林檎百物語
京町正巳
林檎百物語
〇
「部屋に林檎があった」では、少々面白みに欠けるかもしれないが「部屋に林檎がなった」だと、多少は胸もときめくことだろう。林檎が部屋になれば南瓜の馬車みたいで、珊瑚が部屋になると人魚の世界のようだ。ついさっき僕が目を覚ましたら、部屋に九十九個の林檎があった。窓の外ではすでに夕刻が迫っている。そういうわけで、記憶を掘り起こすことにする。
しばらく後頭部が疼いていた。確実な記憶は二軒目の途中までしか残っていない。大酒飲みの真世さんについていったことに原因があるのは明白だった。彼女のキャパシティは底なしで、今までに一度も酔っぱらったところを見たことがない。ともすると常日頃から酩酊しているのやもしれない。きちんと充電器に刺さっていたスマートフォンを手にして、真世さんに電話をかける。たった一度のコール音で繋がった。
「やっと起きたのか朝彦。亜空間まで来い。今すぐだ」
僕がひと言も発さないうちに電話は切れてしまった。「まだ飲めちゃうんだ」と、独りごちて支度にとりかかる。シャワーを済ませ、歯磨きをし、髪も乾かぬうちにつっかけで外に出た。そろそろ春になりかけているが、長袖のTシャツ一枚ではまだちょっとだけ肌寒かった。アパートの階段を下りて振り返る。いつも家の鍵をかけないせいで、今までに何度か真世さんに部屋を荒らされたことがあった。だが、今回ばかりは優秀な泥棒に半分くらい林檎を盗んでいただきたいものだ。いくら僕が林檎好きと言えどもさすがに数が多すぎる。
土曜日が終わりつつあった。夕暮れの市立公園の歩道に沿って、帰っていく子供たちに逆らいながら街を目指した。辺りが暗くなってきたら、できるだけ街灯がついてないところを選んで歩く。やがて迷い込んだ路地を抜けると、人も車も行き来しない大通りにぶつかる。左に折れて、紺色に色落ちした街が明るくなるまで進めば、白抜きの文字で「亜空間」と描かれた黒の暖簾が現れる。二つの雑居ビルの間にあった狭い空き地に、無理やりはめ込んだような直方体の酒場だ。
引き戸を開けて中に足を踏み入れた。今日も今日とて酒好きが集まっていて騒がしい。正面のカウンターは既に満席だ。左手に設けられた座敷からは「よし!」だの「こい!」だの歓声が飛び交っている。右手には二階に続く階段があって、それより上は僕にとって未知の領域だった。いつもの階段下の席で、真世さんは見知らぬ大男を連れて飲み比べをしている。お気の毒に。大男はすでにグロッキー状態だった。
「おー、来たか朝彦。とりあえず飲め」座席を引いて僕を招いた後で「お姉さん! こっちこっち」と、真世さんはウエイターを呼び止めた。今日は一段とラフな格好で、肩まである黒髪を飴色のバンスクリップで留めている。
「じゃあ林檎酒のロックで」
「なんだ、またそれか」
「これ、他の店じゃなかなか飲めないんですよ」
スーパーやコンビニでも目にしたことはないし、近所のお手軽な居酒屋にも置いていない。通販で買っても店に持ち込むわけにはいかないので、出先で飲むには割りかし貴重な機会なのだ。
「だったらまた、ごねてみればいいじゃないか」
真世さんは思い出したように高笑いして言う。僕にはまったく身に覚えがなかった。記憶を振り返ってみても、やはり途中で靄がかかってしまう。いつも自力で家に帰れることが不思議だった。
「ごねる? 何のことですか」
「昨日の大惨事を忘れてしまったのか。だらしのないやつめ」
一分もしないうちにウエイターのお姉さんがお酒とお通しを持ってやってきたので「あ、どうも」と、受けとってから続ける。
「そのことなんですが、部屋に林檎があったんですよ。九十九個も」
「数えたのか? 傑作だな。どーせ目撃者も関係者もこの店の中にいるんだ。知りたいなら酒を酌み交わせ。そしてまた、全部忘れちまいなよ」
言って、真世さんは樽のように巨大なジョッキを高々と持ち上げた――。
今日は来る時間が早かったせいもあって、亜空間に入ってくる人をよく見かけた。その日暮らしをしていそうな若者たちから、暇もお金も持て余しているだろう富裕層まで、多種多様だった。一方で、出ていく人は相も変わらず皆無に等しい。亜空間のキャパシティも底が知れないのだ。あれから昨日の件にいくら探りをいれてもはぐらかされるので、僕は質問を変えることにした。
「今日はアレやんないんですか? 座敷はかなり盛りあがってましたけど」
痛いところをついてしまったようだ。どんより空気が重くなって、テーブルに数枚の紙切れが放り出される。イカサマ防止の赤い判がついた賭け札だ。真世さんは赤茶けたロングスカートの中で行儀悪く胡座をかき、椅子に座り直した。
「やったの。んで、負けたの。今日もてんでついてなかった。いくらなんでも二日連続でこれは酷すぎるよ。だからこんなつまらない男と飲んでたってわけ。お前より酒が弱かったぞ、こいつ」
「真世さんに合わせてたら、誰でも敵いませんって。僕ももうだいぶきついですもん」
「は? まさか酔っぱらったのか」
「だって、かれこれ三時間くらい飲みっぱなしでしょう? ペース落としてくださいよ」
「朝彦。まだまだ修行が足りんなぁ。お前がここにきてから、まだ一時間しか経ってないぞ」
「いやいや冗談きついですって。これでもう八杯目ですよ」
早くも時間の感覚が狂ってきたようだ。大将にお願いして瓶ごと受けとった真世さんが間髪入れずに次の林檎酒をグラスに注いでいく。
ここ亜空間にやって来て酔ったことのない人間が三人いるらしい。その中の一人が真世さんだった。あとの二人は真世さんよりも酒が強いと専らの噂だ。残念ながら僕はまだ会ったことがない。会っていたとしても記憶がない、が正確か。あぁ、もう限界が近い。次第に酩酊していくのが手にとるように分かる。世界と記憶と思考の境界が溶けて、ぐちゃぐちゃになる。昨晩ずっと、寝ている間も林檎に囲まれていたせいかもしれない。なぜだか僕は急に林檎が食べたくなった。反射的に口が動く。
「どうしてこの店には林檎がないんだ!」
「そうだな朝彦。では、今日も反旗を翻して林檎をメニューに追加しようじゃないか」
◆
私が朝彦を亜空間に連れてきた理由はだだひとつ、面白いからである。それ以上でも以下でもない。酒を飲んでこんなにも豹変する人間を私は知らない。それでいて割にまともでいられるから気に入った。たいていの人間は気分が悪くなったり、眠くなったりするものだが、記憶をなくしてからボルテージをあげるのが朝彦なのだ。私の性格上、私よりも主張の強い人間がいたら、聞き役に回ることができる。おかげで緩急がついて喋り飽きずに済む。つまりは便利な奴ということだ。
「時に諸君! どうしてこの店のメニューに林檎が存在しないのだろうか」
朝彦が大きな声を出した時、店内は一瞬静まり返った。すぐ元に戻ったが、私は何人かが動き出したのを目にした。たいていどこにでも野次馬根性の火付け役がいるもので、これだけ人の集まる酒場となればなおさらだ。良くも悪くも場が盛りあがるのが好きなのだろう。
「さて、林檎なき人生は人生にあらず。今こそここに反旗を翻し、メニューに林檎を追加しようではないか。本日をもって林檎愛好会を結成する! 暫定の会長はこの僕だ。会員になりたい奴は存分に愛を謳ってくれ」
数分が過ぎて、各階に御触れが伝わったのだろう。ちらほら人が降りてきた。皆が尻込みする中、ひとりの男が歩み出る。名はタケルと言った。
「俺は林檎を愛している。どうか話を聞いてくれないか」
朝彦は周りを巻き込むのが得意なのだ。本人には文字通り自覚がないのだが。私は朝彦の正面の椅子を引っ張り出して、門を叩いたタケルに座席を用意してやった。
「初めての出会いは――」
語り出したタケルを見ながら本当に林檎を愛しているのだろう、と私は素朴に思う。普通の人は最初に食べた林檎なんか覚えてやしない。私だって初めての酒を覚えているわけではないのだから。好きな物は気がついたら好きになっている。そんなものだ。
「それから仕事帰りに毎回ひとつ買っていたんだ。週末になると平日分の倍はくだらなかった。振り返れば、最高の日々を過ごしていたと本気で思うよ。だけどある日の月曜日、林檎が売り切れていたことがあったんだ。それも近所の店全部が、だ。奇跡的な偶然の出来事さ。誰も悪い人はいない。それでも、どこも売り切れてしまっていた。林檎を買えずに帰宅した俺はどういう感情になったと思う?」
「普通なら、買えなかったことを残念に思うだろうな」
朝彦の意見は至極当然だ。空になった酒のおかわりを注文して続きを待った。私なら酒のない夜に耐えられる道理がない。
「あぁ。だが、俺は買えなかったことを悲しんだわけじゃないんだ。辿り着いた結論は、俺が買っていたことによって、買えない人間が現れる可能性だった。俺のせいで林檎を食えない人間がいることに悲しみを抱いたわけだ。それ以降、俺は一度も林檎を口にしていない。愛、ゆえに」
しばらくの間、沈黙が流れた。朝彦が林檎酒をひと口飲んでタケルがそれを羨ましそうに眺めていた。徐ろに朝彦が語りかける。
「愛ゆえに、か。言いたいことは分かった。けどな、そんなの単純に需要と供給の話じゃないか。冷静になって考えてみろ。売り切れが頻出した店はどうする? もっと多くの林檎を取り寄せることになるだろうよ」
何か思うところがあったのだろう。タケルの顔が徐々に曇っていく。朝彦は畳み掛けるように言った。
「当たり前じゃないか。長い目で見れば、今よりも口にできる人間が増えるに決まってるんだ。目の前から林檎と希望がなくなったのならば、新たに生み出すのみ。分かったら今すぐ林檎を買ってこい!」
「はい……ありがとうございます!」
思いのほか熱っぽくなって、外野は倍くらいに膨れあがっていた。階段から覗き込むようにして観戦している者もいる。タケルも皆も酔っぱらっているのだろう。おそらく判断が正常ではない。場の雰囲気に流されてしまっているのだ。これだから酒は良い。
朝彦の正面の席を先頭にカウンターを通り越し、座敷まで大勢が列を成して、一人、また一人と入れ替わり立ち替わり、訥々と思いの丈を語り始める。中には農家や研究者と、本格的な人も混じっていた。
そうだとも。亜空間は驚くほどに広いのだ。
―――
列が半分ほど短くなってから、上の階で飲んでいたという五人組が朝彦の前に並んだ。「私が代表します」と、座席に座った女は、なるほど林檎のイヤリングを揺らしていた。堂々と胸を張ってヤヨイと名乗り、朝彦と対峙する。
「真っ赤な運命だったんです。私は物心ついた時から林檎をねだっていたそうです。食べ物としてはもちろんですが、林檎のぬいぐるみを買い与えられ、林檎のお洋服を着て、林檎に囲まれながら育てられました。それからというもの生活に林檎は欠かせないものとなりました。普段の食事やおやつ、お祝い事も林檎。嫌なことがあっても食べました。何度慰められてきたことでしょう。一度、大きな病気をした時に病室で食べた林檎は格別の味がしました。一生忘れることはできません」
そこまで言って、ヤヨイは一度言葉を区切った。両耳の林檎が優しく揺れる。
「あれは、よく晴れた夏の日のことでした。私は通院のため丘の上にある病院向かっていました。ちょうど坂道に差し掛かった時、足元に林檎が転がってきて――。拾おうとしゃがみ込んだ私の目の前に車が突っ込んで来たんです。間一髪でした。フロントガラスは粉々に割れて、電信柱は歪んでしまっていました。歩き続けていれば挟まれていた、と思うと今でもゾッとします。要するに、私は林檎に命を救われたんです」
「代表……というのは?」
ヤヨイは振り返ってすぐ側にいた男を見上げる。
「その時、坂の上にいたボクが、目の前に落ちてきた植木鉢に驚いて林檎を転がしてしまったってわけです」
照れくさそうに左手で鼻を触っていた。ヤヨイと同じ指輪が光っている。続いて、後ろに並んでいた三人が順番に口を開いた。
「植木鉢を落としてしまったのがわたしです」
「恥ずかしながら運転していたものです」
「私は結婚した二人の神父を務めました」
ぐるりと一周回ってまた、ヤヨイまで順番が戻ってきた。
「もちろん今では笑い話ですよ。たまにこうやって集まってお酒を飲むようになったんです。これも全部、林檎のおかげなんです」
朝彦は涙ぐんでたった一言「感動しました」それだけ零した。
すぐ後に、林檎を想った歌を歌わせて欲しい、と志願した青年がいた。これがやたらと長かった。どこからかギターを持ち出してきて演奏が始まり、さらにはアンコールまで行われた。歌が苦手な私はゴミ屑になった賭け札をテーブルに拡げて反省に集中する。繰り返し分析し、攻めるべき時分と引き際とを見極めなければタダ酒にはありつけないのだ。
五枚の賭け札すべての回想が終わった頃、朝彦は「林檎大先生」などと呼ばれるまでになっていた。
――これは林檎百物語だ!
ふいに誰かが叫んだ。瞬く間に歓声が沸き起こる。それからも会員希望者は継続的に殺到した。毎晩、林檎風呂に浸かる者。握力だけで林檎ジュースをつくる者。林檎の皮アーティストに林檎の種アーティスト。室内に林檎の木を植えてしまった者。林檎をモチーフに家をつくった建築家。林檎創作組合会長。林檎飴中毒者。自称林檎ソムリエ。ひと口に林檎愛好会とは言えど、蓋を開けてみれば千差万別だった。
―――
どうやら全ての林檎話が語られたらしい。
「はじめに、この亜空間にこれだけの林檎好きが集まっていたことを誇りに思う」
朝彦の周りには人集りができている。参列者たちは机を端に寄せてつくったスペースに椅子だけ並べて座り、最後の演説に耳を傾けていた。私は断固として階段下の座席の立ち退きを拒否した。
「僕はみんなのように、大それた林檎物語を持ち合わせているわけではない。平均よりは多くの林檎を食べたくらいのものだ。しかし、それでいいのだ。ただ食べたいと思った瞬間に食べることができたなら、その林檎が美味しかったのなら、どんなに幸せだろうか」
とっくに限界を越えていたのだろう。朝彦は直立のまま後ろにぶっ倒れて、いびきをかき始めた。ひと呼吸おいて最高潮の熱気が伝播する。拍手喝采の中で、それぞれの林檎がそれぞれの記憶に焼きつく形で、今宵の惨状の幕は閉じた。酒のせいで留められない人が多いかもしれないが、それはそれでいいのだ。
「あの……朝彦さんに林檎買ってきたんすけど」
申し訳なさそうな声が私の背中にかかる。タケルだった。こんな夜中に林檎を求めて駆け回っていた姿を想像すると、傑作だった。
「ご覧の通り朝彦はもう限界だね。だいたいそれはさ、パシりの意味で言ったんじゃなくて自分のために買えって意味でしょ。お前が食べるといい」
相変わらず早とちりしたタケルは目をぱちくりさせて驚く。こいつは成るべくして林檎が買えなくなったのだ、と確信した。
「でも俺、朝彦さんにお礼がしたいっす」
「後日、家に届けてあげればいいんじゃないか? あいつは家に決して鍵をかけない。いつでも訪ねるといい。特別に住所を教えてあげよう」
私は初対面の人に慕われる朝彦の姿を想像しながら、負け札の裏に簡単な地図を書いてタケルに手渡した。
〇
背の低いショートボブの女の子が両手を拡げ、立ち塞がっている姿が瞼の裏に浮かぶ。とても大きな背中だった。あの真世さんに全力で立ち向かうなんて余程の勇気を持っている。まるで戦士だ。
「林檎愛好会会員として、これ以上のアルコールの摂取は絶対に阻止させていただきます!」
真世さんに飲まされ続けて朦朧とする意識の中で、確かに響いた言葉だった。僕の目の前にはペットボトルの水が置かれている。階段下のテーブルには女性が一人、突っ伏していた。真世さんはすでにいなかった。
「君、こんなところで寝ていると風邪引くよ」
彼女は寝ぼけ眼で僕に視線を向け、水をかけられたように顔を引き締める。
「あ、ありがとうございます! 林檎大先生にお気遣い頂けるなんて光栄です」
「大先生?」
「覚えてらっしゃらないんですか? 昨日、みんながそうやって――」
「すまないが、その話を聞かせてもらっていいかな?」
彼女は自らの林檎体験を交えつつ、昨晩の、真世さんが言うところの凄惨な大惨事を詳細に語ってくれた。まるで僕を崇めるように嬉々として喋っているのが、恥ずかしくてしかたなかった。酩酊した時の僕は、普段は抑圧されている自分なのかもしれない。肩肘張らずにもう少しだけ向き合ってみよう、と密かに思った。
「――林檎百物語、ね」
「そうです……だからタケルさんが行灯の代わりに物語の数だけ林檎を集めようって」
てっきり真世さんの仕業だと勘ぐっていたのに、あてが外れてしまった。大方の記憶が出揃った時、ウエイターのお姉さんがテーブルを片付けて温かい紅茶を出してくれた。
「これ、どうぞ。ちゃんとメニューに追加するそうですよ」
最後に真ん中に置かれたのは正真正銘、本物の林檎だった。
ひとつ摘んで齧れば、しゃくりと瑞々しい音がする。
林檎百物語 京町正巳 @masamimachi
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