新入生歓迎号2020
実践女子大学現代文学研究部
始まりとアップルパイ
Ⅰ 魔女と夕暮れ
「お姉さん、魔女を知らないの?」
帽子を被った少年は、純粋な瞳を私に向けた。お使いだろうか、抱えた紙袋の中には小麦のパンが詰め込まれていた。
「森の奥には魔女がいるんだ。霧で子供を迷わせて、攫って食べてしまうんだよ。だからね、絶対に森に入っちゃ駄目なんだ。暗くなる前に家に帰って、ちゃんと良い子にしていなくっちゃ」
分かった? と指を向けられれば、私は頷くしかない。後数十分程経てば、空は橙色に染まるだろう。そっとしゃがんで少年と目線を合わせる。そうして、柔らかく微笑んだ。
「偉いね。きっと君には……魔女は、手を出せないよ」
少年は、嬉しそうに笑った。
それから、いくつか店を回った。古本屋を出る頃には、空はすっかり橙色に染まっていた。少年も、きっと他の子供達も、家に帰る時間だ。御伽話の悪い魔女に、食べられてしまうから。
「だけど、私は子供よりも」
夜を告げる風が肌を掠める。長い髪を抑えて、林檎の入った紙袋を落とさないように抱えた。そうして私は、街に背を向けた。
「アップルパイの方が、好きだな」
暗い森が、私を出迎えた。
Ⅱ 絵本と出会い
大国が滅びて、分裂して、発展して、革命が起こって、滅びて、発展した。何百回目かの新たなる一歩を踏み出した世界は、今日も平和だった。刻を数えるのは止めた。魔術師は史実となり、伝説となり、言い伝えとなり、そうして御伽話になった。子供を躾ける合い言葉として、辛うじて息をしていた。
「『勇者と森の魔女』……いつの話だろう、これ」
古本屋で買った絵本を開くと、人間の勇者が悪い「魔女」を倒そうと森へ行く話が綴られていた。致命傷を負った魔女は森の奥深くに逃げて、二度と姿を現さなかった……なんて、後味の悪い結末を迎えている。
「……勇者、魔女を倒さないんだ」
二、三回ぺらぺらと繰り返し読んでみても、やっぱりおかしな話だと思う。小さな小屋の中で、誰にでもない言葉が零れて落ちた。
四回目、表紙をめくろうとしたその時。コツン、と扉を叩く音が聞こえた。驚いた。こんな所に誰かが来るのは、一体いつぶりだろうか。飲みかけの紅茶を置いて、私は扉の方に向かった。
開いた先には、誰もいない……いや。目線を下げると、見慣れぬ姿の青年が倒れ伏していた。
「えっと、誰?」
恐る恐る様子を伺う。息はあるし、毒が回っている訳でもない。霧にあてられた様子も見られない。
「重症だ……」
微かに聞こえる、青年の声。外傷も見当たらず、それでも具合は良くなさそうで。
「大丈夫……? 何が、あったの」
「これは命に関わる……」
震える手を伸ばしてくる。どうしよう。頭の中で薬草の数々を思い浮かべながら、一先ず彼の手を握った。
「大丈夫、できる限りの事はする。……何が、あったの?」
私の言葉に、青年はやっと顔を上げた。弱々しく開かれた瞳は美しい緑色だった。よく見ると、額には二本の角が煌めいている。
そうして彼は、漸く答えた。
「…………おなか、すいた……」
Ⅲ お兄さんと長い刻
「いやぁ、助かった! 危うく見知らぬ土地で野垂れ死んでしまう所だったよ」
出来たてのアップルパイを頬張りながら、角の生えた青年は満面の笑みを浮かべた。暖かなハーブティを淹れるべく銀色のケトルを取り出しつつ、私はひとつ溜息を零した。
「……どうして、此処に?」
「ウーン、何でだろう。僕はただ散歩をしていただけなんだけど」
環軸外に迷い込んだかなぁ、と難しい言葉で考え込んでいる。その出で立ちからは、少なくとも街の人間ではないという事しか分からない。前が空いた衣服はワンピースの様だけど、袖にも多くの布が使われた不思議な形をしている。額に光る二本の角は、ドラゴンの様に鋭くもなければ魔物の様に曲がりくねってもいない。彼いわく、半鬼という種族らしいけれど。
「お兄さんが怪しい者に見えるかい?」
水を暖める私の背中に、見透かしたかの様な声が降り掛かる。少し考えた後、私は小さく首を横に振った。
「分からない事が多いのは確かだけど……少なくとも、道に迷ってお腹が空いているのは事実でしょう」
湯気の昇るケトルを前に、私はかざしていた手を下ろした。カモミールとオレンジを使ったハーブティは、きっと気持ちを落ち着かせる事ができるだろう。
「……それに、できる限りの事をすると言ったから。此処が知らない所なら、きっと元の場所に帰りたいよね」
「ふふ、優しいお嬢さんだ。まあでも、僕は言う程不安じゃないさ」
ハーブティを持っていくと、御兄さんは悪戯っぽく目を細めていた。
「迷子である以上に、誰かと話をするのは随分と久しぶりだからね。こうしているだけでも嬉しいものだよ」
そんな事より、と御兄さんは顔を上げる。黒髪に輝く金色の髪飾りが、シャラリと揺れた。
「この林檎のパイ、おかわりが欲しいのだけども」
Ⅳ アップルパイと始まり
夜のお茶会は続く。沢山買ってきたはずの林檎がもうなくなってしまいそうだ。何度目かの「おかわり」を受けて、私は炎を灯した。
「……こんなに食べて、大丈夫?」
「大丈夫だとも、お兄さん年中空腹だからね!」
カラカラと笑うお兄さん。彼もまた、長い長い刻を過ごして来たらしい。――最も、私の見てきた世界とは全く違うものみたいだけど。少しだけ、私と何かが似ている気がした。
「帰る場所は追々見つけるとしてだ」
ふと、視線が絡む。真剣な顔つきの割に、片手にまだ残っているパイの欠片がやけに可愛らしい。
「暫く、共に過ごしてはくれないかな?」
予想していた、その言葉。何も変わらない、変わるはずがないと思っていた時間に、新しい風が吹いたような。言葉にできない気持ちが駆け巡って、私はやっと微笑むことができた。
「どうかよろしくね」
――交わらない世界のお話が、絡まった物語。
そんな世界の、はじまりはじまり。
(藤崎 白楡)
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