UFOは消えていった

伴美砂都

UFOは消えていった

 ふたつ嫌いなものがある。24時間テレビと、オリンピック。今年は、どちらもない夏だ。だからといって、嬉しくはない。

 ノストラダムスの預言が外れた翌年に生まれたわたしは、七月で二十歳になった。父と母は、滅びが怖くてセックスをしたわけではないだろう。滅びないと確信していたわけでも、ないと思うけど。

 子どものころは、もっとたくさんのものを嫌いだった。学校の教室、炎天下の運動場、音楽の授業、通学路のどぶの臭い、制服のスカート。祖父がたくさん飲んだビールの缶の、強いお酒の臭い。嫌いなものは、嫌いじゃなくなったわけではなくて、大人になって、うまく逃げただけ。見ざるをえないものだけ、ずっと嫌いだ。



 日が暮れても外はまだ暑い。公園を突っ切って歩く。うっそうと樹々の茂る公園、だれもいない。春先までは、青いテントがそこここにあり、住んでいる人がいた。今はもう、いない。


 「こより園」は住宅街の一角の古びた小さな建物だ。一階は玄関と職員の執務室、二階と三階が作業場。今はどの部屋も暗い。門は閉まっている。横の通用口を開けて通る。錆びた金属の扉が、キキと音を立てた。


 「おーい、こっち」


 ひそめた声。外階段の下、暗闇でいくつかの影が動いた。マッさんと、島田、みゆちゃん、福本さん。マッさんがキャッと楽し気な声を上げ、島田が可笑しいほど真面目な声音で、シーッとそれを宥めた。



 屋上でUFOを呼ぶと言ったのは、みゆちゃんだった。給食のとき。利用者の介助をしながら一緒に食べるから、昼休みというものは無いに等しい。厨房に食器を下げに行ったとき、一瞬だけ隣に並んだ彼女の肩までの髪は、内側がきれいな赤。


 「今日の夜なんですけど、千夏さん、来てくれませんか」


 わたしはただのアルバイトでしかも年下なのに、みゆちゃんはわたしのことを、仕事では先輩だからといって頑なに敬語で話す。そのくせ、同期入職の島田のことは年上なのにバッチリ呼び捨て。まあ、そこはわたしも人のことは言えないんだけど。島田には不思議なとっつきやすさがあって、これまでだれにも口をきかなかった利用者の木野さんも、島田にだけは話す。


 「五人そろえば呼べるかもしれないんです」


 あまりに真剣な顔で言うから、つい頷いてしまった。



 屋上はレクリエーションや工芸でときどき使う。鍵は島田が持っていた。ぞろぞろと階段を上がる。福本さんは片手にCDラジカセを提げている。銀色の、古いコンポ。

 マッさんと福本さんは、島田の働くケアホームきずなで暮らしている。きずなは二世帯住宅型の民家で、一階が女性部屋、二階が男性部屋。消灯時間を過ぎれば行き来はないとはいえ、夜間の集会は今は条例で禁止されているし、こっそり抜け出してきたのだろう。


 「ねえ、島田」

 「うん?」

 「絶対、無事で帰ろうよ、ね、みんな、」

 「……」


 どうしてそう言ってしまったのか、わからない。みんな、という言葉も、わたしは嫌いだったのに。

 緊急事態宣言が一部緩和されてからも、自警団と称した人たちが夜間に出歩く人を取り締まる。政府ではなく、民間の、セイギの人たち。

 きずなの二階の定員は、本当は三人だ。もうひとりの利用者だった直江さんが夜、サイレン音にパニックになって外に飛び出したところを自警団に殴られて亡くなったのは先月のことで、それからマッさんは帰りたいと何度も泣く。マッさんの故郷は宇宙だ。遠い宇宙からやって来たのだという。みゆちゃんがUFOを呼びたいと思ったのは、だから、マッさんのためだったのだろう。

 島田は返事をしなかった。戦うつもりなのだろうと思った。もし、セイギの人たちに見つかったら、自分がすべてを負うつもりでいるのだろうと思った。ねえ島田、ともう一度言うと目を伏せて、うん、な、と小さな声で言った。Tシャツの背に汗が滲む。



 四月、みゆちゃんとふたりで布マスクを作った。日曜日、執務室の片隅。わたしもみゆちゃんも裁縫は下手で、ばかみたいな大きさのや、ありえない形のマスクがいくつもできた。わたしたちは笑った。


 顔に布が当たる感覚が怖くてマスクを着けられない利用者は一定数いた。みゆちゃんと作った布マスクは不織布に比べれば少し柔らかで、それで大丈夫になる人もいれば、そうでない人もいた。

 こより園の利用者は、皆、ヘルパーさんと一緒に電車で通う。六月ごろまでは、電車の中でマスクをしていないといって怒鳴られたり、駅員に苦情を入れる人がいてトラブルになったりすることが何度もあった。


 「おいマスクは!って、怒鳴るのよ、人殺し!って、ふつうの、シュッとしたサラリーマンの人よ……怖くて、」


 年配のヘルパーさんが、泣いていた。


 「ふつうの人には、わからないのねえ、こわくてマスクができない人のことなんて、」


 ふつうの人っていったいだれだろう。いちばんトラブルの多かった環状線を使う利用者のかばんには、施設長が一枚一枚、布にマジックペンで書いたのを貼った。


〈わたしは障がいのためマスクをすることができません。感染はしていません。どうか見守ってください。どうかお願いします。〉


 ふつうの人、たちの大部分は、そのとおり遠巻きに見るだけになり、あと一部分の人によって、その布は何度か破られた。同じ文面を書き直すとき施設長も泣いた。ふたつめの「どうか」の、「う」が滲んだ。



 みゆちゃんが屋上のコンクリートに、チョークで五芒星を描いた。その中央に、福本さんが厳かな様子でラジカセをそっと、置き、かちりとスイッチを入れた。

 少しすると、もう聴き慣れ過ぎたイントロが流れ、わたしは顔を顰めた。しゃがんでいたマッさんがスッと立ち上がり、大きな手を、天に伸ばし、そして、歌った。


 「はぶ、りーいいか、はながさ、いーたあ、ら、」


 オリンピックの開催が決まってから、嫌というほど聴いた曲。この歌のことを、わたしはべつにどうも思わなかった。このひとにしては明るい歌だなあ、と思ったぐらい。けれど毎日、作業室に流れるこの曲、それに合わせて踊るレクリエーションの時間、とってつけたように言われる、オリンピックのあとの、「・パラリンピック」。それに出ないひとたち。


 「っていうか、この歌でUFO、呼ぶの?」


 みゆちゃんは頷き、五芒星のそれぞれの頂点にひとりずつ立って空を仰ぎ祈るのだと言った。福本さんが中心の、コンポのところにあぐらをかいてしまったので、ひとつの頂点には、みゆちゃんが脱いだ帽子を置いた。マッさんが島田と手を繋いでいたがったので、もうひとつの頂点には、島田がスニーカーを脱いで、置いた。島田の手をブンブン振って、マッさんは歌う。


「はーれた、そらにた、ねーをまこ、はぶ、りーいいいか」


 福本さんはコンポのすぐ隣に、番人のようにしずかな顔で座っている。マッさん、はぶじゃなくて、ぱぷだよ、と間奏のタイミングで、島田がそっと言った。


 「ウエマツの死刑ってもう執行されたんでしたっけ」

 「え、」


 いつの間にかみゆちゃんがすぐ隣にいた。さっきまで彼女がいた場所にはサンダルが脱いで置かれていて、五芒星は、だからまだある。


 「わかんない、……コロナ騒ぎとか、あったから、まだじゃない」

 「……あのひとが、死ぬべきかどうかって、思うんです、私」

 「……」

 「もちろん、死んでほしいって、思、いますけど、……、死んでいい人か、どうかって、ひとが、シャカイが、決めていいんだったら、みんな、……みんな、殺されちゃいますよね、いま、とか、これから、」

 「……、」


 あの、施設での事件が起きたとき、わたしはまだここに居なかった。そのとき利用者の親御さんの中から、施設の名称を変えたいという意見があったのだという。「こより」という名が、事件の起きた施設に少し似ていると。それが似てるっていったらなんだって似てるわよねえ、と言っていたのはきずなの一階担当のミチルさんで、でも、と付け加えた。


 「次はうちの子かもしれないって、思ってしまうのよね、みんな、ずっと」



 施設長が捕まったのは先週のことだ。こより園の前を通りながら、こんなやつらに税金つかってたすけてさあ、と言ったのは、施設長と同じぐらいの歳のおじさんたちだった。あっと思う間もなく施設長は扉の横にずっと置いてあった、木の板にピンク色のペンキでこより園と書かれた看板、それを持って道路へ踊り出て行った。こよりの、こに、血が散った。これから、ここはどうなるだろうか。


 「はれ、るーううや、ゆめをえ、がいたな、らああ、」


 島田も歌っていた。シュッとサーチライトが夜空を走り、背中がひやっとした。見つかったかもしれない、と思った。いつも見ないふりばかりするくせに、いつも居ないことにばかりするくせに、こんなときにだけ、見つけようとしやがって。コンポのバッテリーが切れたのか、音が止まった。静寂。


 「あ、」


 最初は流れ星だと思った。川向こうの工場が止まってから、この街の夜は、より暗い。黒い、夜空に、ひゅっと横切った小さな光は、しかし消えずに、ぱしぱしと何度か瞬き、そして空を、また上の方まで駆け上るように走った。

 ピイイイイン、となにか音がした。サイレンだと思った。自警団はよくそういう音を鳴らす。こより園の人たちが、こわがるサイレン。もし、こわがると知っていても、鳴らされるであろう、セイギのサイレン。しかしマッさんも福本さんも、落ち着いた様子でじっと空を、飛ぶ光を、見ている。だから、ちがうとわかった。はぶ、りーか、とちいさな声で歌ったら、涙が出た。


 それはきっとUFOだった。UFOは近づいたり、遠ざかったりして、そして、飛び去った。消えていった。はっとしてマッさんのほうを見ると、マッさんは、帰って行かず、島田に手をぎゅっと握られて、そこに居た。

 サーチライトはもう来なかった。UFOの行ってしまった空、2020年の夏の、暗い、くらい空を、わたしたちはずいぶん長い間、黙って見つめていた。

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