世界移動のトリガー
その無慈悲な答えに、稲田は目を見開いた。
「なんだって……」
「シンプルな話だよ。君の意識をこの世界まで引っ張り、繋ぎとめているのは栗生という存在だ。ならば栗生が消えれば、君の意識は元の世界に戻るはずだ。君は電車の中で目覚め、栗生が轢かれて死んだ瞬間の続きを再び生きることになる」
稲田はまたもや混乱しそうになった。なんとか中瀬の話についていこうとする。
「またあの電車の中で目覚めるのか? あれから何日か経ってるけど、元の世界では時間が経過してないってことなのか?」
「私はそう考えている」
「根拠は?」
「栗生のスマホだ。あっちの世界が基となっているあのスマホが時を刻んでいないというのなら、我々から見れば今その世界は時間が止まっているということになる」
「まあ、一理あるけど……」
「時間の流れというのは、必ずしも均一ではないんだよ」
「……わかった、今はそれでいい」
稲田は軽く手を上げ、了承の意を示す。
「じゃあ、この世界でもう一度栗生が死んで、俺の意識が元の世界へ戻ったとしよう。今の俺の体、つまり、
「ほう。そこまで気にしてくれるとは、見上げた人間だな。君は」
中瀬は目を細め、口角をニッと上げた。
「この世界の稲田の意識は、今君の意識に体を乗っ取られて眠っている状態だ。君の意識が元の世界に戻れば目覚めるだろう」
今の自分の状況について何となく理解することができた。
だが、まだ話を終えるわけにはいかない。栗生を死なせて元の世界に戻るなんて話を認めることなどできない。
「……アンタの考えは大体分かった。でも、俺が元の世界へ戻る条件は本当に栗生の死なのか? 絶対そうだとは言えないだろう?」
「絶対にそうだとは言い切れない。だが、他にどんな可能性がある?」
「例えば、世界移動のきっかけ……トリガーは、栗生の死じゃなくて痴漢の犯人の死だったとか。それならこの世界に犯人も来ていて、そいつが死ねば戻れるなんて可能性もあるだろ」
「それはないな。その犯人とやらはこの世界には来ていない」
「どうして断言できる?」
「君たちはこの世界へ移動したとき、移動前と同じ地点にいた。一見瓜二つらしいこの世界でな。それも、二人とも同時刻にだ」
「確かにそうだったよ……」
「だがそのとき既に犯人の姿はなくなっていた。だからこの世界には来ていないと考えるのが自然だ。そして犯人自身が世界移動していないのなら、犯人の死が君たちの世界移動のトリガーである可能性は極めて低い。以上だ」
「じゃあ結局、犯人はどうなったんだ?」
「普通に死んだだけだろう。要は無関係ってことだ。まあ、もしかしたら尻触りたい放題の天国へ召されたかもしれないがな」
稲田は中瀬の軽薄な言葉を無視して、頭をフル回転させようとした。
結局こいつの論理は、俺たちがこの世界へ来たトリガーが栗生の死だから、戻るときのトリガーも栗生の死だということだけだ。そこを崩せれば……。
「……分かった。じゃあこういうのはどうだ? この世界へ移動したきっかけは栗生の死ではなく、俺が眠ったことだった。実は俺、眠る前に『男女は別々に生きた方がいい』って考えていたんだ」
「ほう、それは初耳だな。で、どうやって戻るんだ? もう一度居眠りでもしてみるか?」
「そんなんじゃ無理だろう。既に俺はこの世界で何度か眠っているし」
「だろうな」
「つまり栗生じゃなくて、俺の方が死ぬってことだよ。そしたら俺の意識が元の世界へ戻っていく。どうだ、これは結構良い線いってるんじゃないか?」
「眠ったら意識だけが別の世界へ移動し、その世界で死んだらまた意識だけが元の世界へ戻る? ふん、可能性ゼロとは言えないがな」
「じゃあ……!」
「だが君は
「……どういうことだ?」
「今の君が死ぬということは、
「それは栗生だって同じだろっ!」
「違うんだよ、稲田。例えば、死をトリガーとした世界移動の実験を行うとして、誰を死なせるかという問題になったとき、栗生とこの世界の稲田じゃ前提条件が全く異なるんだ」
「どうして……?」
「この世界の稲田だって、この世界で生まれて十九年間の人生を歩んできた。この国の戸籍だってある。ただ今は……先ほども言ったが、別の世界からやって来た君の意識に体を乗っ取られているだけの哀れな男だ」
「それは、分かっている……」
「だが栗生は違う。栗生は元の世界で一度死んだ。それなのに、霊体だか魂だかがこの世界に移動してきて、死ぬ前の姿となって現れた。この世界の栗生がちゃんと別に存在しているのにも拘わらずにだ。だから栗生の場合、
くそっ、反論できねぇ……! 本当に何者なんだ、こいつ!?
だが、稲田はまだ食い下がろうとした。諦めたら、栗生とも会えないままこの世界に居続けることになる。
「この世界の俺を死なせること、もし試せると言ったら?」
「無駄な抵抗はやめろ。君はそれほど馬鹿じゃない。自分でも分かっているんだろう? 状況から考えて、栗生の死がトリガーである可能性の方が遥かに高いということを」
図星だ。
自分の眠りがトリガーだったというのはかなり無理がある。自分でもそのことは薄々感づいている。
それから、気付いてしまった。
栗生を残して一人で帰るようなことはしないと彼女に誓ったのに、さっきから自分が帰る方法ばかり考えてしまっているということを。
でも、栗生が元の世界で死んでしまった以上、他に議論できることなどない。
彼女を元の世界に帰す方法など思いつかない。
稲田は今度こそ絶望した。
頭を抱え、苦悶に顔を歪めた。
そんな彼を、中瀬が哀れみの目で見て言った。
「以上が、今の君たちの状況だ」
「俺はどうしたらいいんだ……どうすれば栗生を助けられる……?」
「稲田、君はもう東京へ帰れ」
「はぁっ!?」
稲田は勢いよく顔を上げた。
「君がここにいることは栗生のためにならない。苦しませるだけだ」
「別に、ここにいるだけなら問題はないだろ!」
「栗生の気持ちを想像してみろ。愛する者に近づくと精神が暴走する。相手には異孤が発動しなかったことから、自分の方は愛されていないということが明白。更に、その愛する者を元の世界に帰すには自分が死ななければならない」
賀来が目を伏せて呟く。
「なんといいますか栗生さん……詰んでますね、ありとあらゆる意味で……」
「この日本では性愛というのはマイノリティで、私は恋愛感情というものを持ったことがないが、友情や親子愛に置き換えて考えてみれば、辛いのだということくらい分かる。以上を踏まえて問うが稲田。君にとって、栗生を助けるということはどういうことだ? 栗生にとっての『救い』とは一体何を指すんだ?」
稲田は呆然として床を見つめた。
俺に一体何ができる?
栗生を元の世界に帰すことはできない。
異孤があるから、そばにいてやることもできない。
「分からない……」
「だろうな。君はここまでよくやったと思う。だが、君はもう
「……俺が元の世界に帰る方法、栗生には話したのか?」
「話した」
「栗生は何て言ってた?」
消え入るような声で訊いた。
すると、中瀬はふうと息を漏らしてから、こう告げた。
「栗生は、君を元の世界に帰すことを望んでいる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます