10.こちら探索少女二名、探索開始です。

『いいかフーコ。靴紐はちゃんと結べよ』


 と、兄は幾度となくフーコに語った。


『もちろん、面倒くさい気持ちは分かる。紐を一旦緩めて締めなおす。たったそれだけのことだが、遅刻しそうなときとかは「たったそれだけ」が死ぬほど面倒くさい。緩めた状態のまま楽々履きたい気持ちはよく分かる。兄ちゃんよーく分かるぞ――だが結べ。そして踵は絶対踏むな』


 というわけで、紐を結ぶのが面倒くさいフーコはだいたいいつもサンダル履きで過ごすサンダル大好き少女になった。サンダルには踵もないから、うっかり踏み潰してしまうこともない。

 けれども、そんな妹の姿を嘆いた兄が誕生日に買ってくれたスニーカーを履くときには、踵も潰さないように大事に履いた。

 もちろん靴紐もちゃんと結んだ。

 そしてそれは習慣として残った。


「フーちゃんって、靴紐ちゃんと結ぶよね」


 と、いつだったかマリーは言った。

 でも、たぶん会ったばかりの頃だ。

 まだあんまり仲良くなかった頃だ。

 マリー以外の人にも、たまに言われる。そしてその後「偉いねえ」と褒められる。

 けれでも、マリーは褒めなかった。


「他のことはズボラな癖にさ」

「フーちゃんって呼ばないで」


 会話の内容を思い出し確信する。

 やっぱり、会ったばかりの頃だ。

 お互いにトゲトゲしていた頃だ。

 その時点ではまだ、フーコのことを「フーちゃん」と呼んでいいのは「お姉ちゃん」だけだった。格好よくて綺麗で、けれど脚は大根で、そして熊にさらわれた、昔は大嫌いだった世界で二番目に大切な人。

 フーコは、もう一度繰り返した。


「フーちゃんって呼ばないで」

「どうしてなのかな? フーちゃん?」

「私のことをフーちゃんって呼んでいいのはお姉ちゃんだけだから。だからフーちゃんって呼ばないで」

「そっちじゃないよ。靴紐の話だよ」


 その時点で、フーコのちっちゃな堪忍袋の緒は千切れかけていたが、でもフーコは我慢した。我慢して、マリーの言葉に答えた。


「……お兄ちゃんに言われて」


 どうして靴紐をちゃんと結ぶのか――これも、マリー以外の人に、ときどき言われることだった。そしてフーコのその言葉を聞くとそれだけで満足して、その後「偉いねえ」と褒めてくれる。

 やっぱり、マリーは褒めなかった。


「ふーん。それで?」

「……」


 フーコの堪忍袋の緒が切れる三秒前だった。

 二秒前になって。

 一秒前。

 そのぎりぎり寸前で、マリーが言ったのだ。


「それだけ? 続きはないの?」


 フーコは、目を丸くしてマリーを見た。

 いつも無表情なので勘違いされやすいが、フーコはめちゃくちゃ感情の起伏が激しく、しかも無表情の癖にその感情は外にだだ漏れである。

 怒っているときも、つまらなそうなときも――もちろん、喜んでいるときもそうだ。尻尾を振って寄ってくるときの犬みたいに分かりやすい。

 今回もそうだった。

 初見のマリーはその変化に面食らった。


「だ――だってだって、お兄さんに言われたことを全部全部ちゃんとやってるわけじゃないでしょ?」


 もちろん、その通りだ。

 フーコは、兄のことが大好きだ。

 けれども、何でもかんでも兄の言う通りにしているわけではなかったし、そもそも何でもかんでも兄の言う通りにできるほどフーコは器用ではなかった。

 そんなときには兄は、


『しょーがねーなもう』


 で、済ませてくれた。

 フーコの兄は色々と口やかましかったし、色々と面倒くさかったし、時々、本当に悪いことをしたときなんかは怒ったりもした。けれども、それと同じくらいたくさんのことを、その『しょうがねーなもう』で見逃してくれた。

 だからフーコは兄のことが大好きなのだ。


「靴ひも結ぶのは、面倒くさいけど……」


 だから、フーコが靴紐を結ぶのには「お兄ちゃんに言われて」以外の理由がある。その説明には、ちゃんと続きがあるのだ。そんなのは当然だ。

 でも。

 聞いてくれたのはマリーが二人目だった。


「……最後の「きゅっ」って感じが好き」


 奇妙な話だが、靴紐を結ぶのが面倒くさい癖に、フーコは靴紐を結び終えた瞬間の「きゅっ」という感じが何故か好きだった。

 フーコの中ではこうなっている。

 紐のある靴は、ただ履いただけだと履いたことにならないし、靴でもない。紐を「きゅっ」と結んだ瞬間に履いたことになって、ちゃんとした靴になる。

 だから紐のある靴は面倒くさい。

 だからフーコはサンダル履きだ。

 けれど、一番お洒落で素敵なのは紐を「きゅっ」と結んで履いた紐靴だ。だから踵も潰さない。だって一番お洒落で素敵な靴だから。そりゃあもちろん大事にする。そんなの当然だ。

 フーコの中ではそうなっている。

 そんなフーコのフーコ的な説明を、スイッチが入った状態のフーコから聞かされるマリーは、ぽかん、と口を開けていた。


「何はともあれ最後の「きゅっ」が大切。紐のある靴の場合は、それがないと駄目」

「……えっと、ごめん」


 フーコの無茶苦茶な説明を聞き終えたマリーは、ちょっと困惑した様子で言った。


「……その、何を言ってるのかほとんど全然わかんなかったんだけどさ」


 でも、とマリーは言った。


「その『きゅっ』ってのが好きな感じはちょっとわかるかも。私も、ちょっと好き」

「本当?」

「銃の薬室に弾薬送り込んだときと同じような感じがするのかな――その瞬間に、別のものに変わる感じ。その瞬間に、靴だったものが私の足の一部になる感じ」

「本当に本当?」

「う、うん。ほんと」

「仲間」

「なかま?」

「それなら、マリーも私の仲間」

「あ、名前」

「……?」

「私の名前だよ。初めて呼んでくれたね」

「だって嫌いな奴の名前なんて呼びたくない。意地悪してくる子は嫌い」

「うん、そうだよね……」

「でも、たった今、マリーのことちょっと好きになったから名前で呼んであげる」

「……いじわるしてごめんね」


 ぽつん、と。

 マリーは実に恥ずかしげな顔で言った

 ふうむ、と。

 フーコは実に偉そうな顔をして宣った。


「――しょーがねーなもう」


 完全な台詞棒読みでフーコは言った。

 思わずマリーは吹き出した。


「何それ」

「全てを許す魔法の言葉」

「何それ! 意味わかんない!」


 何それ、とマリーはしばらくお腹を抑えて笑って、それからフーコに言った。


「ありがと。『フーコちゃん』」

「『フーちゃん』って呼んで」

「さっき言ってたことと逆だよ!?」

「私をその名前で呼んでいい人間は、マリーで二人目。お兄ちゃんにすら許してない資格。すごい栄誉なこと。誇っていい」

「すごい上から目線だね!?」

「いいから呼ぶ」


 と、フーコは詰め寄った。

 こう真っ正面から来られるとマリーとしてはちょっと困る。さっき意地悪で言っていたときとは全然意味が違ってくる。ちょっとどころか物凄く恥ずかしくなってきて、マリーは顔を真っ赤にして、消え入りそうな声で言った。


「ふ、フーちゃん……」


      □□□


「――フーちゃん?」


 と、マリーが呼びかけたそのとき、フーコは例のいかにも頑丈で無骨な靴を履いている真っ最中だった。

 マリーはフーコの肩に手を掛け、ひょい、と顔を出してその手元を覗き込む。

 フーコの手が靴紐を外していく。

 その手付きは、先程、ファンシーなコンバットブーツを鮮やかな手つきで履いてみせたマリーとは比べ物にならないほどにたどたどしい。

 ただの蹴り一つで「熊」の姿勢を完全に崩せる癖に、どうしてこういうことになると不器用なんだろう、とマリーには不思議だ。

 靴紐が外された靴にフーコは足を入れる。

 踵を潰さないようにフーコは気を付ける。

 スニーカーと違い、簡単に踵が潰れるような靴ではないのだが、でも気を付ける。

 その様子をマリーは見ている。

 足首細いなあ、とマリーは思う。

 別に深い意味はない。

 何でこんなに細いんだろう、と思う。

 もう一度言うが、別に深い意味はない。

 フーコの足が靴に入った。

 ちなみに。

 当の本人であるフーコはというと、もちろん今でも紐を結ぶのは面倒くさい。紐靴もやっぱり面倒くさい。しかもこの靴は、前に履いていたスニーカーよりもたくさん靴紐を通して結ばないといけないのでもっと面倒くさい。

 でも「サンダルでダンジョン行っちゃダメ?」と言ったらマリーに「絶対ダメ。危ないから。いや、フーちゃんは危なくないかもだけど、見てる私が怖いからダメ」と言われたので、サンダルはNGなのだった。

 だから、面倒だけど外した紐を通していく。

 たどたどしい手つきで、でようやく両方の靴に紐を通し終える。それから二、三回結び方を間違えてから、やっと正しい結び方が出来て、そして最後に、


「――きゅっ」


 と、マリーが口で言うのと同時に、靴紐が結ばれる。もう片方の靴も同様に。

 そしてもちろん。

 今でもフーコはこう思っている。

 一番お洒落で素敵なのは紐を「きゅっ」と結んで履いた紐靴だ。

 さらに今現在は、こうも思っている。

 紐を通す数が多いほど、お洒落で素敵。

 ふむ、と。

 フーコは履いた靴を見下ろし、呟く。


「超可愛い」

「可愛くはないと思うけど……」

「絶対可愛い」


 マリーの控え目な指摘を、フーコはフーコ的謎理論を根拠に真正面から弾き飛ばし、満足げに一つ頷く。マリーも追及は無駄だと知っているので諦めた。


「準備おっけー?」

「おーけー」

「じゃ、行こっか」


 フーコの肩から手を放し、今日もふわふわひらひらした、めちゃくちゃ可愛い服を揺らして、マリーが立ち上がる。


「ん」


 と、探索者用の外套を翻しながら、フーコも立ち上がって、マリーに続く。


 ちなみに。


『いいかフーコ。女の子があんまり脚とか出しちゃ駄目だぞ』


 と、兄は幾度となくフーコに語った。


『もちろん、そうしたい気持ちは分か――るかどうかはともかく、脚を出した女の子がめっちゃ可愛いってことは俺にも分かる。フーコの脚がめっちゃ綺麗だってこともよく分かってる。たぶん最高だろうとも思う。兄ちゃんよーく分かるぞ――でも出すな。そしてぱんつは見せるな。絶対に見せるな! 見えそうで見えない方が兄ちゃん好きだからな!』


 フーコは、兄のことが大好きだ。

 今でも大好きだ。

 けれども、何でもかんでも兄の言う通りにできるほどフーコは器用ではなかったし、そもそも、何でもかんでも言う通りにしているわけでもなかった。

 それに、見えそうで見えない云々はちょっとよくわからない。兄の好みはちょっと複雑だ。ぱんつを見られるのは普通に恥ずかしいとは思う。


 というわけで、フーコは今日もがっつり脚を出した格好をしている。履いているショートパンツは今日もだいぶ際どいが、ぱんつは見えないので、フーコ的には恥ずかしくはない。見えそうで見えないわけではないので、兄的にはアウトなのかもしれない。兄の好みはやはり複雑だ。


 何にせよ。


 もしも兄が見たら口喧しく言うだろう。

 足元を冷やすな、とか。

 転んだら危ない、とか。

 でもたぶん、最終的に兄は言うだろう。


『しょーがねーなもう』


 絶対そう言ってくれる。

 ついでに「可愛い?」とフーコが聞いたら、兄のことだし、格好を付けてちょっとそっぽを向きながら、でもたぶんきっとこう言ってくれるだろう。


『……超可愛い』


 言ってもらいたいな、とフーコは思う。


      □□□


 アリソンはちょっと殺意を覚えている。

 とんでもなく危機的な状況なのだった。

 現在進行形でめっちゃやばいのである。


 だというのに、アリソンが緊張した面持ちでテントの中を覗き込んだとき、ディーンはまだぐーすかと寝ていた。幸せそうとまでは言わないが、少なくとも危機感など一つも感じていないであろう顔で眠っていた。


 蹴り起こしてやろうか。


 とアリソンは思った。まあ当然である。でもさすがに自制した。余計なことはしない方が身のためだった。


「ディーン。朝っすよ。起きるっすよ」


 これでもし「あと三時間だけ……」とかふざけたことを抜かすようだったら本気で蹴り起こされていただろう。

 だが、ディーンは賢明なことに文句を言わずに目を覚ました。寝起きのぼんやりした目でアリソンを見つめると、


「ああ、おはよう」


 と、のほほんとした顔で挨拶した。

 ディーンとしては、いつもの朝である。

 昨夜のフーコの話を思い返しながら、後でアリソンにちょっと聞いてみようかな、なんてことを考えている。


「……今日はあの二人組をダンジョンの『入口』まで送るんすから、さっさと準備するっすよ」


 アリソンとしては、危機的な朝である。

 目の前の間抜けを張り倒してやりたくなったが、やはり余計なことをはするべきではなかったし、そもそもディーンのせいというわけでもない。落ち着け落ち着け焦っているのは自分の方っすよ、とアリソンは言い聞かせる。

 そんな内心の焦りを隠しつつ、アリソンはディーンに告げる。


「もう出発っすよ。みんな待ってるんす」

「あー、はいはい」


 と、適当極まりない返事をして支度を始めるディーンを見ながら、アリソンは今現在自分たちが危機的状況にあることをどうにかして「こっそり」この男に伝えられないものか、と思案する。


 とりあえず、ウィンクしてみた。

 ディーンは気づきもしなかった。


 駄目だこいつ、とアリソンは諦めた。

 仮に万が一奇跡が起こってこちらの意図が伝わったとしても、その瞬間「えっ!?」とか何とか露骨に反応する姿が目に浮かぶ。その時点でアウトだ。

 ややあって、アリソンからしてみると適当としか思えない準備を終えて、ディーンがテントの外へと出てくる。

 そして、そこでようやくディーンが気づく。テントの外で待っていたのが、アリソンだけではないことに。

 例の二人だ。

 皮肉屋とデブのコンビ。


 ディーンは、あー、と思った。

 本当に待ってたのか悪いことしたなあ、なんてのほほんとしたことを思う。


 アリソンとしては気が気でない。

 二人が肩に掛けている銃と、皮肉屋の方が防護服のポケットに突っ込んでいる片手をアリソンは意識する。そして、それらを意識していることを、もちろん二人は承知しているのだろう。


 そんな、アリソンとその二人の間に流れる密かな緊張感にまったく気づかないディーンは、


「あ、ども。今日はよろしく」


 などと気楽に挨拶をしている。

 暢気な男め、とアリソンは思った。

 暢気な男だ、と二人も思っている。

 暢気な男が、アリソンとへ尋ねた。


「今日は僕らとこの二人で、あの娘たちを入口まで護衛するの?」

「や、あともう一人――」

「――俺も同行する。よろしく頼む」


 と言って現れたのは、例の「いかにも」な雰囲気の大柄な男である。


 アリソンは彼の姿を見て、ますます神経を張り詰める。できればあんたにゃ同行してもらいたくないんすけどね、と心の中で毒づく。


 ディーンは彼の姿を見て、あーあの「いかにも」な人ね、と思った。それから名前なんだっけ、とそれなりの期間一緒に仕事をしてきた部下に対して恐ろしいことを思う。この男にリーダーとしての資質は〇だ。


「どうもどうもよろしく」


 と、ディーンはその「いかにも」な人にとりあえず挨拶をする。「誠意」という言葉の意味を考えたくなる行動である。


 本当に暢気な男だな、と「いかにも」な男は内心呆れているが、実態はそれどころじゃない。たぶん知ったら絶句する。


 もちろんディーンは、残る二人についてもやっぱり覚えていないので、あの「皮肉屋っぽい」人とか、あの「太った」人とかそんな風な判別をしている。リーダー以前に人としての問題という気もする。

 ただし、比較的女性の名前については覚える努力をするようにしていた。フーコやマリーの名前を覚えていられたのはそのおかげである。


「じゃあ、ここに残るのは、えっと、何だっけ、あの真面目そうな彼女……」


 ただし、それでも割と忘れる。

 あの「真面目そうな」女性として認識している相手の名前が出てこないディーンを見かねて、アリソンが横から彼女の名前を出す。


「そう、その彼女だ――あれ? 彼女だけで大丈夫かな? 一人で危なくない?」

「はい?」


 と「いかにも」な男が奇妙なことを聞いた、というように眉を潜める。


「え?」


 とディーンは間の抜けた声を上げる。


「え」


 と「いかにも」な男も間の抜けた声を出す。 

 大の男二人が硬直状態に陥った。

 アリソンはまた助け舟を出すしかなかった。


「……あの、ディーン。まだいるっすよ、もう一人……ほら、気楽そうな男の子」

「あれ?」


 ディーンは忘れていた。

 もう完全に忘れていた。

 忘却の遥か彼方だった。


「いたっけ?」

「……」


 しばしの沈黙がその場に流れる中、毎度のことながら、アリソンは思う。

 思い出す。

 初めて一緒に仕事をしたとき妙にウマがあって、何かと二人一緒に組んで仕事をするようになって、一年程経ったある日のことである。

 ディーンが言った。


『ごめん。名前なんだっけ』


 信じられないだろうが本当に言われた。

 どうやら、それまで「~っす」の女性、として識別されていたらしい。

 これ本気で怒っていいっすよね、とそのときのアリソンは思った。

 だからアリソンは本気で怒った。

 そんなわけで、ディーンにとってアリソンはちゃんとアリソンだし、以降、ディーンは多少は名前を覚える努力をするようになった。


 結果はご覧のあり様である。


「ディーン。ちょっと確認していいすか?」

「何?」

「私の名前は?」

「アリソン」


 アリソンは心の底からほっとした。


      □□□


「ここが『入り口』」


 と、周囲の警戒を部下である三人に任せて、ディーンはフーコとマリーに言う。

 風が強い。

 ダンジョンにおける「入口」といってもいろいろあるが、今回の場合は、探索者がダンジョンの探索箇所へと入るための進入路を指す。

 今現在ディーンたちが拠点の設置を進めているのは、このダンジョンの表層部だ。

 表層部とはいえ、魔術装置や設備はその辺にごろごろ転がっているし、何ならその辺に生えている雑草一つ取っても異世界産の固有種として貴重だったりする――のだが、今回、フーコとマリーの二人に与えられている仕事は、より深部を探索するための経路探索だ。

 もし「入口」がなければ、最悪、こじ開けて押し入る必要だってあるのだが、今回に限ってはその必要はなかった。

 設営中の拠点から少し歩いたところに、すでに「入口」は開いていた。

 ぽっかりと。


「……穴だ」

「穴だねー」


 そう、穴だ。

 ただし、とてつもなく巨大な。

 その穴はダンジョンを表層部から底までをぶち抜いていて、眼下には流れ去っていく雲の海の切れ目に、遥か遠い地上の景色が見えている。

 高所恐怖症の人間に対する配慮が欠けていることに目を瞑れば、空を飛ぶ建造物として「あー、風情を感じさせる斬新な設計ですね」と言えなくもない。

 ただしそれも、最初からこのダンジョンがそう造られていたのであれば、の話だ。


 見れば分かってしまう。


 これは「何か」による破壊の痕跡だ。

 このダンジョンに、おそらくは上から撃ち込まれ、そのままダンジョンの表層部から底までを貫通して消し飛ばした「何か」の。

 その爪痕として残った、ただの穴だ。


 そんなのは見れば分かる。


 問題は、こんなことをしでかせる「何か」が存在する、という事実を認めることを、人間の正気が拒否するということだ。

 小さな町なら数発で消し飛ばす威力を持つ大型の「竜」のブレスですら、こんなことは不可能だ。

 こんなものは、お伽噺の中に出てくる「天使竜」とか「禍ツ星」とか、そういう空想の中の存在が行使するべき力であって、現実に存在していい力ではない。

 この穴を見る度に、ディーンはそう思う。


「あんまり端の方には、崩れやすくなってる箇所もあるから気を付けるっすよ。そうなると地上まで真っ逆さまっす」


 わー、とか、きゃー、とか言って穴を覗き込んで騒いでいるフーコとマリーをアリソンが注意する。そうなった場合はディーンが救出に向かうことになるだろうが、上手くキャッチできる保証は特にない。


「上に残ってる設備から内部に入るルートは魔術的な機構で全部ふさがってるんすけど、この穴の中からなら、内部に入りたい放題っす」

「なるほど。楽でいいねー」


 と、マリーが頷くが、そのためにはこのほとんど断崖絶壁な穴を下っていく必要があるわけで、話はそう簡単ではない。


「ロープを使うなら崩れない場所に取り付けるよう気を付けるっす。例えばあの辺りとか地盤がしっかりしてて――」


 と、アリソンがロープの設置個所の説明を始めようとした、そのときだった。


「よいしょ」


 と、マリーがフーコの背中に飛び乗った。


「ほい」


 と、フーコがマリーを背中で支える。


 そう、ついにこの瞬間がやってきたのだ。


 おんぶである。


 皆さんご存知、フーコとマリーの基本スタイルにして完成系たる、探索モードのおんぶである。


 記念すべきこのダンジョンでの初おんぶだ。

 感慨深い。

 というわけで、この場の全員にとってそれは初見であり、不意打ちであり、完全に二度見せざるを得ず、というかちょっと意味が分からなかった。


「え」


 その光景に対して比較的シンプルな反応をしたのはディーンである。単なる間の抜けた声と単なる驚いた顔。この程度の反応で済んだのは、何だかかんだ言っても、さすがはスキル持ちである。常人を超えている人間として、いろんな不条理に慣れているが故の反応である。


「……」


 説明の途中だったアリソンは、ぱくぱく、と口を開け閉めするだけで、声を上げることすらできなかった。

 ディーンで多少慣れているとはいえ、それでも割と常人であるため、それに比例する形で受けたダメージはでかかった。高速で飛来した『おんぶ? え、なんでおんぶなんすか?』という当然の疑問にぐいと弾き出される形で、今現在自分が置かれている危機的状況がほんの一瞬頭から「すっぽーんっ!」と景気良く吹っ飛びかけ、慌てて理性が「ちょっとたいむ! たいむっす!」とそれを引っ張り戻した。


「……」

「……」

「……」


 警戒に当たっていた三人の男も例外ではなかった。その瞬間あらゆる脅威に対して彼らは無防備になった。「熊」のような現実的な脅威とはまた違う、何かこう、常識とかそういうものに対する得体の知れない別の脅威に彼らは気を取られていた。

 その一瞬、極めて高い練度を持った彼らはただの木偶の坊でしかなかった。「いかにも」な男はその一瞬の中ではその辺にいるただのおっさんだったし、「皮肉屋」の男はその一瞬の中ではただの貧相に痩せた男だったし、「戦うデブ」はその一瞬の中ではただのデブだった。


「……はふえ?」


 と、間の抜けきった女性の声も上がった。

 が、奇妙なことにその声がしたその場所には誰もいないし何もない。声自体が小さかったこともあり、誰にも気づかれないまま、その声は穴の中から吹き付ける風の中に消えていった。


「何だありゃ」


 と、本来ならば拠点を守るという重要な仕事を任されているはずの少年は、拠点をほっぽり出して何故か木登りの真っ最中だった。片手で枝に捕まって身体を固定し、片手で望遠鏡を覗き込んで、おんぶしている二人の姿を確認した彼は、思わずそう呟き――それから爆笑した。


「やっべ、すげー可愛い!」


 大物なのか、ただの馬鹿なのか。

 ちょっと判断に困るところである。

 ツボに入ったのか、彼はそのままげらげら笑いながら木登りを再開した。そのまま、あっという間に一番上まで登り切ったところで――背中に背負っていた銃を構える。


 そうして、おんぶ初見者たちに対する衝撃の一瞬が終わったところで、ようやく次の一瞬がやってきて、他の全員が絶句する中、ディーンがこれまたシンプルな疑問を放った。


「何それ?」


 返事はなかった。

 そのときにはもう、フーコはマリーを背中に乗せて発進していた。

 巨大な穴の淵へ真っすぐに。

 しっかりと紐を結んだ靴で。

 思い切り良く地面を蹴って。

 飛び込んだ。


 「うわっ」とディーンはいまいち危機感の足りない声を上げた。アリソンの頭からは今度こそ諸々のことが吹っ飛んで「何やってるんすかーっ!?」とただひたすらに絶叫した。三人の男は木偶の坊からまだ戻れないままだ。誰もいない何もないはずの空間から「うええええええっ!?」と悲鳴が上がる。木の上で銃を構えスコープを覗き込む少年は、ようやく笑うのを止め、自身の身体と銃を枝の上で固定する。それは傍から見ると随分と奇妙な姿勢だったが、銃身は微塵もぶれることなく完璧に固定されている。


 そして。


 そんなあれこれは知ったこっちゃないといわんばかりに、ついでに重力なんてもんも知ったこっちゃないと言わんばかりに――何もかもを振り切って、マリーを乗せたフーコが宙を行く。


 マリーが歓声と共に笑っている。

 フーコは無表情だが楽しそうだ。


 そして、二人のダンジョン探索が始まる。

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