彙をすべて抹消するために。ねえ、ツグム。なぜ、本が燃やされると思う?」


「言葉の消去……なのか」


「そう、言葉が概念を作るから。だから本は危険なものとみなされている」


「魚を釣り続ける人、祈り続ける人、あの人たちはなぜ……」


「眠らない人には、ユーフォリアプロジェクトを運用するために、様々な役割をあてがわれている。眠らない人の食料は、サプライに積み上げられているレーションだけど、そのレーションの原料となる魚を捕獲しているのが工業エリアにいた男性。そして、祈りはある種のマインドコントロールを施すもの。ユーフォリアシティズムを植え付ける伝道師。万が一に夢から覚めてしまった人を諭すための保険なのよ」


 トワは窓際から離れると、リビング奥の書斎へと続く扉を開けた。茶色の木製の扉にはいつも鍵がかかっていて、トワの父親はこの先は絶対に入ってはならないと、そう繰り返し言っていた。


「エンフォーサーに管理される命があってはいけない。わたしの母は、眠りを人の手に返したいと、だからこの現実を世界に発信してほしいと、そう望んでいた」


「でも、そんなウイルスが蔓延している社会でどう生きていけば……」


「ツグム、あなたは今、ウイルスの脅威を感じている?」


「まさか……」


「理由はわからない。でも一つだけ確かなことがあるの。人々を混沌に陥れた未知のウイルスは、ユーフォリアプロジェクトの運用が始まってすぐに、この地上から消えてしまったこと……」

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