第8話 春のまぼろし
あのまま、死んでしまったかと思ったのに、僕はベッドの上で目が覚めた。
二階の僕の部屋だ。
あれだけ殴られ蹴られした傷や打撲は手当てされているようで、ところどころ包帯や湿布を巻かれていた。
「全く、馬鹿なことをしてくれたものだ」
僕は声のした方向を向く。
「父さん」
「お前がここまで馬鹿だとは、思わなかった。
母親から松平千代はダメだと聞かなかったか?」
「聞いてました。しかし……」
僕は、ベッドの上で起き上がりながら、反論をしようとしたら父から睨まれてしまった。
「松平は、莫大な借金をしていた。
その借金はもうすでに、あの娘の婚約者が返している。
この意味がわからんほどお前も馬鹿じゃ無いだろう?」
何も言わない僕に、父は溜息を吐く。
「あの資産家は、銀行経営もしていて、政治家にも顔が利く。
うちとしても、敵には回せないお人だ。それと……」
父にしては、珍しく言いよどんでいる。
「伸也。お前は内親王の婿候補リストから外れた。皇室のご意向だ」
なるほど、僕にもう先はないって事か……。
なら、最後の質問くらいは許されるだろう。
「松平千代さんは、どうしてますか?」
「ああ。松平家で子どもを産んで、その子が男でも女でも、松平の跡取りになるそうだ。
最初から、あの資産家の息子との子でも、最初の子はそうする予定だったそうだからね。
その後に、千代さんはあの資産家の息子の妾になるそうだよ。
ただ、条件があるそうだがね」
「条件……ですか」
父から小さい包み紙を渡される。中には粉薬が入っているようだった。
「存外、松平千代に惚れていたみたいでね。お前のことは、どうしても許したくないそうだ」
僕は、手の中の三角に折られた紙を見詰める。
「身の処し方は分かっていると思うが、別にそれを使わなくてもかまわない。
ただ、世間的には、お前は死んだことになる。もう仕送りも無いし、通いの家政婦も解雇した。この世に、お前の居場所は無いよ」
父は、最後に僕の肩をポンと叩いて部屋を出て行った。
傷が癒え。
季節は巡り、また春が来た。種が落ちているのだろう、手入れもしないのに雑多な花が咲き乱れる。
『綺麗ね』
そう言った君はもうここにはいない。
千代さんの身柄は、まだ松平家にある。子を産んだ後の処遇は、決まっていない。僕がまだ生きているから。
一年……千代さんに出逢ってから、まだ一年しか経っていないのに、遠い昔のようだ。
僕は、あの日以来上がっていない三階に上がっていった。
グラスに入った水とあの粉薬を持って。
部屋の扉を開ける。千代さんがベッドに座って笑いかけてくれる幻がみえた。
千代さんのにおいが微かに残ったベッドに入る。
大丈夫、内側からカギもかけた。もう、誰も入ってこない。
ねぇ、千代さん僕は君が憎いよ。
僕の元から去ってしまった君が……。それが例え僕のためだったとしても。
憎んでも……憎いと思おうとしても……それでも願ってしまうんだ。
なんでだろうね。もう、綺麗な気持ちで君を想うことなど出来ないのに。
それでも……。
それでも、君の幸せを
それが僕の命と引き替えでもかまわないと思う程には、僕は君のことを愛してたんだろうね。
僕は粉薬をあおり、グラスの水で飲み干した。少し苦い味がした。
「くっ、うっ」
あまりの苦しさに、シーツをつかんでしまった。
なるべく乱れたくない。苦しまずに逝ったっと思って貰えるように。
なけなしの矜持だけれど。
苦しみはいつしか遠のき……後は闇が広がるばかり……。
リーンゴーン。リーンゴーン。
誰だろう? 僕の眠りを妨げるのは……。
とうの昔に壊れてしまっただろう呼び鈴が鳴っている。
僕は、スルッとベッドから降りた。白いシャツに黒のズボン。
あの毒薬をあおった時のままの姿だ。
ふと、ベッドを見る。青白い細身の男が寝ている。確かに僕は死んでいる、だけど、こんなにも遺体が腐食無く綺麗なままで残るものだろうか。
リーンゴーン。
しつこいな、まだ鳴っている。
ドアノブに触れるだろうか? ……そんな疑問も一発で解消した。
普通に触れる。逆に幽霊みたいに浮遊とかは出来ないようだ、人間と変わらない。
試してみて、階段から落ちかけた。
「はい。どちらさま……」
玄関の扉を開け、僕は絶句した。訊くまでも無い。
僕の……僕と千代さんの子だ。いくつなのだろう、もう、結構中年みたいだ。
仕立ての良いスーツとコートを着ている。太っていて頭も少し禿げかけている中年男性が立って居た。
空を見ると雪がちらついている。
「桜井伸也さんのお宅は、こちらでよろしいでしょうか」
「ええ」
僕の声がうわずっている。嬉しいんだ、こんな僕に会いに来てくれて。
「私は、松平千代の息子で、拓也と言います」
「拓也……くん。寒い中よく来てくれたね。さぁ、中に入ってくれたまえ」
洋館の中は時が止まったように、僕が死んだときのままだった。
暖炉の薪も湿気て無くすぐに火を起こせたし、茶葉もそのまま使える。
何よりも庭の花が咲き乱れている。この、小雪舞う真冬なのに……だ。
「あの……拓也くん」
そう僕が呼ぶと、拓也くんは少し苦笑いをした。
「分かっては居たのですが……その姿で、くん付けで呼ばれるとなんだか不思議な気がします。お父さん」
「僕が……わかるのかい?」
「ええ。母と写真館に行ったことがあったでしょう? あの写真の男性の方にそっくりだ。
写真は、妾になるときに持って行くことを許されず、僕の手元に置いてました。
ずっと、この男性は誰だろうと思って。
母が亡くなるときに、そっと教えてくれたんです。
そして、ここを訪ねたらそのままの姿で、あなたが居ると言ってました」
そう言って、すっとテーブルに数冊の通帳を出してきた。
「全て、『桜井伸也』の名義になっています。これで、僕の子孫……多分、孫かその先の子どもになると思いますが、一度だけ助けてやってくれませんか?」
「僕がそんな先まで居る保証は無いが」
「母からの遺言なのです。『私が死んだら伸也さんのところに、これを届けてお願いしてちょうだい』って……まぁ、来るのに十年かかりましたが」
「そう」
千代さんは、十年も前に亡くなっていたのか。
「うちの呉服屋も戦後の高度成長の波に乗って、ようやく立て直すことが出来ました。だけど、今後また何があるか分からない。
その時に、母は、自分の
「そう……」
千代さんらしいな。どんな場所でも、どんな逆境の中でも前向きに行動していた。
僕なんかを好きになってしまったせいで、不幸になってしまったというのに。
「僕と母の賭けだったのです。ここに来て、真冬でもこの庭に花が咲き乱れていたら、あなたは出てくるだろうと」
庭の花? 拓也くんの言葉に、思わず庭を見てしまう。
この寒空に、無節操に咲き乱れる花々を……。
「そう……わかった。これは預かるよ。
約束だ。必ず保護する」
僕はその通帳を預かった。目の前の僕の息子は笑ってくれた。
中年のおじさんなのだけど、その笑顔には少し千代さんの面影があった。
少し雑談をした後に、玄関先まで見送る。
彼は、車に乗る間際にこう言った。
「庭に母が居ます。役目が終ったら母を探してあげてくださいね」
拓也くんがそう言うと、運転手が後部座席のドアを閉める。
そして、車は発進し去って行った。
僕は、玄関先で見送った後、傍目には消えたように見えただろう。
自分の身体に戻り、また眠りについた。
だけど、どうやら僕は、まだ永眠するわけにはいかないらしい……。
おしまい
ここまで、読んで下さって、感謝しかありません。
ありがとうございました。
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