怪談と私
甲(キノエ)
むじな
秋の日のつるべ落としと言うが、日が落ちるのがめっきり早くなった。
佑太くんと遊んだ僕は、夕方六時のチャイムが鳴る前に家路についたのだが、空はすぐに暮れ色に染められ、徐々に暗色へと転じていく。
点在する街灯に火がともり、小さな羽虫たちが体当たりを繰り返している。
はやく帰らなきゃ。
自転車をこぐ足に力をこめようとしたその時、電柱に寄りかかるようにして立つ、妙齢のご婦人の姿を目の端に捉えた。
酒精と親しんでいたのか、はたまた気分がすぐれないのだろうか。
すわ一大事、とばかりに、紳士的な僕はご夫人を慮り、声をかけた次第である。
「どうかされましたか?」
声変わりはしていないのだけれど、発した声のイメージは、尾てい骨に響くような重低音を想像していただきたい。
そして、そのような男前ボイスを作り出そうと腐心する僕の涙ぐましい努力も。
努力は実を結ぶ事がある。
女性は僕の発した声に、男前の幻想を見出したのか、くるりと振り向いた。
「ぎゃあ!」
黄昏時の新宮町に、ヒキガエルを潰した様な悲鳴が響き渡った。
そして一瞬の後に、猛牛もかくやという怒涛の足音。
ここで断っておくけれど、僕の容姿に女性が驚いて泣き叫んだわけではない。そのような事があった暁には、ショックでおかゆっぽいものしか喉を通らなってしまうこと請け合い。
情けなく恐怖の叫びを発したのは、何を隠そうこの僕である。
しかる後速やかに、テレビの陸上選手にも劣らない流麗なフォームで逃亡をはかったのも、僕である。
○
息も絶え絶えに佑太くんに家にたどり着くと、矢庭にドアを叩いた。
彼の母や近隣への迷惑は一切顧みないで。
佑太くんはこの上なく迷惑そうな、幽鬼が苦虫を噛み潰したような、なんとも形容しがたい顔をして、僕を出迎えてくれた。
「実はね、僕はどうやらとんでもないものを見てしまったらしいんだ」
「ふうん。それは好物のカレーを味わう至福の時間を剥奪する面白さのある話なんだろうね」
「それはもう」なにしろ彼の大好物なお化けの話なのだから「実はね――」
ここで、はっと天啓が下る。
もし先ほどみた「とんでもないもの」を友人に話そうものなら、小泉八雲よろしく、彼がまさに怪異のそれとなってしまわぬものか。
僕が珍妙な事態について弁舌をふるい終わると、ふと気づくのだ。
佑太くんが、まるで涙を流す乙女のように、両手で顔を覆っている事に。
ええい、気持ちの悪いと思いながらも、一応は気配りをし、どうしたのか問うのだ。
そういう優しさを、図らずも僕は持ち合わせてしまっているのである。
すると、佑太くんのものとは思えない、おどろおどろしい声で、このように言うに違いない。
「その顔というのは、このような顔であったかい」
そうして、黄昏時の新宮町に、二度目の叫びが響く事になるのだ。
○
さて、とっさの機転で事なきを得たものの、怪異を誰かに話したいという衝動は、もはや堪える事のできないほどの強さになっていた。これがあのおばけのもつ特殊な力なのかもしれなかった。
僕は自室の布団にくるまり、幾度も煩悶を繰り返した。
もしかしたら、話してもどうという事はないのではないか、と。
だがしかし、もし相手が怪異に転じてしまった場合、僕はどのようにすればよいのか。
答えはいっこうに導き出されず、僕はもう話したいという魔力に抗うだけの理性がなく、電話で話をしたならば、もしかしたら僕には危害が加わらないのではないか、などという悪魔的な考えまで鎌首をもたげだした。
いやいや、それは駄目だ。
佑太くんは僕の住処を知っている。危害が及ぶ可能性は極めて高いぞ。
そこで、再び天啓である。
もしかしたら、質素倹約を美徳とする僕の善行を、神さまはあまさず照覧なさっていたのかもしれない。
くふふ、と奇妙な笑い声が漏れた。
○
『そこには口しかない女がいた。目もなければ鼻もない。はあはあと生臭い息を撒き散らしながら、女はぬらりと粘着質な笑みを浮かべ、「ばあ」と舌を出して、僕の頬をぺろりんと舐めたのだ。大絶叫が口からもれ出るのを、いったい誰が責められたろうか』
このような内容をカクヨムにしたためたところ、多くのコメントが寄せられる運びとなった。普段は、一桁もいかないっていうのに。
ただ、どのコメントも、『それって、こんな顔だったかぁい』というものばかりなのは、いささか閉口であったけれど。
さて、怪異は順調に伝染しているようであるが、僕の目の届かない所であれば、それは瑣末な事であろう。
きっと、おそらく、たぶん、そうだったらいいな。
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