第2幕

 昭和三年、釣瓶落としの秋の日の暮れつ方である。

 退役武官、元海軍大将西原永護男爵の邸宅の一室。

 室は舞台下手寄りに配置され、正面奥には扉がついている。

 上手には室から続くテラスがあり、数段の階段によって、芝生の敷かれた庭と繋がっている。庭はフランス式庭園を模してはいるが、広さは及ばず、そればかりか庭をめぐる樹木の中には松や杉、紅葉、公孫樹などが茂り、林に宿る末期の蜩の声が響き、初秋の日本を現出させている。

 噴泉と、噴泉を中心として幾何学的に造られた植栽だけが、何とか庭園としての体裁を保っている。それでも、噴泉は枯渇したままであり、最低限、塵や芥の清掃のみ行われているといった心持ち。

 下手は、窓のある壁に区切られているが、外には籬で仕切られた、人が一人やっと通れる程度の幅の小径がある。昼間陽当たりのいい室の窓からは、今の時刻、斜陽が差し込み、室内を斜に翳らせている。全体的にどこか沈鬱な雰囲気が瀰漫しており、これは、前年に出来した金融恐慌の煽りを受けた一家の財政の圧迫によるものであることを暗示している。

 室内には洋式の寝床があるが、もぬけの殻であり、蒲団などのくすみ様から、それが病床であることが分かる。病床の主、西原永護は不在で、面倒をみる子息夫妻西原永司、瑠璃子が何やら話し合っている。両者の服装は和装。


登場人物

◆西原永護男爵 <元海軍大将> (70歳)

◆西原永司 <西原永護男爵の子息・東京帝国大学国文科教授> (39歳)

◆西原瑠璃子 <永司の妻> (34歳)

◆西原倫子 <永司・瑠璃子の娘> (16歳)

◆黒田玲子 <西原男爵家の同居人> (37歳)

◆黒田頼宗 <玲子の息子・私学学生> (20歳)

◆青木俊昭 <倫子の許婚・海軍大尉> (25歳)


永司 〈あれ、親父はどこへ行っているのかな?あの体じゃ、なかなか動くこともできないと思うが、大丈夫かね?〉

瑠璃子 〈ああ、お義父様なら、倫子が補助しながら、ちょっとお庭を散策なさっておりますわ。何でも、新調致しました米国舶来の椅子のお陰で、外にも出れるようになりまして、この頃では比較的調子も良好なようでございます〉

永司 〈それはいい。床に延々臥しているのも健康に悪いだろうから〉

瑠璃子 〈それより、あなた、お義父様が御不在の今、あなたに申し上げて置きたいことがありますの〉

永司 〈ん、何だ、出し抜けに。普段からの僕と君の間では、今さら改まった態度で談ずるようなこともないように思えるがねえ〉

瑠璃子 〈ええ、それはもちろん。これも、隠すような事柄ではありませんのよ〉

永司 〈よかった。そうなら心の準備も必要ないというものだ。何だい、言ってごらんなさい〉

瑠璃子 〈それは何かと申しますと・・・・玲子さんのことに関してちょっと。もう、玲子さんには、ほとほと困り果ててしまいますの。あなたからも何とかおっしゃって下さいまし。御学問なさるのも貴いことでよろしいですが、今日のように終日書斎に篭もっていては、いよいよ玲子さんの増長も甚だしくなりましょう。お家を監督なさるのも大事かと思います〉

永司 〈玲子さんか、これはやや難題であったぞ・・・〉

瑠璃子 〈マァ、余りお気を張らずに。これというのも、玲子さんの生活態度にちょっと或る問題があるように思えてなりませんの・・・〉

永司 〈そうか、それは本当に困ったものだ。かと言って、親父がああなった今、彼女に対して苦言を呈することができるのも・・・。うん、困った〉

瑠璃子 〈ああ、もう、そのセリフは、今まで何度繰り返し聞いたことでしょう。あなたがおっしゃらなければ、一体この家の者の中、誰が言うことができます〉

永司 〈それは分かっている、分かっているんだ。だが今は親父の中風も癒える兆しだにない。君も何かと、一人で親父を看取るとしたら苦しかろう。君はそうやって、苦情を訴えるような口調で言ってはいるが、玲子さんの献身的な看護には、正直、或る程度助けられてもいるじゃないか。それを無下に放逐するのはやはり憚られるよ。親父も中風で脳の神経に障害生じ、体躯不随、盲目になったとは言え、まだ耳は通じていて、何よりも、生きながらえているじゃないか。玲子さんは、母亡き後、親父が唯一愛した人だ。まぁ、それが今となっては厄介でもあるのだが・・・〉

瑠璃子 〈では、あなたはお義父様が亡くなるまで待てとおっしゃるの?お義父様と玲子さんの関係だってもとより怪しいものよ〉

永司 〈(反射的に)口が過ぎるぞ、慎みなさい。病人は私の父、つまりは、お前の舅に当たるのだ。親の人倫を疑うことは、恥ずべき行いだ〉

瑠璃子 〈(我に返り)ごめんなさい。私は・・・。このところ、心を苛まれてしまっていて、ついうっかりと、心にもないことを口走ってしまいましたわ〉

永司 〈マァ、仕方ない。君は何も言わなかったし、僕も何も聞かなかった。時として言葉には悪い綾が生じるものだから。話題を転じよう。たしか、家政のことについて言っていたね?〉

瑠璃子 〈ええ・・・〉

永司 〈去年、片岡蔵相の失言に端を発した不況が、今年になってもその勢い衰えるところか、勢いを増してしまって、国家経済の範疇を超えて猛威を振るっているようだが。我が家の蔵相は君に一任しているのだが、さて、按配はいかがかな?あまり芳しくないのかい?〉

瑠璃子 〈いえ、あ、はい(ト言い出し辛そうな素振り)

とてもとても言い難く、ここ数ヶ月、いつぞ言い出そうかと、その好機を覗っておりましたけど、遂に申し上げる機会を掴めずに・・・今になって申し上げますと・・・〉

永司 〈正直に言ってみなさい〉

瑠璃子 〈うちも、世間の例に漏れずして、家計の按配が悪うございます。あなたに心配をお掛けしないように、申し上げていなかったのですけれど、やはりもう・・・まだ破局的な所までではありませんから、斉藤子爵家や時田男爵家の二の舞は、大丈夫でございましょうが、先週の休日の時のように、冬に備えてあなたの背広や私の呉服など、何から何まで高島屋や三越で揃えるといったようなことを続けておりますと・・・いつまで保ちましょうか〉

永司 〈そうか、我が家の資産の大半を占める、土地や株式もこの不況では、価を落としているし・・・。そこまで事態が深刻であるとは露知らず、申し訳なかったな。こうなれば、僕も倹約に努めて、今の大学での勤務以外にも何か当てを考えねばならんな。そうだ、二松学舎に知り合いがいるから、何とか一つ頼み込んでみよう。二松学舎なら帝大からも近い、適当ではなかろうか〉

瑠璃子 〈マァ、そんなこと、何卒およし下さいませ。仮初めにも元海軍大将、西原男爵の御子息で、高名な国文学者である方が、かような有様であるなど、世間様に知られでもしましたら・・・。何とも有りうべからざることではありませんか。どこへも、何とも顔向けできませんわ。家計が破綻するのは、今のまま、或いはそれ以上に浪費を重ねたらのお話ですし、最低でも数年の後のことでありますもの。その数年のうちには、世の中の不況も晴れて、我が家の資産も運用良好となっておりましょう〉

永司 〈・・・・・・・・〉

瑠璃子 〈あなた、お信じになられないのですね。いいわ、あなたが疑っていらっしゃっても、私ひとりでも何とかやりくりしてみせますから〉

永司 〈いや、ありがとう。ううん、展望は極力甘きを避けなくてはならんのだが。まぁ、分かった。何も、君ひとりに任せることは絶対にないから心配しないでくれ。それでは、二人の奮迅で乗り切ろう〉

瑠璃子 〈・・・・(ためらいがちに)そうだわ、あなた、一つ重大な不安をお忘れになって。玲子さんの浪費ですわ。彼女のお金遣いは異常と申しましても差し支えないほどで、我々の着物の仕立てなんて、彼女の、一日銀座を廻るお買い物に比べたら・・・何とも、両と文ほどの違いがありますわ〉

永司 〈そうか、玲子さんという存在は、家計にも大きな影響及ぼしているのか〉

瑠璃子 〈ええ、そして彼女自身がその自覚をお持ちになっていないのも・・・・〉

永司 〈たしかに、玲子さんの服装から持ち物、香水まで、恐らくは銀座や日本橋で買った上物であるように見受けられる。まさか、それらを家の金から賄っている訳でもなかろう?〉

瑠璃子 〈家のお金でなくば、じゃあ一体どこから持ってくるとおっしゃるの?我が家のに決まっておりますでしょう?〉

永司 〈そのことは初耳だ。それがほんとうのことならば、許されるはずがない。何ともマァ困るというか、呆れ返ってしまうなぁ・・・〉

瑠璃子 〈ここまであなたに申し上げてしまったから、今日はもう言ってしまいますが、玲子さんの浪費の手口も、殊に巧妙で狡猾であるのよ。その手口のために、今まで私は忠告することができずしまいでしたの〉

永司 〈その手口とは?〉

瑠璃子 〈あなたの御俸給を好き勝手に濫費しているようなら、私だって黙って看過するはずありませんわ。玲子さんという人は、そのような、はっきり自らに非があるようなことは致しません。彼女はあなたのお金ではなく、お義父様の資産をお遣いになるのです〉

永司 〈だが、今の親父の状態を考えると、物事の別を判別できる状態ではなし、ましてや玲子さんに対して、そんな大金を自由に貢ぐことが可能とは思えないが・・・〉

瑠璃子 〈ええ、それが、玲子さんの遣り口に則りますと、いとも容易くできますのよ〉

永司 〈と言うと?〉

瑠璃子 〈玲子さんは、まず、お義父様の資産、土地でも株式でも何でもいいですわ、とにかく売却して小金になるものに眼をつけます。そして、お義父様の病状、つまり中風で目が見えないことを利用して、唯一通じるお耳に、虚偽の商取引を、巧みにお伝えしますの。すると、あの、若かりし頃は才気溌溂として、将来の元帥とまで謳われていらっしゃったというお義父様でさえ、いかんせん、お歳を召したことによる思考の薄弱と、書面を読むことのできない目のために・・・取引の内実を詳らかに了解せられで・・・〉

永司 〈何たる非道、それはもはや、歴とした詐欺ではないか〉

瑠璃子 〈それが、お義父様の認めが事実、存在しておりますから、誰も横槍を入れることができません・・・〉

永司 〈むむむ、とにかく、一刻も早く彼女の浪費を停めて、家政を正常に戻さなくてはな。そうと決まれば、瑠璃子、悪いんだが、ちょっと、玲子さんをここへ呼んで来てはくれないか?〉

瑠璃子 〈あなたが玲子さんの問題に本腰を入れて下さるようになって頂いて、大変安心致しましたわ。ありがとうございます。ただ今、連れて参りますわ(ト意気揚々と扉から出て行く)〉


【室内には西原永司ひとりが残される。心を落ち着かせるためか、威厳を醸し出すためか、彼は煙草を取り出して喫う】


瑠璃子 〈(意気消沈した様子で戻って来て)あなた、とても残念ですけれど、玲子さんは今日もお買い物にお出掛けなさっていると頼宗さんがおっしゃっていました。ドレスをお買い求めに、とのこと・・・。お帰りは遅くなるって・・・〉

永司 〈何とも奔放な。私こそ今日の講義は休みであるが、世の中はまだ平日、皆働きに出ているというのに〉

瑠璃子 〈あなた、ちょっとお待ちになって。玲子さんは、ドレスを仕立てに出掛けたって頼宗さんがおっしゃっていたということは、それってまさか、この間の話と関係があるのではなくて?〉

永司 〈この間の話とは?〉

瑠璃子 〈この間、玲子さんが御爺様の御機嫌取りのように耳元で囁いていたことでございますよ〉

永司 〈まさか、あれはその場限りの冗談であろう?〉

瑠璃子 〈いいえ、何でそんなことを断言することができましょう?現に、ドレスなんて、それに用いる以外に何の用途があって?ましてや、玲子さんの今まで、そしてこれからも続くであろう、向こう見ずな無駄遣い振りなら、充分有り得ることじゃありません?真剣に考えてみて下さいまし〉

永司 〈いくら病床の親父が呻きと共に零したことだからって・・・ただの、病がなせる譫言に過ぎなかったし、玲子さんも、それをまともには解釈してはいなかっただろう。彼女の言葉は、苦しむ親父への慰藉だったと思いたいよ。第一、うちで舞踏会なんて大それたものが、開けるはずもないじゃないか〉

瑠璃子 〈でも、振り返ってもみて下さい。玲子さんは、最近生命保険会社に売却されました旧華族会館に、ここ何年間か、催し物があるたびに御義父様のつてを駆使して、足繁く通っていたじゃありませんか。華族会館と言えば、さらに元を辿れば鹿鳴館だった建物・・・。これにも何か理由がありそうでなりませんの?〉

永司 〈それは考え過ぎではないかな?舞踏会と言っても、うちでは招待するべき御客もいない、さらには我々に舞踏の心得がある訳でさえない。あるのは、親父の古ぼけた燕尾服と、お前が遙か昔に身に着けてたという、これもまた古ぼけたドレス数着だけだろう?いずれも皆、僕達の体格と齟齬はなくとも、今じゃ使い物にならんだろうから、心配無いさ。鹿鳴館の、バッスルドレスにはほど遠い〉

瑠璃子 〈ほんとうに大丈夫かしら?〉

永司 〈瑠璃子、君は昔から心配性が、ただ一つ、神から与えられた欠点なのではないかなあ?〉

瑠璃子 〈でも、もしこの憂いが現実のものとなりましたら・・・。その時こそ、我が家の落日の象徴となりましょう〉

永司 〈マァ、そのことも含め、近いうちに玲子さんとは一度話し合わねばならんな(ト窓外の遠景をうち眺めて暗鬱な顔)〉


【この時、庭を散策していたはずの西原家令嬢、倫子がテラスを通って室内へと来たる。そのやや後ろから、倫子の許嫁である青木俊昭海軍大尉が制帽制服の出で立ちでついて来る。彼は室内には入らず、庭先で室内の一家の様子を何やらうかがっている】


瑠璃子 〈あら、倫子。どうしたの?あなた、お爺様と一緒にお散歩ではなくて?〉

倫子 〈ああ、お爺様なら、私と一緒に池水の滸まで行って、金木犀を賞でていらっしゃるところに、突然どこかから帰っていらしたような様子の玲子さんが来まして、そこからは私に替わって玲子さんがお連れになりましたわ〉

瑠璃子 〈あら、そう。でもいいこと、倫子、玲子さんは元来我が家の人ではいらっしゃらないのよ。だから、余り何でもかんでもお任せになるのは宜しくないことですよ〉

倫子 〈ええ、さようなこと、お母様にお教え頂かなくても自分でわきまえています。でもね、私はこう考えておりますの。玲子さんという人は、普通あの年頃の人にありがちな、押し付けがましさが毫も見られなくて、何か御自分のためだけに、そのためには他を益することも害することも、区別なくやってのけてしまいます。そのような剛健な生き方は、お母様にとってはおわかり頂けないものであるのは、当然の理ですわ。でも私は、玲子さんとはどこか居心地がよくて、ややもすると信を置いても差し支え無さそうに思えてくるのです〉

瑠璃子 〈マァ、何てことをおっしゃるの。それはこの母に対する当て付けですか?〉

倫子 〈いいえ、決してそのようなつもりで言ったんじゃないわ。でも、私の正直な感慨には他ならないわ〉

瑠璃子 〈あなた、あなたからも倫子に言って聞かせて下さいまし。その人は、実の母よりも、たかだか妾風情の身空の方に懐くような、不徳ぶりですのよ。それもただ懐くばかりでなく・・・私に対して反逆の目を(トヒステリー気味)〉

永司 〈まぁ、まぁ、ここで聞いていると、両方とも少し舌禍が過ぎたようであるよ。こうもお互いに水を掛け合うように話していても、口はますます殃禍を招き続けるだけだろう。もうよさないか〉

倫子 〈お母様がお母様なら、お父様もお父様ですわ。いつも御自分は中立を宣言して、ひとり戦火から避難しようとしていらっしゃる。卑怯極まりないと思いますわ〉

永司 〈倫子、父からのお願いだ、もうよしなさい〉


【庭とテラスの縁で室内のいさかいの模様をうかがっていた青木俊昭が、駆け出すように室内に到りて、三人を相手に話し始める】


青木 〈(陽気を装い)やぁ、皆々様。これほど長閑な秋の日の夕暮れに、一家三人(ト強調)お揃い致しまして、いかがなさりました?〉

瑠璃子 〈俊昭さん、今までの顛末をご覧になっていて?〉

青木 〈顛末とおっしゃりますと・・・はて何かござりましたか?〉

瑠璃子 〈それは、それは、とてもようございました〉

青木 〈よい、とは・・・?たしかに、倫子さんがいらっしゃって、その上、御両親も御一緒にいらっしゃる。倫子さんの許嫁たる私にとりまして、かような団欒の場に居合わす歓びは言葉にできぬものがあります〉

永司 〈ほう、賢しいことを言ってくれるじゃないか。ところで、今日の軍役はもう上がりかね?このところ、世間では軍縮軍縮と言説やら紙面やらが賑わっているが、いざ軍縮とならば、君ら軍人稼業は商売上がったりとなるのではないかい?〉

瑠璃子 〈まぁ、主人は実情が何分、分からないでおりますの。またおかしな戯れ言をおっしゃっているとでも、軽くお受け取り下さいまし〉

青木 〈いえいえ、お義父さんのおっしゃっていることも、当たらずとも遠からずというところなのですよ〉

永司 〈ほう、君は往年の私の父のような口振りで話すのだね?〉

青木 〈時に、お爺様、いえ、先の海軍大将西原永護男爵閣下はいらっしゃいますでしょうか?〉

倫子 〈今ここにはいらっしゃらないわ。多分、玲子さんがお連れになって散策に出られているはずよ〉

青木 〈それは残念ですね。今日は将軍へのお見舞いと、ちょっとしたご相談があってお訪ねしましたのに(ト西原永司の方を無用そうに冷ややかな眼で見遣る)

 そうだ、将軍の御帰還まで、倫子さん、しばらく外へでもお付き合い下さいませんか?今の季節、菊はまだ当分開きそうもございませんが、ここへ来る前に通ったところに、葛や玉簾の美しきを見掛けましたので、いかがです?〉

倫子 〈(この場から離れようとして)ええ、それはよろしいですね。もう夜もすぐそこまで来ておりますから、秋の虫の声も耳を澄ませばどこかぎこちなく、どこか初々しく聞こえて参りましょう〉


【倫子、俊昭両者、夫妻の前で手を繋ぎ、テラスを通過して庭へと出る。二人が歩いて行くに連れて、照明が室を照らす部分だけ消える。これによって、以下の両者の会話が西原夫妻には聞こえていないことを暗示する。やや歩いて、或る程度室と離れた場所で止まる】


青木 〈おっと、こんなところに、危うく見逃してしまうところだった〉

倫子 〈あら、芙蓉の花・・・綺麗〉

青木 〈芙蓉の容という言葉を知っておいでですか〉

倫子 〈マァ、何をおっしゃるかと思ったら。そんな甘い言葉は、あなたには似合いませんわ。もう二人も見ていないんだから、いい加減手を放して下さいまし〉

青木 〈やはりあなたの、私を嫌う心にお変わりはございませんか?〉

倫子 〈心が変わるも何も、初めからあなたのことは好きでも嫌いでもないのですから、何とも申し上げようがありませんわ〉

青木 〈まぁ、君のお母様が一方的に組み上げた縁談だ。その根本から君は無関係な訳か?〉

倫子 〈ええ、私は親が何かとうるさく勧めるので、いさかいも面倒ですから乗っただけ〉

青木 〈ははは、つまり僕は、いつでも誰とでも兌換可能であったということですか。でもね、僕にとってあなたは兌換不可能な存在なんですがね(ト鋭い眼光)〉

倫子 〈え・・・・・〉

青木 〈ああ、言葉が足りなかったようで、あなたに変なうぬ惚れをもたらしてしまうところでしたね。お爺さんをお持ちのあなた、つまるところ、西原永護元海軍大将を祖父にお持ちのあなたという兌換不可能な存在、とでも言いますか・・・〉

倫子 〈そんなこと、今さら驚くべくもないわ。御爺様が海軍でどれほど偉かったかは、知らないですけれど、私には関係のないことですわ〉

青木 〈偉かった、ではないのですよ。今でも充分に偉いのです〉

倫子 〈その御威光を笠に着て・・・。あなたはそれで平気ですの?(ト貶みを呈す)〉

青木 〈むしろこちらから希望しているぐらいですからねえ。あなたのお爺様は、海軍内では語り継がれるほどの智勇の将、その斌斌たる人品を尊崇し、今でも集まって来る人が多い。中風で、ああも不随にならずんば、海軍元帥の称号は閣下のものとなっておりましたでしょう。その方の後継を担うことは軍人として誰もが願うこと〉

倫子 〈さようですの。お爺様からは平生、なかなか昔話を聞きませんから〉

青木 〈昔話・・・あなたはこれを昔話とお呼びになりますか・・・。マァ、致し方のないこと・・・。あなたには関係も興味もございませんでしょうが、日清日露両戦役でのお爺様は、まさに海神の権化だったということだけでも、ぜひともお覚えになっていて下さい〉

倫子 〈お爺様なら、あながち嘘でもございませんでしょうね〉

青木 〈海神、あるいは軍神と崇められたお爺様の跡を継ぐのは、あなたのお父上のような文弱の徒では絶対に不可能であったでしょう。マァ、お父上も早々に気がついたようで、今ではさながら、書斎に鎮座する道真公でありますか?(ト馬鹿にする)〉

倫子 〈マァ、お上手なことをおっしゃること。お爺様とお父様のいずれが正しいかなど、毘沙門天でも天神様でも分かりませんでしょうね〉

青木 〈ははは、ごもっとも。しかし、お爺様の方は確乎として、清国船舶の拿捕・撃沈、露西亜バルチック艦隊に対する戦術、どれも軍功深甚であります。ところで、私が何を言いたいかというと・・・あなたのお爺様と同じ道をゆかんとしている一人の軍人を、温かく尊重していて頂きたいのですよ〉

倫子 〈私から、何かあなたに対して不利益になるようなことは致しませんし、致したくもございませんわ(トひとりで庭の散策へと歩を進めて行く)〉

青木 〈まことにありがとうございます〉


【倫子、青木両者舞台上より去った後、場面、再び室中へと転換する。何やら扉の向う側が騒々しくなる】


玲子 〈ただ今帰って参りました。ふう、疲れ切ってしまいましたわ〉

瑠璃子 〈あ、玲子さん、お帰りなさい。今日はまた、どこへとお出掛けなさっていたのかしら?〉


【二人の女性の対話中にも、西原永司は彼女たちを見守ることなく、窓外の遠景を恍惚として眺めている】


玲子 〈先刻から、荷物が重くって仕方ありませんの。瑠璃子さん、申し訳ないのですけれど、この袋だけでも寸時お持ち頂いて宜しいかしら?(ト相手の了承も待たずに袋を手渡す。自身は手提げ鞄や紙袋を片手に、洋服や頭髪の乱れを直している)〉

瑠璃子 〈ところで、今日は一体何をお買いになられましたの?〉

玲子 〈やはり、気になっていらっしゃいますか?正直に申しますと、えっと、今日は銀座から京橋まで行って、鳥谷宝飾店では前から欲しかった首飾りを、嬋娟堂では新発売の化粧品を買いましたの。でも、一番肝要なのは、ドレスですわ。こちらは伊勢谷服飾店に仕立てをお頼みしてきましたわ。お爺様が首を長くしてお待ち遊ばす十一月の会には、何とか間に合って、夜目にも燦めいているのがわかるような衣裳ができ上がること請け合いでございますわよ〉

瑠璃子 〈マァ、やっぱり、嫌な予感が当たって・・・・。そのことも含めて、ちょっとあなたとお話しておきたいことがございますの。今、お時間ございますか?〉

玲子 〈(アッケラカンとして)いいえ、お生憎、私もこれから少しばかり忙しくて、申し訳ございませんね。頼宗、ちょっと、頼宗、こちらへいらっしゃい。頼宗〉

頼宗 〈はいはい、そんなに大声で喚かなくたって聞こえるものは聞こえるんだから。何か用かい?〉

玲子 〈この荷物と、あの袋を、私の室に持って行ってちょうだい。こういう時に男の膂力が役に立つものね〉

頼宗 〈しょうがないな。じゃあ、室の真ん中辺りにでも放っておくから〉

玲子 〈(扇子を取り出して)秋とは言っても、今日のような日にはまだ、少し動き回っただけでも暑うございますわ。困りましたねえ(ト悠悠と扇ぐ)〉


【玲子に断られて以降、瑠璃子は室の中央にたたずみながらぽつねんとしている】


玲子 〈(室の端で窓外を眺める永司を発見して)あら、永司さん、そんなところにいらしたの。私は今の今まで気付かず、てっきりまだ大学の研究室にでもお篭もりになって遊ばすのかと思っておりましたわ〉

永司 〈それは、どうも〉

玲子 〈ふう、だいぶ疲れも暑さもごまかすことができたみたいですわ(ト腰を上げる)

私はこれから、頼宗と一緒に行かねばならないところがありますので、これにて失礼します。ごめん遊ばせ〉

瑠璃子 〈(急いで玲子の後を追い)待って、玲子さん。今日は、どうしても、聞いて頂きたいの。あなたの御用はまた後の機会にすることにして、今は暫時ここにいらっしゃってちょうだい〉

永司 〈マァ、亭主である僕からも一つ、頼むよ。片時お時間をちょうだいするよ〉

玲子 〈マッ、せっかく直した裳裾が・・・。いい加減、放してちょうだい。わかりました、何か重要なことがあるのでしたら伺います。なるべく、手っ取り早くおっしゃって下さいまし〉

瑠璃子 〈まず(ト言い掛けたところで、玲子の発言に掻き消される)〉

玲子 〈まず、ですって?そんなに長いお話ですの?(ト露骨な顰めっ面をして大声を出す)〉

永司 〈いやいや、そうでもないから。マァ、聞きなさい。あなたは、今の世相をお考えになったことはありますかな?〉

玲子 〈世相?それが私達に何か関係ございますの?〉

永司 〈今世間では、不況不況と騒がれているのは御存知だね?〉

玲子 〈当たり前ですわ。現に、今日行って来ました宝飾店も服飾店も皆、平日の昼間とはいえど、お客の入りも芳しくなく、閑古鳥が鳴いておりましたもの〉

永司 〈では、我が家はどうであろう?我が家というのは無論、君も含んでね〉

玲子 〈当然ですわ〉

永司 〈我が家も、親父の日露戦役におけるものと、後の諸々の軍功によった叙位であって、元々の家格に世間一般と大した差はない。いや、今となっては財政面においては同等か、それ以下にまで到ったと言っても過言ではない。それでもあなたは、銀座や京橋といったところへと通うかね?〉

玲子 〈いいえ、あなたのお懐が、かくも逼迫の様相を呈していらっしゃるとはつゆ知らず、大変驚きましたわ。僭越ながら、私があなたの奥様でありましたら、今すぐにでも倹約をしようと思うでしょうね〉

瑠璃子 〈マァよかった。玲子さんもお家の事情をわきまえて下さったのね。玲子さん、それじゃあ今日のようなお買い物は、金輪際お控えして・・・。いいえ、そこまでは余りにも殺生だわ、せめて無用な奢侈品にお金を注ぎ込むのは、お控えに〉

玲子 〈・・・・・・・・・・〉

瑠璃子 〈ありがとう。他の家と異なって、執事の一人も、女中の一人もいないこの家で、あなたがそう決心して下さいますと、とても助かりますわ〉

玲子 〈そりゃあ、止めなくてはなりませんわ。もしも、私が、永司さんの御俸給を遣っているようでございましたらね〉

瑠璃子 〈え、とおっしゃると?まさか、あなた〉

玲子 〈マァ、浪費癖とは、人聞きの悪いことを・・・よりによって、一つ同じ屋根の下で寝起きする者におっしゃるとは何事ですの?あなたはそうおっしゃるけれど、私が今まで一度でも、永司さんの資産を用いて何か買ったことがあって?すべて、お爺様からありがたくちょうだい致したお金を遣って、金額も良識ある程度に抑えているつもりよ。あなた方御夫妻は、お爺様の私用金の用途にまで口を差し挟むほどの権利を持っていらっしゃって?〉

瑠璃子 〈(唇をかんで)・・・・・・・・〉

永司 〈玲子さん、君がそう主張するのは勝手だが、親父のお金とは言え、今の病床に臥す父では万事不覚であること位は分かるでしょう?その人のお金を、半ば謀るようにして遣い込むというのは、やはり、我々息子夫婦としては見過ごしておくことはできないのだよ。まして、今のこの不況の中じゃ、なるべく不経済な真似は差し控えて欲しいというのが、我々二人の願いだ〉

玲子 〈おほほ、願うのはどうぞ御自由に遊ばせ。忿怒の不動尊でも無碍には致しませんでしょう〉

瑠璃子 〈あなた、この人には、何を言っても無駄なようですわ。私達と同じような道徳は持ち合わせていらっしゃらないのよ。何を言っても、この人の心には水紋の一つだに浮かぶことはない。でも悔しいですから、玲子さん、これだけは言っておきますわ。この家であなたは、血縁上の係累も絶えてない、全くの他人でありますから。このことはお忘れなきよう〉

玲子 〈あらあら、瑠璃子さん。それはあなたの言えたことかしら?永司さんの口から出た言葉なら、まだ私も納得できましょうものを。所詮、私達二人は同じ穴の貉ではなくて?〉

瑠璃子 〈・・・・・・・・(ト目には涙)〉

永司 〈おい、口論のうちにも口にして良いことと悪いことがあるのだよ。もういい、君の濫費は親父に言って聞かせ、何としても止めさせる。ひとまず、ここから出て行きなさい。少し前に言っていた、明治帝の天長節に当たる日の舞踏会なんてものも沢山だ〉

玲子 〈あら、もうよろしいの?まったく勝手でいらっしゃいますわ。奥様の瑠璃子さんが私を引き留めたのに、すぐさま御主人の永司さんが私に出て行けとおっしゃるなんて・・・。騒々しい御両人ですこと。マッ、あなたがそう一気呵成に長口上を連ねても、すべてはお爺様の御一存が左右するでしょうけれど。そう言えば、先刻からお爺様の姿が見えませんわね。中風のお体で長い間外気に当たっていては、それこそまた・・・〉

瑠璃子 〈お爺様なら、倫子が、あなたに預けたと・・・〉

玲子 〈アァ、あれはだって、もう一時間近くも前のことでございますよ。私は帰ったばっかりで、手荷物も重くてしょうがありませんでしたから、お爺様を椅子と一緒に、庭の築山にそのまま、座らせ申し上げて参りましたのですわ〉

永司 〈あなたという人間は、何てことをしでかしてくれるのだ〉

瑠璃子 〈早く、連れ戻してあげなくては〉


【永司と瑠璃子はともにテラスへと躍り出て、庭先へと駆けてゆく】


玲子 〈ふう、引き留めては、出て行かせようとして、最後には自分たちが出て行ってしまうとは・・・本当に忙しい御仁方ですわ〉


【玲子、病床のかたわらへと歩み寄り、氷の微笑を呈する。舞台下手の、窓の開けられている壁の外側にのびた小径に、倫子が通り掛かって、室内に玲子がひとりたたずんでいるのを見て立ち止まる。倫子は息を潜めて窓から室内をうかがっている。倫子の存在に、玲子は初めのうちは気がついていない】


玲子 〈(以下独白)ふふふ、やっと、やっとの思いでここまで辿り着いたのだもの。ここに来て、あなたが人の幸福を蹂躙しておきながら恬然と築いた幸福に邪魔されてなるものか。一人の女性の屍を肥やしとして育った木々なぞ、根こそぎ引き抜いて、いや、それだけじゃないわ、不動尊に代わって燼滅して・・・。その盲になった目でよくよくご覧じていてちょうだい。ああ、思い返せば思い返すほど、考えれば考えるほど、お前が憎くて堪らない。殺すことなんて簡単だわ。でも決して、そんな一瞬では楽にさせない。あくまで、身に沁みる苦汁に苦しんで呻吟するがいい。私はただそれだけを生き甲斐にして、今まで這いつくばってきた。やっと、残酷に、華麗に、完成するのよ〉


【この時、小径に潜む倫子が、不注意にも物音を立ててしまう。倫子は咄嗟に屈んで隠れるが、室内の玲子からは、窓框に沈む倫子の頭が一瞬見える。倫子を発見した玲子の表情は驚愕へと一変するが、何やら新しい策謀を考案したところでまた不敵な表情に変わる】


玲子 〈あら、夜に向かって風が出て来たのかしら。マァ、いいわ(ト寝台のかたわらに座り込む)

鹿鳴館の夜会の夢から、もうおよそ四十年も経ったのよ。何とも光陰ははやいことではございませんか。あれからあなたは、長きにわたって素晴らしい夢の続きをご覧になってらしたのね。マァ、何とすこやかな寝顔・・・典麗な夜の夢も、とこしえには続かない、たちまち醒めてしまうもの。そうでしょう、お父様(ト最後の語に力を込める)〉


【小径にうずくまって隠れている倫子がしかと玲子の最後の語を聞いたということを、無言のうちの表情や素振りで示す】


倫子 〈・・・・・(ト深刻な表情のまま袖へ)〉

玲子 〈くっくっく・・・(ト寝台に突っ伏したまま、上体だけ揺らしている。むせび泣くような姿であるが、実は声を殺し笑っている)〉

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