午前三時の小さな冒険

まっく

午前三時の小さな冒険

 チンという音がキッチンに響く。

 オーブントースターの扉を開けると、甘い匂いが周囲を包む。

 渡辺栗花わたなべりっかは、息子の為に手作りの誕生日ケーキを焼いていた。甘い甘いパウンドケーキに、たっぷりの生クリームを搾り、真っ赤なイチゴ人数分三つと、あともう一つを乗せる。栗花こだわりの誕生日ケーキだ。

 平凡だけど温かな家庭。年上の旦那はイケメンには程遠く、息子は元気だけが取り柄のやんちゃ坊主で、贅沢と言えば、月一回の回転寿司くらい。

 不満を挙げればキリはないけれど、栗花が子供の頃夢見ていた家族に限りなく近い。

 栗花は焼きたてのパウンドケーキを手に、大きく息を吸い込む。甘い匂いが記憶を刺激する。

 あとは、ここに父がいてくれたらなと思う。




 ──中学に上がり、少し不安だった勉強に部活動に友達付き合い。それもなんとかなりそうだと思って、心にも余裕が出てきた頃。

 午前三時前に起き出して、大好きな若手お笑い芸人の深夜の冠番組を観るのが、栗花の毎週木曜日の楽しみになっていた。そして、そのお供にするスナック菓子と炭酸飲料を、こっそりと近所のコンビニにと買いに行く。


 午前三時の小さな冒険といったところだ。


 父親が夜の仕事に出ていった後なので、そんなにこっそりとする必要もないのだけれど、栗花はなるべく音を立てずに家を抜け出す。


 物心ついた時には、母親は家にいないことも多く、栗花はずっと父の孝之と二人家族だと割り切って過ごしていた。

 その日、数日ぶりに栗花は家で母の歩実の顔を見た。どうやらそれは自分の荷物をまとめる為に帰ってきただけのようだった。若い彼氏を連れていた。

 確か彼氏は、佐藤とかいう名前で、何度か見たことがあったが、いやらしい目つきの嫌悪感しか感じない男だった。お互い何が良くて付き合っているのか、栗花にはさっぱり分からなかったし、孝之がどうして、あんな女と結婚してしまったのか、不思議で仕方なかった。


 歩実は出ていく間際に、栗花に向かって「アンタのことは、一度も好きになれなかった。その目をもう二度と見なくていいと思うと、清々するわ」と捨て台詞を残していった。

 特に悲しみも怒りも湧いてこなかった。最後に母親らしい言葉を残される方が、よっぽど腹立たしかっただろう。栗花の頭の中には、ことわざの目は口ほどに物を言うは、本当なんだなと浮かんできたくらいだった。

 孝之が深夜の仕事を始めたのは、この頃からで、歩実が孝之の知らないうちに孝之名義で借金をしていたのが分かり、その返済の為に余分にお金が必要になったからだった。そんな生活がもう一年も続いている。

 孝之は、お人好しだけが取り柄で、損ばかりをしているような人間だった。栗花は情けない人だとは思いつつも、そんな父を嫌いにはなれなかった。


 ある木曜日。栗花がいつものように、テレビのお供を買いに出ようと起き出して、部屋の扉に近づくと、リビングの方から、少しトーンを落とした孝之の声が聞こえてきた。誰かと電話をしているようだった。

 今日も夜の仕事があると言っていたし、いつもなら、もう家を出ているはずの時間だったが、体調が悪く、休みの電話でもしてるのだろうか。

 この時間に起きてしまったからと言って、特に咎められるわけはないのだが、何となく後ろめたい気持ちから、慌てて電気を消し、息を潜める。


「……ぉした……」


 そのような声がしたが、なにぶん小さくて、はっきりとは聞こえない。少し扉に近づくと、今度は「サトウ」という言葉だけが、ようやく聞き取れた。それからは、うんうんとしばらく相槌をうっている。

 しばらくして、栗花は最初の言葉は『殺した』と言ったのかもしれないと思った。


 まさか、パパがあの女の彼氏の佐藤を殺してしまった?


「アユミといる。かくせる」


 次に栗花が辛うじて聞き取れたのは、そんな言葉だった。。

 さらに扉に近づくも、声を押さえてるせいで、ほとんどがはっきりとは聞き取れない。

 考えたくもないが『歩実といる』『隠せる』から最悪の想像をすると、二人を殺害して、死体を一緒に埋めようとしているのかもしれない。

 孝之の抑揚のない単調な喋り方が事態の深刻さを物語っているような気がした。ずっと昼も夜も働いていたので、疲れが溜まっていて、最近元気がないのかと思っていたが、そうではないのかもしれない。


「栗花には何も言わないでくれ」


 孝之が電話を切るときに、そう言ったのだけは、はっきりと聞こえた。



 栗花ご用達のコンビニは、栗花が住むマンションと細い路地を挟んだ隣にある。コンビニの自動ドアをくぐると、深夜には似つかわしくない軽快な入店音が流れる。

 あの電話から、すぐに孝之は仕事へと出掛けていった。とても、お笑い番組を観る気分ではなかったが、すぐに寝付けそうにもないし、自分一人で抱えきれそうにもないので、とりあえずコンビニへと足を向けた。


「やあ、栗花ちゃん、いらっしゃい。今日はもう来ないかと思ったよ」


 既にコンビニの制服から私服に着替えた金田が、イートインから栗花に声を掛ける。

 時間は午前三時十分を少し回っている。いつもなら番組が始まっているので、この時間に栗花がコンビニに来たことはなかった。


「待っててくれたとか?」


 栗花は少しぶっきらぼうな言い方になってしまったと気づき、俯きながら席につく。


「まあ、コーヒー飲む時間くらいはと思って」


 そう言って、金田は缶コーヒーを軽く上げる。

 木曜日のシフトが午前三時までの金田は、いつも栗花のレジを済ませてからバイトを終えていた。

 心配だからと一緒にコンビニを出て、栗花のマンションの前まで来てから、金田は踵を返す。その間の僅かな時間、他愛もない話を金田とするのが、この午前三時の小さな冒険に栗花を駆り立てる一番の理由になりつつあった。

 栗花は、老け顔の金田を大学生だとは、まだ信じ切れずにはいるが、直感的に信用出来る人だと思っていた。

 大人は子供に対して、不必要に嘘をつくし、必要以上に言葉を飾り立てる。自称大学生が大人かどうかは別にして、金田にはそういったところがない。少なくとも栗花に対しては。


「少し、時間、大丈夫?」


 栗花がそう言うと、金田はおもむろに立ち上がり、「栗花ちゃんが、これ飲み終わるくらいまでなら」と、栗花がいつも買う炭酸飲料を持ってきてくれた。

 栗花は「ありがと」と言い、ちびちびと炭酸飲料を飲みながら、現在の家庭状況と先ほど孝之がしていた電話の話をした。




『殺した 佐藤 歩実といる 隠せる』


「最後には、栗花には何も言わないでくれ、か。確かに、これだけ並べると嫌な想像しか出来ないかもしれない」


 金田は口元に手をやり、目だけを天井に向ける。


「やっぱり、そうなんだ……」


 栗花は額がテーブルに着きそうなくらい俯く。


「お父さんの仕事は」


「昼は建設の現場監督。夜はなんか廃棄物のお仕事って。内容はよく分かんない」


「うーん。どちらも死体を隠せそうな仕事と言えるね。ごめん、怖がらせるつもりはないんだけど」


 栗花の額とテーブルの隙間がコピー用紙一枚分になる。


「最悪の誕生日になりそう……」


「栗花ちゃん、もうすぐ誕生日なの?」


「うん……日曜日。いつもは、叔母さんが来てくれて、手作りのケーキを焼いてくれてたりしたんだけど、今年は旦那さんの海外赴任が決まって、それに付いていっちゃったから。あまり期待してはいなかったんだけど、もう最悪確定だよ」


 栗花の瞳から涙が溢れる。

 金田の方をちらりと見ると、なにやら忙しく携帯電話を弄っていた。こんな時にメール? と思うと余計に涙が止まらない。

 金田は「なるほど、そういう事か」と呟き、曇りが晴れたような表情になった。


「栗花ちゃん。言葉がはっきりと聞き取れてたわけじゃないんだよね」


「でも、何度思い返しても、そうとしか思えなくて」


「たぶん、心配しなくても大丈夫。誕生日を楽しみにしてればいいよ」


「だって……」


「僕を信じて」


 栗花は、あまりに真っ直ぐな目で見てくる金田に気圧され、半ば強引に納得させられた形になったが、その一方で妙に安心している自分がいることに気づく。

 この日は、無言で栗花のマンションの前まで歩き、金田は踵を返した。

 栗花は、いつもすぐにマンションに入ってしまうが、この日は少しだけ遠ざかっていく金田を見送った。



 誕生日。日曜日の深夜。栗花は午前三時が待ちきれず、孝之が仕事に出ていくのを、今か今かと待ち侘びていた。とにかく、一刻も早く金田に誕生日のことを伝えたかった。

 念のため、三時になるのを待って玄関を飛び出す。

 コンビニの自動ドアをくぐると、入店音がいつも増して軽快に栗花を招き入れる。


「栗花ちゃん、いらっしゃい。木曜日以外に来るのは初めてだ。その顔は、僕を信じて良かったって顔だね」


 金田は少しホッとした笑顔でレジカウンターの中から、栗花を出迎える。


「先に全部教えててくれたら! って顔なんだけど」


 栗花は膨れてみせる。

 金田は「今日はシフト六時までなんだけど」と言いながら、栗花をイートインのほうへと促した。店内にお客さんはいない。


「あの時、何が分かったのか教えてほしい」



 金田が閃きを覚えたのは、栗花がもうすぐ誕生日だという言葉を口にした時だった。

 大学で知り合った女友達の一人がブログをやっていて、つい最近パウンドケーキを焼いたという記事で、写真とレシピを公開していたのを思い出した。

 その時は特に興味のないものだったので、流し読みしていただけだったが、栗花の話を聞いていた時に『サトウ』は彼氏の名前ではなく『砂糖』の可能性もありそうだと金田は思っていたので、そのブログを調べてみたのだった。

 その記事のタイトルは『オーブントースターで焼く簡単パウンドケーキ』

 誕生日はケーキを連想させるし、ケーキを作るには砂糖は必須だろう。

 それと栗花が聞いた言葉の中で、一番引っ掛かりを覚えたのが『アユミといる。かくせる』だった。

 殺してしまったのを前提に考えると、佐藤と一緒に埋めようとしているように捉えることも出来るが、死体を『いる』と表現するのは、無くはないが些か不自然だ。

 似た言葉があるかもしれないと読んでいくと、レシピの一文に『アルミホイルを被せる』とあった。これなら『歩実といる。隠せる』とほぼ同じ発音になる。

 栗花が最初に聞いた『殺した』だが、これはオーブントースターの『トースター』のお尻の部分だけ聞こえたのを、脳内で補完して『コロシタ』と思い込んでしまったのだろう。

 当然、父の孝之が深夜に電話していた理由は、時差のある海外で暮らす妹(叔母さん)に、ケーキの焼き方を教えてもらう為。


「せっかく父親が娘の為に、サプライズで手作り誕生日ケーキを焼くんだから、ネタバレしたら良くないと思ってね」


「ふーん。金田くんはパパの味方か。不安に思いながら数日過ごす方がよくないと思うよ。絶対、寿命縮まってる」


 栗花が言い終えるか終えないかというところで、珍しくお客さんが入ってきた。

 金田は「おっ、グッドタイミング」と小声で言い、レジに向かう。お客さんの会計を済ませて、栗花がいつも買う炭酸飲料と、自分の缶コーヒーを持ってくる。


「で、ケーキの味はどうだった?」


 金田が缶コーヒーを開けながら言う。


「甘々のパウンドケーキに、甘々の生クリームどっさりだったから、軽い地獄だった。イチゴが無かったら、甘死にしてたと思う」


 栗花も炭酸飲料のプルトップを開ける。大好きな泡が弾ける音が店内の音楽にかき消される。


「せっかくお父さん頑張ってくれたのに。とにかく殺人事件じゃなくて良かったのと、イチゴのおかげで死者が出なくて良かったってことで」


 二人で缶を軽く合わせる。

 栗花は不承不承ふしょうぶしょうといったところだ。


「ところでさ。金田くん、将来は探偵になったら? 推理は完璧だったし。人としてはどうかと思うけど」


 栗花は嫌味を言うのも忘れない。

 そして、金田の少し困った顔は、なかなか悪くないと思った。


「普通の探偵は推理をしないし、事件も解決しないよ」


「だったら、普通じゃない探偵になればいいんだよ」


 金田はそれには答えず「そろそろ帰ったほうがいいんじゃない」と時計を指差した。

 この日はまだバイトが続く為、金田はコンビニの入り口で栗花を見送ることになった。

 栗花は、金田が見えなくなる最後の所で振り返り、軽く手を振った。金田は両手で大きく手を振り返していて、まるで子供のようだと思い、噴き出しそうになった。これが金田との最後の別れになるとは思いもしなかった。


 翌週の木曜日、栗花は最近の習慣から午前三時前に目を覚ましてしまった。

 孝之が歩実の作った借金を完済し、夜の仕事を辞めてしまったので、もう冒険に繰り出せなくなってしまった。

 ふと思い立って、一度だけ日曜日の早朝にコンビニへ行ってみたが、そこに金田の姿はなかった。

 まるで『誕生日ケーキ事件』の推理をする為だけに金田が存在していたかのように、栗花には思えた。




「俺、ビターなガトーショコラとかがいいんだけど」


 今日、十歳になったばかりの息子がフォークをクルクルと弄びながら、生意気な口調で言う。


「うちの誕生日ケーキは、これって決まってるの。文句言うなら食べなくていいよ。それから、食器で遊ばない!」


 栗花は息子がキチッとフォークを置くのを見て、ケーキの乗った皿を出してやる。

 出されるなりガツガツと食べ始めるの息子を見ると、いつまでも子供でいてくれたらと思ってしまう。


 父があの日作ってくれた誕生日ケーキ。それをまねして栗花も家族の為に同じケーキを作る。

 父も一緒に食べられたら良かったのだけれど、息子が産まれるのを待たずして、あの世に旅立ってしまった。自分の為に随分と無理をしてくれていたのだろうと思うと胸が痛む。

 仏壇に手を合わせ、供えていたケーキを下げる。

 ケーキを手にしたまま、金田は今、何をしているのだろうと思う。案外、本当に探偵でもやっているのではないだろうか。そんな想像をしていると、すこし体が軽く感じられた。


「おじいちゃんの分、食べる人!」と栗花が言うと、自分も含めて三人が元気良く手を挙げた。

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