みゃーこさんのワークショップ

相内充希

みゃーこさんのワークショップ

(わあ、大きなネコちゃん。エプロンしててかわいい)


 それを普通に受け入れてしまったのは、もしかしたら何かの魔法だったのだろうか――。



 佐伯春奈がはじめて「彼女」に出会ったのは、ある晴れた日の午後だった。

 大学卒業と共に結婚し、すぐに子供に恵まれた。だが出産前に夫の転勤が決まり、春奈が里帰り出産をしている間に新居は新しい土地に移っていたのだ。

 結婚後も実家から離れた土地だったが、大学入学から四年間過ごした街だったので勝手知ったるところだったし愛着もあった。だけど夫の転勤先は、そこから飛行機の距離になった。同じ日本なのに言葉も違う、知り合いもいない土地。

 もちろん夫にとっても初めての土地だし、慣れない場所での仕事に慣れるまでは大変だろう。朝早くから遅くまで頑張ってるのに、家で愚痴一つこぼさない夫。


 だけど春奈は苦しかった。

 スーパー一つ、病院一つ場所が分からない。

 ベビーカーを押して近所を散策し、スマホで情報を得る毎日。

 公園に行ってみるものの、そこにいるのは自分よりずっと「大人」なお母さんばかりだ。すでにグループが出来ているように見えて、自分のような半人前が入って行くなんてとてもできないと思った。まだ子どもが公園で遊ぶには早いから、毎日散歩をするだけ。話し相手は夫だけ。なのに、ほとんど会話らしい会話なんてできない毎日。


 母親学級で仲良くなったママたちは、出産後も誰かのおうちに集まっているという。ラインのグループはそのままだけど、楽しそうな会話がつらくてだんだん読むこともなくなってしまった。

 春奈は切迫早産の危険があったため、早めに里帰りをして入院も少し長かったから、もともとちょっぴり疎外感はあったのだ。

 でも夫の転勤さえなかったら、きっと楽しく過ごしていた。

 分からないことや悩みを相談しながら、年は離れていても同じ新米ママとして、「そうだよねー、がんばろうね」なんて励ましあえてたと思う。

 でも今、そばには誰もいない。

 大学の友達はみんな、社会人として忙しい日々を送ってることを知ってるし、子どものことなんて言っても困るだけだろう。


 子どもは可愛い。すっごく可愛い。

 でも自分はお母さんになれているのか不安しかない。

 なんでこの子はこんなに泣くんだろう? おむつは濡れてないよ。おっぱいも飲んだよね。

 体重増加も問題なし。歯が生えそうってわけでもないみたい。

 ねえ、どうしてそんなに泣くの?

 新居まで訪問してくれた保健師さんのアドバイス通り、毎日半日歩き続けて、やっと夕方泣くのが少なくなったけど、毎日くたくただ。

 やっと寝ても、夜中に何度も起きるから、「ふぇ……」っと泣きそうになった瞬間抱っこする習慣が出来た。母乳が出てよかった。疲れている夫を起こさないで済む。


 彼は知らない。

 子どもがこんなによく泣くことを。

 彼は知らない。

 どうして私だけ? って、私が思っていることを。


 言えるわけない。言えやしない。

 でも苦しい。苦しい。苦しい。


 私、まだお母さんになるには早かったの?


 誰にも言えない叫びを閉じ込めながら歩いていたとき、それは目に入ったのだ。


   ☆


「ティールーム?」

 そこを見つけたのは偶然だった。散歩の途中にあった、古い団地の一角にある、木でできた可愛らしい立て看板。

 スロープを上がり、開いた入り口からそっと中をのぞくと、喫茶店のようなものだろうか。

 看板に描かれたメニューは紅茶とコーヒー。あと今日のケーキ。

 今は客が誰もいない店。子どもはベビーカーで眠っている。

「ちょっとだけならいいかな……」


 足の裏が痛かった。

 毎日歩きすぎて、足が地面につくだけでも痛い。

 初夏の陽気で喉も乾いていた。

 隠れ家のようなお店でお茶を飲んだら、少しは気分がよくなるんじゃないだろうか?


 春奈が入り口でぐずぐずしていると、中から

「いらっしゃいませー!」

 と、明るい声が響いた。快活でホッとする女性の声だ。

「ベビーカーのままどうぞ」

 その声に励まされ、そっと店内に入る。

 店内は団地の一室を改造したものだろうか。大きなワンルームになった店内の一角は小上がりで畳のコーナーもあり、ぬくもりのある木目調の明るい内装だ。


「お好きな席にどうぞ」

 「はい」と答えつつその声の方を向いた春奈は、コテンと首を傾げた。

(わあ、大きなネコちゃん。エプロンしててかわいい)


 そこには春奈と身長が変わらないくらいの大きなネコがいた。

 二本の足で立っており、赤いエプロンを付けている。リアルな着ぐるみだろうか。モフッとしていて、めちゃくちゃ可愛い。


(ゆるキャラ? お店のマスコット? かなりリアル寄りだわ)

 そんなことを思いつつ、窓辺のテーブルに腰を落ち着ける。

「あの、アイスティーを。今日のケーキってなんですか?」

「今日はベリーソースのレアチーズケーキですよ」

 エプロンをしたネコは、春奈の問いににっこり笑ってそう答えた。

 作り物とは思えないその表情豊かな笑顔に、思わず春奈も微笑み返す。

「じゃあ、それもお願いします。紅茶には砂糖もミルクもなしで」

「はい、少々お待ちくださいね」


 カウンターの向こうに戻ったネコを見送りつつ店内を見回す。

 他には誰もいない。店員はあのネコだけのようだ。着ぐるみのまま給仕もするのだろうか?


 やがて丸い盆に大きなグラスとケーキの皿を乗せた猫が、テーブルにそれらを器用に並べてくれる。丸いレースのコースターに乗せられた紅茶のグラス。白いお皿に乗ったレアチーズにかかった鮮やかな赤いソースに、思わずコクリと唾をのむ。

「ごゆっくりどうぞ」

 ネコの店員さんは柔らかな声でそう言うと、ゆらっと長い尻尾を揺らしながらカウンターの奥へと戻っていった。

 可愛い上に芸が細かい。


 ベビーカーを少し前後に動かし、グラスを手に取る。ストローをくるりとまわし、そっと加えて一口飲む。冷たさのあと、仄かな甘みとほんの微かな苦味が口の中に広がる。

「美味しい」

 喉が渇いていたからだろうか。大きなグラスなのに、あっという間に半分飲んでしまった。

 ほっと息をつき、今度はフォークを手に取る。白く柔らかなケーキを一口分切り取り、ソースをつけて口に運ぶ。ベリーの甘酸っぱい香りが鼻に抜け、甘く柔らかなケーキとほのかに甘いクッキーのような台の食感を楽しんだ。

 どこの店のケーキだろう? もしかしたら自家製だろうか? ベリーのソースは酸っぱすぎず、ケーキとよくマッチしている。

 また紅茶を飲むと、ケーキとよく合ってることがわかった。

 もう一口ケーキを食べて、紅茶を飲む。

「美味しい」


 無意識に春奈の頬がゆるみ、肩からも力が抜けるのを感じた。

 窓の外には人気のない芝生の広場が見え、いくつかベンチや遊具が見える。

 カウンターの方に目をやると、ネコの店員さんがニコッと笑ってくれる。


(不思議の国に来たみたい)


 目の前にはスヤスヤと気持ち良さそうに眠る我が子。美味しいケーキとアイスティー。風が気持ちよくて、久々にリラックスした春奈は、ふっと眠気が襲ってくるのを感じ、深呼吸をして眠気を退ける。

 自宅でもこんなふうに過ごせたらいいのにと、少しだけ泣きたくなる。それでも帰って夕飯の支度を始める頃には、またこの子は泣き始めるのだろう。


「かわいいわね。お子さん、何ヶ月?」

 店員さんから突然声をかけられ、とっさに、もうすぐ四ヶ月になると答える。夫以外と話すのが久々で嬉しかった。何気ない会話が恋しかったのだと、その時まで気づいてなかった。いや、気づかないふりをしていたのだ。

「いい子ねぇ。お母さん、がんばってるね!」

「あ、ありがとうございます」

 目を糸のように細くしてそう言ってくれる店員さんの言葉が嬉しくて、重かった心が嘘みたいに軽くなった。


 がんばってるね。

 うん、私、がんばってたんだ。

 当たり前だけど、当たり前のことなんだけど、言葉にしてもらえるのがこんなに嬉しいなんて知らなかった。

 お母さんなんだから、奥さんなんだから。

 わかってる。わかってるの。

 でもでも、全部初めてなんだよ。初心者なんだよ、不安なんだよ。

 ただ話を聞いてほしいの。

 うんうん、大変だったねって寄り添ってほしいの。

 それだけで私、きっと頑張れちゃうの。

 

 蓋をしていた心の奥から自分の声があふれてきて、春奈は思わず手を口元に当てた。

 なんでもない会話をポツポツとしながら、心の中からはボロボロの本心がこぼれ落ちてくる。その傷ついた気持ちの塊は、店員さんの声にくるっとくるまれてふんわりと軽くなった。


 不思議だな。

 不思議の国だからかな?


 ケーキと紅茶がなくなっても、なんとなく席を立ちたくなかった春奈は、ふとカウンター前にあるテーブルに目が止まる。そこには小さなカードが何枚も置いてあった。


「よければ作っていきますか?」

「作る?」


 店員さんの言葉にキョトンとする。

 その時、すやすや眠っていた子どもが「ふぇ……」と声をあげた。

「あら、赤ちゃん喉が渇いたのかな? ミルク? あ、母乳なのね。授乳コーナー使う?」

「あるんですか?」

 早く帰るべきだったと後悔し始めていた春奈は、ネコ店員さんの言葉に目を丸くした。当たり前のように差し出された言葉が信じられなかった。

「ありますよ。どうぞ」


 店の一角にある授乳コーナーは、もとはウォークインクローゼットだろうか? 一畳ちょっとの空間に小窓と籐の椅子が置いてあるだけの小さな部屋だ。

「中から鍵もかけられますからね。ごゆっくりどうぞ」


 授乳コーナーに入ると間もなく、店内ががやがやと賑やかになってきたのが分かった。

 他のお客さんが来たらしい。

 漏れ聞こえる声から、店員さんの名前は「ミャーコさん」のようだ。もしかしたら「みやこさん」かもしれないが、ネコだからミャーコさんでもいい気がする。

 テーブルの横にベビーカーを置いたままにしているためか、小さな子どもが「赤ちゃんきてるの?」と嬉しそうな声を上げるのが聞こえた。どうやら常連の親子連れが複数いるようだ。

 それでも授乳コーナーは、隔離された安全な世界のような感じがする。思いのほかゆったりと過ごすことが出来た春奈が授乳を終え、子どもを抱いてそっと店に戻ると、四組ほどの親子らしき客が小上がりの畳コーナーで何やら工作をしているのが目に入った。子どもは思ったよりも大きい子で、ランドセルが置いてあるのを見ると小学校の低学年といったところか。


 たちまちその子たちに囲まれた春奈は、「赤ちゃんカワイイ」の合唱に微笑んだ。

「ねえねえ、お名前なんて言うの? 女の子?」

「そうよ。玲奈れなです」

「「「れなちゃん! かわいい!」」」


 興味津々と言った様子で我が子をのぞき込む子どもたちは、よく躾けられているのか、少し距離を取って誰も手を伸ばしたりしないことに春奈は気が付いた。


「今からカード作るの。玲奈ちゃんママも作るでしょ?」

 当たり前にようにそう言った女の子の手には、ピンクやブルーの色画用紙が数枚握られている。


 戸惑う春奈に周りのお母さんたちが、この店では月に数回ワークショップが開かれていることを教えてくれる。何を作るかは毎月違って、季節によって色々な工作をして楽しむらしい。

 基本は自由参加で先着順。この時間は小学校低学年の子ども中心の「サンキューカード」作りなのだそうだ。

「赤ちゃんがいるなら、第一第三水曜の育児サークルも見学してみるといいよー」

 三歳くらいの男の子を連れたお母さんがそう教えてくれる。

 この近辺は育児サークルが多いのだそうだ。主に口コミなので、ホームページなどはないらしく、春奈のようによそから来た人間にはありがたい情報だった。


 そのまま成り行きでカードづくりに参加することになった。小上がりの畳のコーナーに敷いた座布団に娘を寝かせ、様子を見ながらやればいいよと誘われたのだ。

 数百円でキッドを購入し、みゃーこさんの指導の下、入っていた紙にパンチで穴をあけたり、あらかじめ準備されていた花を貼ったり。みゃーこさんはネコの手とは思えないほど、器用にお手本を見せてくれる。

 着ぐるみは脱がないのだろうか?

 それともネコに見えるのは春奈だけなのだろうか?


 作業時間はほんの数十分。

「春らしいカードができましたね」

 子どもも大人も夢中になって作ったカードはどれもかわいらしい。

 それは、手のひらに収まる小さな春。

 このカードに、何とメッセージを入れようか。

 夫にありがとう?


 夫の顔を思い浮かべ、春奈はにっこりと笑う。

 今日は少しだけ話を聞いてもらおうと思った。素敵な場所を見つけたのだと。

 この街を好きになれそうだと。


(ミャーコさんがネコでも人でも、どっちでもいいか)


 ふと、春奈はそんなことを思う。

 着ぐるみかもしれないし、違うかもしれない。

 でも周りを見ると彼女は当たり前にそこにいる。みんなに受け入れられていて、春奈たちのことをさりげなく輪の中に入れてくれた。まるでずっと前から春奈がそこにいたかのように。


 それは春奈からすると魔法のような大きな出来事だったから――。

 だから今は彼女が人かネコかなんて、とても小さいことのような気がするのだ。


 春奈は皆で作った小さな花のカードと、ミャーコさんたちに書いてもらったサークルの予定表を大切にカバンにしまった。

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