第12話 悩みの夜に
「ほらライカ、ご挨拶して」
「あ、ああ」
それは、ライカがイルミナに拾われて半年ほど経過した頃だった。
「え、えと。ライカ・アムトロンです。よろしく」
イルミナに背中を支えられながらライカが挨拶したのは、亡命してきたばかりのミューナ。六歳という幼さに反して、彼女の美しさはすでにその片鱗を見せていた。
イルミナもクレアも美しさという点では風の神殿でも双肩を成すほどだが、ミューナのそれは種類が違う。イルミナたちが水彩画とすればミューナは油絵という具合に。
ライカが緊張気味なのは、見慣れない美に出会ったことへの困惑と畏怖が強い。
声を発せられたのはイルミナが背中を支えてくれたからに他ならない。
「ほら、挨拶されたらどうするんだっけ?」
クレアに言われてもまだ彼女の美脚の後ろに隠れてもじもじとしているばかりのミューナに、ライカはもう半分以上興味を失っていた。
もう、と嘆息してクレアはミューナを担ぎ上げてライカの前にすとん、と置く。
それでようやく、目線を逸らしながらではあったが、ひと声。
「み、ミューナ、です」
消え入りそうな声で告げてすぐにクレアの足の後ろに隠れてしまって、ライカは完全に興味を失い、不服そうにへの字口を作った。
「あ、こらもう。ごめんなさいねライカ」
困ったように謝られ、ライカは生返事で返してイルミナのローブの裾を引っ張りながら彼女を見上げる。
「あっちはあんなだし、あたしもむこうにいって本よんでても、いいか?」
「……仕方ないわね。ごめんなさいクレア。今日はこれで」
「そうね。こんな人見知りする子じゃないんだけど。しょうがないか」
イルミナも困り顔でクレアに告げ、クレアも承諾したためその日はこれでお開きとなった。
眩しいぐらいにきれいだけど、あたしとは縁の無さそうなヤツ。
六歳のライカはミューナをそう評し、そしてすぐ訪れた、学舎院に入るか入らないかのごたごたの中ですっかりこの日の事を忘れてしまっていた。
神殿の役割は主に三つ。
警察と病院と学校。
それぞれ維穏院、療護院、学舎院と呼ばれ、十六歳のライカたちが修練に励んでいるのはこの維穏院に配属されるための養成所のようなもの。
無論、卒業すれば誰でも配属されるわけではなく、種々の理由で約半数はこの道を諦めて別の道に進む。
そしてライカが六歳から通っていた学舎院は、読み書きや算術、歴史や科学などの一般教養だけでなく、この星に溢れる精霊との接し方と基礎的な精霊術も教えている。
ライカが一番興味を持ったのは精霊術の座学とそれに付随する拳術の授業。
イルミナの傍にいられない寂しさを埋めるように本を読み漁り、アーカイブの映像を片っ端から閲覧し、精霊たちと踊り、拳術の稽古に励んだ。
精霊たちと接していれば、イルミナのことを感じられるような気がして。
十六歳のライカはミューナを天才だと評しているが、六歳のライカへの大人達からの評価もまた天才のひと言だった。
入学一年にも満たない六歳の子供が、当たり前に精霊と歌を歌い、術を行使し、年長者を次々になぎ倒していったのだから。
「んだよ。もうおわりか」
生意気な態度が気に入らないと突っかかってきた上級生十五人を、十ほどの呼吸をする間に倒したこともある。当然イルミナをはじめとした大人たちにこっぴどく怒られたが、本人はまるで反省をせず、その強さから孤立していった。
結果ライカは誰とも友人関係を結ぶことなく卒業したが、そのことに後悔はない。
「けっきょくあたしは、いない方がみんなのためなんだ」
自分なんかが生まれたから、あのクソ血縁者たちは毎日ケンカして、自分を殴って蹴ってきたんだ。
特にイルミナに保護されてから学舎院にあがるまではそう思い込み、イルミナも眠ったあとひとり夜空を見つめていた。
けれど、イルミナの前からいなくなろうとはしなかった。
ここにいていい、と言ってくれたから。
孤立した天才。
だが十六のライカの耳にもこの評価は届いていない。
こんな小さいうちから高い評価を耳にしてはきっとよくない成長をしてしまう、と危惧したイルミナが戒厳令を引き、全力で阻止してきたからだ。
だがライカ自身からすれば、他者からの評価が欲しくて勉強していたわけではないのでイルミナの配慮は杞憂だったのだが。
「そういうことばっかり気を回すんだよな、あの人」
イルミナの家の自分の部屋で十六のライカはひとり呟く。宿題や課題に明け暮れた勉強机と、はじめて独りで眠るのが恐いと思ったベッドだけのこの部屋に戻ってきたのは修練生として風の神殿に入った半年ぶり。だというのに、机にもベッドにもホコリひとつ落ちていなかった。感謝しかない。
「あいつら、まだ神殿にいるのかな」
学舎院を卒業した者の進路は様々だ。
ライカたちのように修練生として、あるいはただの職員として神殿に入る者。
もっと高度な研究や学位の為に進学する者。
神殿とは関わらずに王位や家業を継ぐ者。
神殿とも精霊たちとも距離を置いて、ただの一般人として家に入る者。
思えば、学舎院で積極的に自分に接触してきたのはあの十五人だけだった。
あとは遠巻きに陰口をたたくばかりで、無論ライカは無視し続けていた。
そんな程度の低い者たちに関わっている時間は無いのだから。
自分は、一刻も早くあの人の役に立たなければいけないのだから。
血縁者に殺されかけ、居場所を失った自分に、唯一優しくしてくれたあの人のために。
「あ、そうか。なにを悩んでたんだ」
自分が何のために修練生になったのか。
やっと思い出せた。
ぱん、と両手で両頬を叩き、勢いよく立ち上がる。
オリヴィアにひっぱたかれた左頬が少しだけ強く痛んだ。
あいつなりに心配してくれたんだと、思うことにした。
そのまま部屋から駆け出し、足音も軽やかに階下のリビングへ向かい、クラシックを聴きながら編み物をしていたイルミナに声をかける。
「悪い。寮に戻る」
ぴく、と肩が震え、ややあって編み物を膝の上に置いてイルミナは振り返る。
「はい。いってらっしゃい」
ほんのり滲む寂しさがライカの胸をちくりと刺す。
「……いろいろ、ありがとう」
部屋を掃除してくれていること、こうやって逃げ込むように突然きても受け入れてくれていること。
なにより、自分を見放さないでいてくれること。
「いいのよ。わたしも忙しくて構えなかったから」
「でも、さ」
「だいじょうぶ。辛くなったらいつでも帰ってくればいいわ。……わたしもいつも居るわけじゃないけど、カギは渡してあるでしょ?」
「うん」
「じゃあだいじょうぶよ。気をつけてね」
「ありがとう。行ってくる」
はい、ともう一度の返事を待って、ライカは駆けだした。
迷いは、晴れた。
そう思いたいのに、この心の奥底に刺さった、淡く輝くトゲはなんだ。
よく判らないが、痛くも痒くも無いのでしばらくは放置しておけばいい。
いまは、修練だ。
「……おかえり」
寮のドアを開けてすぐに居たミューナの顔と声を認識した直後、心のトゲが鈍く痛んだ。
意味が分からないまま、ライカは言う。
「イヤな思いさせて、悪かった。もうあんなことはしないから」
「……なんで、なんでそんなこと言うの!」
怒鳴られた。
意味が分からない。
「ライカのばか!」
そのままリビングのドアを開け、壊れそうなほどの勢いで閉められ、ライカは音に身を竦ませる以外になにも出来なかった。
「ナンデソンナコトイウノ」
振り返らなくてもオリヴィアだと判る。
「らいかのばか」
「うるさい黙ってろ」
「やーよ。ばーか」
そう返してオリヴィアもリビングへ入る。
また逃げ出したくなったが、さすがにがまんした。
仕方なく自分のベッドへ行こうとし、腕を掴まれてリビングに引きずり込まれた。
「ここで逃げたら何も進展しないでしょうが」
耳元で囁かれている間にドアは閉められ、ライカはぷるぷると震えながらこちらを睨み付けるミューナの視線に晒されることになった。
「じゃあたしは寝るから。あんまりうるさくしないでよ」
え、とオリヴィアの腕を掴み返すよりも早く、ぬるりと猫のようなしなやかさで寝室に戻っていってしまった。
「あ、こら! ……ったく」
オリヴィアに毒づくのと、雷が落ちるのは同時だった。
「こっち!」
「はいっ!」
反射的に背筋を伸ばし、クレアに呼ばれたときでもやらないようないい返事をしてしまう。
おそるおそる振り返れば、普段食事を採るときに使う木製のダイニングテーブルに、嵐の塊のようなミューナが睨み付けている。
蛇に睨まれたカエルの心境だった。
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