幸福な王子の恋

さんずい

幸福な王子の恋

 私のクラスには「王子」というあだ名の男の子がいる。

 別に学園のアイドルとか、そういう意味合いではなくて、きっかけは国語の古田先生が彼に向けた言葉だった。


 その日、古田先生の授業に遅れてきたその男の子、藤川君が遅刻の理由を問われてこう答えた。

「電車の隣に座っていたおばあちゃんのなくしものを、一緒に探していました」

 普通なら、それはひどく下手糞な嘘で、先生も怒っていただろう。

 けれど、藤川君の場合だけは、それが当てはまらなかった。

 先生も、私たちもそれは嘘ではないのだろうなと思ってしまう。

 彼は、そういう人だった。

 古田先生は怒ったりはしなかったが、その代わりに重々しくため息をついた。

「藤川君、あなたは——『幸福な王子』のような人ですね。目の前に困っている人がいれば、惜しげもなく自分の身を削って助けようとしてしまう。先生は本当に、本当にあなたの事が心配です」

 古田先生は老紳士の雰囲気があって、声も大きくはないけれども不思議とよく通る渋い声をしている。それも相まって、その言葉はとても印象に残った。

 それは私だけでなく、他の皆もそうだったようで、その日から彼は「王子」と呼ばれるようになった。


 2学期になって、クラス委員の役職を押し付けられた私は、こちらも周りからの推薦でクラス委員になった王子と一緒に仕事をする機会が多くなった。

 そして冬に差し掛かったある日、放課後2人で委員の仕事をしていたふとした瞬間に、私は王子から告白をされた。


 委員の仕事を終えた夕暮れ時、この時期になるとすっかり冷え込む時間になって、私は首に巻いたマフラーを口元までずり上げながら、靴箱の扉を閉じた。

「香子ちゃん」

 背後からそう声をかけられて振り向くと、良く見知った顔のお姉さんがいた。

「静香さん」

 幸村静香。すらりとした長身でスタイルが良く、とびきりの美人で、優しくて気配り屋。年齢が一つ上の、自慢の幼馴染で憧れの人だった。

「委員のお仕事?」

 そう尋ねられて、私は頷きを返す。

「うん。意外と時間かかっちゃって。静香さんはお勉強?」

 二人で並んで学校を出ながら、質問を返してみる。

「そうだよ。今日は塾がない日だから図書室借りちゃった。受験生はつらいよ」

 大げさに嘆いて見せるが、すぐにくすくすと魅力的な笑顔を浮かべる。

「ね、王子からの告白、返事はしたの?」

 突然そう切り出されて、私はぐっと言葉に詰まってしまう。

 言いふらすつもりは毛頭なかったが、悩み事として抱えていたのを見透かされた静香さんにだけは、告白されたことを漏らしてしまっていた。

「……保留中」

「えぇ~、まだ悩んでるの? 私去年一緒に文化祭実行委員やったけど、あの子すっごくいい子よ。結構かっこいいし、頭もいいし、悪い所ないわよ?」

 分かってる。藤川君は多分、私が知っている男性の中では一番魅力的な男の子だ。実際、他の女の子にもてていることも知っている。それでも——

「他に、好きな人がいるの?」

 不意に、静香さんがそう尋ねた。

「……いない、よ」

 そう答えた私の顔は少し引きつっていたかもしれない。

「そっか」

 それでも静香さんは、ただ一言そう言って、優しく微笑んだ。


 返事を保留して、1か月が経ち、いつの間にか2学期も終わろうとしていた。

 その間、私は何度も藤川君と二人きりになったけれど、彼は決して告白の答えを催促することはなかった。けれど、私もそんな状態をずるずると続けるのが良くないことは分かっていて、焦る気持ちも日増しに強くなっていた。

 そして終業式を翌日に控えたその日も、夕方まで二人で居残って作業をしていた。

 作業を終え、藤川君が教室を施錠して、鍵を二人で職員室に返しに行く。

 慣れ親しんだそんなルーティンも、多分今日で最後になる。3学期には別のクラス委員が選抜されるはずだ。少なくとも私はそういう約束で2学期の委員を引き受けた。

 そんなことをぼんやりと考えていたから、

「あ、里中さん」

 前を歩いていた藤川君が立ち止まって振り返ったことに気付かず、頭からぶつかりにいってしまった。

 彼に抱き着くような形になっているのを自覚した瞬間、反射的に私は大きく後ずさった。

 あ、と思った瞬間にはもう遅かった。

 私は、あの藤川君に悲しそうな表情を浮かべさせてしまった。

「里中さん。僕は君がどんな答えを出しても受け入れられるから、後悔はないと思ったから告白したんだけど、」

 藤川君はそれでも優し気に、語り掛けるように話をする。

「君をこんなに追い詰めて、そういう風に傷ついた表情を浮かべさせてしまっているなら、やっぱり告白すべきじゃなかったなって思う。だから、忘れてくれても、いいよ」

「ちがっ」

 ダメだ。彼に、そんなことを言わせてしまってはダメだ。

「違うの。私、男の子と付き合ったことないから。ちょっと慎重になってるだけで。それに藤川君ってみんなから好かれてるから、私で本当にいいのかなって」

 焦りながらそんなことを口にするが、藤川君の表情は逆に陰るばかりだ。

 混乱して、何をどう言えばいいか分からなくなってしまった私に、藤川君は意を決したような表情を見せて、両手を私の肩に置いた。そして、何かを確認するかのように、ゆっくりと顔を近づけてきて——

「嫌っ」

 私は思わず彼の頬をはたいてしまった。

 そしてすぐに後悔する。彼の意図を察するのが、遅すぎた。

「僕は、素直で、自分自身をしっかりと持っている里中さんのことを好きになったんだ。だから、僕と付き合うために、何かを我慢したり、誤魔化したりする必要があるなら、すごく悲しい」

 違う。違う。懸命に頭を振る私に、藤川君からどこか見透かされたような視線を向けられる。

「ねぇ、里中さん。今、僕ではない誰とキスをしたいと思った? その人のことが好きなんだよね? その気持ちを、素直に、きちんと認めてあげて欲しいな。里中さんらしく」

「違う! 違うよ。私は藤川君が好き。恋人にもなれるはず。だってそうでなきゃ、藤川君でダメなら、私はこれから先一生男の人を好きになることができ、な、い……」

 私は手で口を覆った。顔から血の気が引いていく。とんでもない失言、いや、本音だ。この上なく醜い、私の、本音。

 私は男の子の中で一番好きな藤川君よりも、もっと好きな女性がいることを、認めたくなかったのだ。

「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい」

 私はあふれ出しそうになる涙をこらえようと唇を噛み締めて、顔をうつむかせる。

 こんなにも藤川君を傷つけておきながら、被害者ぶって泣くなんてことが許されるはずがない。

「ごめんなさい、藤川君。私はあなたとは付き合えない。私の恋愛対象は男の子じゃなく、女の子だから」

 思い返してみれば自明のことだった。今まで好きになった人、今一番好きな人。それが男性でないのは、まだきちんとした恋愛を知らないからだ。そう自分に言い訳をしていただけだ。

 気持ち悪い。勘違いだ。断るための口実だ。藤川君のことだから直接は言わないかもしれないけど、それでも私に向けられる視線に、その類の嫌悪感や疑念や怒りの色が混じるのは避けられないだろう。そう覚悟して顔を上げると、

「里中さん、僕は里中さんが好きな相手の人のことを知らない。その人が女性を好きになれる人なのか分からない。だから、簡単に里中さんを応援するとは言えない。だけど、里中さんはきっとこれから、他の人よりもたくさん勇気が必要で、たくさん傷つくことがあると思う。そういう時に、里中さんのことを知っている僕が、少しでも力になれる時があるなら、頼ってほしいな」

 あまりにも予想外の言葉をかけられて、私はひゅっと短く息を呑んだ。

 これはダメだ。彼は私が思っていたよりもずっとずっと「王子」だった。

 そして彼が答えを待つようにじっと視線を向けているから、私はかろうじて頷きを返した。

「うん、良かった。ありがとう」

 そう言って浮かべた彼の笑顔は、強がりでも誤魔化しでもなく、本心からほっとしたようなものだということが分かったから。

 涙をこらえることなんて到底できずに、私は子供のように大声をあげて泣いてしまった。



 教室の鍵は返しておくからと里中さんを先に校門まで見送った後、僕は職員室には向かわず、一度教室に戻った。少しだけ、一人になりたかった。

 自分の席に座ると、目を閉じて、ゆっくりと長い溜息を吐いた。

 自分の「王子」というあだ名は好きではなかった。優しいと言われることにも違和感しかなかった。

 僕は他人のためにしてあげられることのうち、自分がその負担を許容できることしかやっていない。状況によって助けたり助けなかったり、中途半端な手助けで終わってしまったり。そんなものが本物の優しさだろうか。本当の意味で優しい人というのは、自分の負担なんて考慮せず、他人を救うことに全力を傾けられる人のことではないか。例えば、飢えた人が目の前にいて、食べ物が何もなかった時、自分の腕を切り落として与えられるような。

 クラス委員の仕事中、ふとしたタイミングでそんな話を里中さんにしたら、彼女は呆れたような視線を僕に向けた。そして、

「そんな人が本当にいたとしたら、その人は立派な人格破綻者よ。自分だけじゃなく周りも不幸にするから、近づかないのが賢明ね」

すっぱりとそう言われた。

他にも、例えば委員の仕事のうち、里中さんの担当分を手伝おうとすると、それは私の仕事だから、と渋い顔になって拒んだり、それでも必要に迫られて手伝いを受け入れた場合は何とかしてお返しをしようとしたり。

 里中さんは素直であり頑固であり、そして変な遠慮がなかった。

 そういう所が僕にとって他の人とは違って見えて、いつの間にかそれを好ましいと感じるようになっていた。けれど、

「泣かせちゃったなぁ……」

 ぽつりと、独り言が口に出てしまった。

 それなら告白しなければ良かったのかと言えば、それも違う気がする。多分正解はないのだ。そうだとすれば、彼女を傷つけた分、彼女が幸せになるための手伝いができればいい。それで僕自身が傷つくこともあるかもしれないが、最終的にはそれ以上に嬉しいという気持ちが強くなる気がする。だから、間違いではなかったのだ。


 そんなことを漫然と考えていると、ガラガラと教室の扉が開く音がした。

 最初は先生かと思ったが、振り向いた先にいたのは、顔見知りの先輩だった。

「ここに居たんだ」

 目が合うと、ほっとしたように微笑んで、教室に入ってきた。

 このタイミングで会ってしまうと、少しだけ微妙な気持ちになってしまう。

 確証は全くないが、きっと里中さんの好きな人はこの人――幸村静香先輩なのだろう。

「久しぶり」

 僕が座っている席の傍まで来ると、彼女は少し躊躇した後、そう言った。

「そう、ですね」

 答えながら、内心首をひねる。

 確かに去年幸村先輩とは一緒の委員会にいたこともあって面識はある。けれど、わざわざこうやって話しかけにこられるほどの親密さはなかったはずだ。

 そもそも最初の一言からして、僕を探していたようにも聞こえた。そんな理由に心当たりは——あった。

 ひどく話しかけにくそうな彼女の様子を見ながら、それが正しいと確信して、僕は思わず天を仰いだ。

「もしかして、聞いてました?」

「……うん。ごめん」

 申し訳なさそうに、彼女は目を伏せた。

 納得のいく話だ。彼女からすれば、大事な幼馴染のセンシティブな秘密を、信頼できるかもわからない男子が知ってしまった。警戒して当然だ。けれど、

「あの、さ。藤川君、どうしてもう少し粘らなかったの?」

 彼女の言葉は全く想定していなかったもので、

「どうして、って……?」

 つい反射的に質問にオウム返しをしてしまった。

「男の子の中では一番好きって言っていたでしょう? それなら試しに付き合ってみても良かったじゃない。心変わりがあったかもしれないのに」

「でもそれで、心変わりしなかったら、きっと一番傷つくのは里中さんなんです」

「そう、かもしれないけどっ。じゃあ君はどうなるの? 納得しているの? 好きな子に男の子より女の子の方が好きだなんて言われて!」

「それは——」

 里中さんに対する侮辱だ。さすがに怒りが湧きかけてそう言おうとしたが、強烈な違和感があってそれを押しとどめた。

 幸村先輩の目には、思い通りにならないという苛立ちも怒りもなかった。あるのはただひたすらな、悲しさだった。

 ああ、そうか。彼女は僕を責めているわけではなく、何かを要求しにきたわけでもなく。

「僕を、なぐさめに来てくれたんですか?」

 そう言うと、彼女は大きく目を見開いて、ぐっと唇を引き結んだ。

「そんな、いいものじゃないよ。……だって、君が香子ちゃんと付き合ってくれればいいと思ったのは本当。香子ちゃんが険しい道に行くのを、君に引き戻してもらいたいって、勝手なことを思ってた」

 そう言いながらも、彼女からは失望や落胆の気配はしない。

「でもね。本当に香子ちゃんを任せてもいい子なのか、って君のことを見るようになって知ったの。君は私が思っていた以上に、他人の苦痛や悲しみに敏感で、自分の苦しみに鈍感で、そのくせ妙に意地っ張りで他人に甘えられない」

 僕にまっすぐに向けられた瞳には、悲しさの他に優しさやもどかしさやその他の様々な感情が入り混じり始めて、僕にはもうよく分からない複雑な色になっていた。

「だから嫌なの。こんなにも君が報われないことが。一人でそっと悲しんでいることが。どうしても許せなかった」

 そして幸村先輩は僕の手を取って立ち上がらせると、すっと抱き寄せて僕の頭をそっと抱え込んだ。彼女の背は僕よりも少し高いから、そうすると僕の顔は彼女の肩あたりに押し当てられることになる。

「あの、離してもらえますか」

 驚きでしばらく固まった後、そう口にすると、幸村先輩の肩がびくりと震えて、硬直する。

「こうされると、その、涙とか鼻水とかついちゃいそうで」

 耳まで真っ赤になるのを自覚しながら説明すると、今度は笑ったのか、彼女の肩が少し揺れた。

 そして、より強く頭を抱きしめられた。

「本当に、ままならないのね、恋愛って」

 耳元でぽつりと呟かれたその言葉は、涙声になっていて。

僕は小さく呻き声が漏れるのをこらえることができなかった。

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