すってんコロリ

@kazuchun

すってんコロリ

 「平日夜に実施しておりました熊野町ランニング会ですが、コロリウイルス感染症流行のため、無期限の活動停止となります」

 との張り紙が自治会の掲示板に貼られたのは、全国的に自粛ムードの広がり始めた4月頭のことで、すっかりランニングフリークになっていた近隣住民たちは大きく落胆した。この決定をした上田恒彦うえだつねひこも、自分が来ずとも走るようになっていたほどランニングに熱中していたランニング仲間たちのことを思うと、断腸の思いであったが、普段参加してくれていた全員に伝わるように、一軒一軒にもチラシを入れた。

 結局、このコロリウイルス騒動は、夏までくすぶり続けた。子供たちも学校には行けるようになったものの、週に三回のみで、登校時間を分けているし、ほとんどの公園は封鎖されていて、何週間も会えない友達も多く、フラストレーションがたまっていることは目に見てとれた。ゲームにすら飽きた子供たちは、多少の勉強をし始めるまでになった。恒彦には、高校一年の娘、未来みらいと、小学三年の息子、陽太ようたがあったが、未来の父に対する当たりの強さはコロリの蔓延に比例して少なくなったのに加え、陽太はたまっていた通信教材の課題をすべて終わらせ、いつのまにか四則演算は完璧になっていた。どれもこれも家族が常に家にいるという奇妙な状態が生み出したのだ。未来は、常に反抗し続けることよりも、テレワークの父と共存することを選び、陽太は母親にガミガミ言われることや姉からのいじめへの防御策として「勉強をする」ことを選んだのだ。恒彦は人間の適応能力の高さに感心した。

 家の中の全権は母、輝美てるみが担っていることは、家族議会の承認なくして明白であり、臣民であるほかの家族三人はひれ伏すように母に従っていた。外出が制限される中で、最も問題となるものは何か。それは食事である。こんな災禍のなかでも、立派な食事を作る母に異議を唱えられるほど、この家に貢献しているものは誰もいなかった。しかし、恒彦含めほかの家族は知っていた。輝美は自分に逆らうことができないように、コロリ以後から明らかに豪華な料理を作っていた。

 恒彦の生活はどうであったかというと、仕事はテレワークと言っておきながら自宅待機も同然で、自分の部屋でオンライン麻雀をしたり、懐かしきドラマの再放送を観たりする日々であった。電気代節約のため、エアコンの使用は停止され、扇風機と保冷材で酷暑をしのぐ日々で、家族との会話はほぼなくなり、無駄に豪華な食事の所為で腹の脂肪はだいぶ増えた。家族のだれよりも怠惰な日々を過ごしていた。

 その日も、はっとするといつの間にか夜になっていた。シャワーを浴びて、ベッドへ向かった。寝室は妻と同じで、輝美はもう寝ているようだった。輝美が開けたのであろう窓から、気持ちの良い夜風が入り込んでいる。その風を膝から下で感じるように、薄いタオルケットをずいぶんたるんだ腹の上にかけた。

 ぎりぎり窓を通して見える十三夜月を見ながら、恒彦は腹をさすった。まだ自分は42歳だというのに。

 恒彦はランニングシューズを履いて外に出た。


 驚くことに、真夜中だというのにいつもの土手には知った顔がたくさんあった。

「上田さんじゃないですか。もしかして、あなたもしびれを切らしてきちゃいましたか。」

 まず最初に会ったのは二つ隣の岩田さんで、いつものポーチを腰につけて、もうだいぶ走っていたようだった。

「いやあね、もう3か月近く走ってないでしょう。ときどき子供と外に出て体を動かしたりしてたんですが、どうも腹が出てきてしまいまして。そこで今日、風が気持ちいものだから、久しぶりに行ってみるかと。まさか、岩田さんがいるとは。」

「そうでしたか、私も4月から暫く走っていなかったんですが、煙草ばかり吸っていたら、家内に家の中で禁煙を宣告されちゃいましてね。どうもフラストレーションがたまるので、それじゃ、走るか。となったわけですよ。そうしたら、おどろくことにほかの皆さん方もだいぶ走っているようでね。ほら。少し先に黄色の蛍光ベストを着て走っている人が見えるでしょ。あれ、後藤さんですよ。」

 岩田さんは少しスピードを上げた。恒彦はだいぶ息が上がっていた。

 それから、ランニング会にいたメンバーはほとんど皆、夜中にこっそり走っていることと、恒彦は一番最後に走り始めたことが分かった。もうこれでは中止にしている意味もなかろうと、非公式ではあるが、夜のランニング会は、真夜中のランニング会に姿を変えて再始動することになったのであった。


 コロリによる鬱憤を打破したいという気持ちは、どの人にもあったようで、いつも突飛なことを言って、周りから悪い意味で一目置かれている小林さんの意見に賛成票が集まった。かれこれ10kmくらい住宅街の中や河川敷の上を走ったのち、虫の集く街灯の下でクールダウンをしていた午前二時、小林さんは突然こんなことを言い出した。

「オリンピックは延期、子供たちの部活動の大会も中止、スポーツというものの力が弱くなってきた今、私たちでマラソン大会を開くなんてのはどうですかね。」

「それはいいですね。私は賛成です。久美はどうだい。」

「私もいいと思います。最近だいぶ体力がついてきたような気がするんです。」

 夫婦で参加している森山さんたちが真っ先に賛成した。

「いや、でもこのご時世にマラソン大会なんて、絶対に非難の的になりますよ。」

 恒彦は至極現実的なことを言ったが、小林さんはその言葉を待っていたようだった。

「それは、昼間に大々的にマラソン大会なんてやった場合です。真夜中にやればいいじゃないですか。現に、私たちはこうして結構な集団で活動してるわけですが、特に何にも言われていないわけですよ、そもそも人に会わないじゃないですか。」

 そのあとも続いた小林さんの話を、その場にいた10人は、全員大きくうなずいて聞いた。


 ついに当日となった。12,3世帯、総勢40人ほどの集団が真夜中に近隣の公園に集まった。開催されるのはちびっこ部門、お母さん部門、お父さん部門で、それぞれ公園内の3km弱のコースを一周、二周、五周するというコースだ。上田家からは陽太、恒彦が参加した。

 先導をしてくれた倉田さんによると、陽太は最初1kmはトップだったそうだが、着実に順位を落とし、最後は次走るお母さんたちの声援を一番受けて最後にゴールした。高学年も多く、初めての3kmであったというのによく走ったものだ。今はかたきの母親の膝の上で眠っている。

 さて、お母さん部門は大学まで駅伝をやっていた佐田さんがぶっちぎりの優勝をして、いよいお父さん部門だ。

「なんだか緊張してきましたね。」

 いつものよれよれのTシャツと100均で買ったような時計をつけた小林さんが笑みを浮かべた。恒彦は愛想笑いで返した。

 手首足首を一通り回し終わると、気持ちを整える間もなく、岩田さんの奥さんが旗を振り下ろした。

 一週目はお互い様子を見あうといった感じで、いつものランニング会と変わらぬ様子で一塊に走っていた。コース終盤の結構な傾斜の上りを登りきると、ランナーたちの妻と子供たちの姿が見えてきた。上りの後は緩やかな下りだ。

 ランナーの家族は父親へ大きな声援を投げかけている。家族の横を通り過ぎるとき、恒彦は手を振った。さっきまで居なかったはずの未来もそこにいた。

 二周目から、参加者の中で一番若い石原さんがペースを上げ始めた。ここから徐々に脱落していくものも現れ始めてきた。恒彦は岩田さんと並びながら、石原さんについていった。コースの途中からは、電燈が少なくなってきて、ほとんど真っ暗闇の中の道を走ることになる。汗がかなり出てきた。おそらく今日は熱帯夜だ。蝉の声が耳をつんざくように全方向から降りかかってくる。

 二周目を終えた頃には先頭集団は五、六人に減っていた。またも家族に手を振る。陽太が跳ねていた。

 三周目に入り、恒彦は、自分がかなり疲れていることを悟った、息が苦しい。やはり三か月のブランクは二週間やそこらで取り戻すことはできなかったか。岩田さんの肩に一瞬手を置いたのち、少しずつ先頭集団から離れていった。再び家族の横を通るときには、およそ30m程度離されていた。先頭から脱落して戻ってくる父親を見る家族の目線が怖くて、恒彦は家族の方を見ることができなかった。

「お父さん。頑張って、あきらめちゃだめだよ!ペース落ちてるよ!」

 陽太であった。3kmも走った後でものすごく疲れてるだろうに、こんな父親を応援するためにボトル片手に全力で走っている。陽太の投げたボトルをキャッチして水分補給をした。恒彦にもたらされたのは水分だけではなかった。恒彦はもう一度ギアをあげた。

 途中、少しずつ落ちてきた岩田さんを今度は逆の立場で見送るなどして、四週目の終わりには三位につけていた。再び手を振ろうと家族の方を見た。未来が大きな声を出して応援していた。

「お父さん!もう少し!」

 恒彦はもう一人抜かして、石原さんの真後ろについた。

「スパートで勝負だ。」

 息はかなり上がっていたが、夜風が出てきて、気持ちよく走れるようになってきた。石原さんはかなり辛そうだ。いける。恒彦は確信を持った。

 終盤の坂を超えて、緩やかな下り。スピードを上げる。石原さんに並んだ! このままスパートをかけ続けて、愛する家族の許へ!

 しかし、その瞬間であった。恒彦は下り坂に足を取られ、大きく転んだ。恒彦は立ち上がることができず、全員に抜かされた。目の前は手を振る家族たちから、蝉たちの潜む暗闇へと変わってしまった。

 駆けつける家族たち。恒彦は見せる顔がなかった。

「ごめんな。みんな。」

「いや、よかったよ。これで免疫がついたんじゃない?」

 陽太の発言の意図が分からず、ほかの三人はポカンとしている。

「すってんコロリ。もうコロリには罹らないね。」

 四人の家族は久しぶりに笑った。

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