【小説】月下楼門(げっかろうもん)

紀瀬川 沙

第一章

 南都は法性山般若寺に南面してたつ楼門は今宵、透徹した仲秋の月を浴びながら静かである。

 南都六宗の一つである律宗の流れを汲む、この仏刹は、治承四年十二月の末つ方、袈裟頭巾に法衣、法衣の下には腹巻をまとった興福寺衆徒、及び寺の東西にわたって廻らされた逆茂木もろとも、南都に先がけて灰燼に帰した。その後は古き都へ向かう都人を真っ先に迎える狐狸の寺となってあまたの星霜を経てきた。

 ところが最近、寺の艮の方角に癩者を撫恤する高僧が度々現れるようになり、この寺へもどこかの智識が立ち寄っては、何か腹案を練るような真面目な顔付きを呈してから帰ってゆくようになった。

 この寺は古伝に、高句麗からの渡来僧、慧灌が舒明天皇の御代に建立したと伝えられ、別伝としては『上宮聖徳法王帝説』に蘇我日向臣が建立したとの記述が見える。以上二つの相異なる伝承のいずれが真だとしても、ここが由緒正しき古刹であることに疑いを挟む余地はない。であれば、当代の猊下ばらが当寺復興の目星を探るのもうなずくことができよう。

 般若寺がかくのごとく因縁浅からぬ名刹であるに、依然この凄然たる廃寺にはまばらに訪れる沙門を除けば昼間でも人の気はなく、すでに本堂はおろか境内全体にわたって寺を征服しおおせた艾や金葎は次いで、寺に沿った街道の路傍へとその駒を進めている。

 このように今までおよそ六十年もの長いあいだ廃寺となっていた当寺には、昼間のうちに寺をおとなう高僧の尊き法力をもってしても悟ることのできない、ある秘密が存在していた。それは、今の御世にも寺を焼き続ける夕陽が佐保山より遙か西の方、遠く生駒山のかなたに沈み古き都が宵の口を迎えて初めて、あちこちから滲み出るようにして現れて来るのであった。

 月影が崩れかけた築地からやっとのことで土くれを一つ剥がし落とした折しも、広がった犬走りから強引に寺院内へ入ろうとする者どもが、自らが佩く刀でもって、同じく崩れかけた築地をその根元から砕いた。かようなことが毎夜、寺の八方で堰を切ったように始まり廃寺はたちまち緑林となった。ここ平城の古き都の北方には、いつの頃からか、細民や非人が集いきたりて大きな集落を形成するに到っていた。そして彼らのような、南都から抛擲されて奈良坂を上り、木津へ出ることなく留まった者どもは、互いに互いを慰藉し合い、ある精神的な部分での結合を有する一団となっていた。そんな彼らは漏泄なく、南都盆地への執着と嫉妬を宿痾のように抱えていた。したがって、彼らを束ねて統率するような求心力のある領袖がひとたび出現すれば、一朝一夕のうちにも南都はおろか奈良坂を踏破して洛中までをも擾し得る群盗が生まれる温床があった。

 そこへ、最近になって般若寺を根拠として夜な夜な人手を掻き集め、武具を与えては一団を率いて古き都へと寇をなしに下りてゆく、武家崩れのような人間が現れたのである。その者の名はつまびらかではないが、彼が率いる群盗に対して分け与える贓品の山は、群盗を加速度的に拡大するには十分であった。

 そして今や、夜の般若寺には賊の囂しき下卑な声と、彼らがつなぎとめた馬の嘶き、篝火の薪が焔の中で弾け飛ぶ音が響き、さながら、京から今にも押し寄せんとする平重衡の大軍を邀撃するがごとき勢いとなっている。

 日中に見れば、この寺の西方には街道が沿ってのびており、街道を隔てた先の広大な土地には、さびれた集落が見渡す限りに広がっているのが見える。その集落から、夜になるといくばくの人間が賊徒に化けて寺へと闖入しているのかはわからない。しかし集落のたたずまいを見れば、甍などを葺いた棟はなく、大多数が野分にすら吹き飛ばされそうなあばら屋であることから、そこの居住民らの窮態も想像するに難くない。

 そしていずれの時よりか、自らの利害を第一義として集まった群盗は、武家崩れの某を元締めにすえて組織化され、南都の北方に根を張る一大勢力となった。して夜ごと賊をくぐらすようになった楼門も、その建材が辻や焼け跡に転がる遺物であったためであろうか、あるいは匪賊の性根が染み入ったのであろうか、あたかも風雨を凌いで幾星霜のように古色蒼然として、偽りに身を委ねてたっていた。

 芸能者も多く含まれる人の群れは夜もすがら寺院内にて狂喜乱舞しては朝を迎えて四散するが、その不夜城ともいうべき盗賊どもの根城の様子は楼門まで退くともはや垣間見ることもできない。楼門から外の夜は、まったく閑散として寂寞が辺りを支配していた。

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