メラニン色素を奪われて

タケノコ

第1話

 角笛の高らかな音が寝台に鳴り響き、私は目を覚ました。ベットから出て部屋のカーテンを開け、朝日を全身に受けて伸びをする。一緒の部屋に詰め込まれたほかの九人もベットの上をのそのそと動いた。

 「ほら早く、今日もやることはいっぱいあるんだから。おきて」と私は声をかける。特にあさが弱いミレアには往復ビンタをお見舞いしてやりながら、布団をはぎ取った。ミレアは般若のような細い目を私に向けながら

 「まだ寝たーい。ねえねえ、年中働きづめで一日も休みがないんだよ? ブラックすぎて過労死しちゃう。もうちょっと寝ててもいいでしょ?」と不満をいう。

 「寝てていいわけないでしょうが、だいたい、一日も休みがないのを知っててこの学校にはいったんでしょ?そもそも仕事じゃないし、いまさらなにいってるの。ほら、早くいくよ」と言って私は部屋の扉を勢いよく開けた。

 「はあ、なんでエミリーはそんなに毎日、毎日、元気なの? せめて朝ごはんぐらい、先にたべてゆっくりすればいいのに」というグダグダとしたミレアの悪態が後ろからついてくるが、気にせずに隣の部屋でよれよれになった花柄のパジャマから丈夫なつなぎの作業着に急いで着替えた。水を一杯だけ口に含んで靴をはく。そうして、いつものルーティーンをこなし、宿舎をでて向かうのは森のほうに進んだところにある大きな獣舎だ。


 街からは少し離れた小高い丘にある獣舎は周りをぐるっと雑草に覆われ、そのコンクリートで固められた頑丈な壁が近くで見ると威圧感を与える。知らない人から見たら牢獄のようにも見えるかもしれない。獣舎の重い扉を強く押す。毎日、この瞬間が楽しみで仕方がない。ベットでぐずぐず寝ているなんて考えられないのだ。  

 扉の隙間から獣のにおいが漂ってくる。つばさの部分のぬれて湿った毛布のようなにおい。そして餌である野鳥の血なまぐさいにおいもする。ああ、このにおい。好きではないという人も多いし、確かに慣れてない人にとっては嫌いになっても仕方がないにおいだと思う。しかし、小さいころから慣れ親しんでいる私にとっては、こんなに安心できる匂いはない。

 

 私は獣舎に入り柵の中の一体の聖眼に駆け寄った。聖眼というのはするどい牙と鍵爪、大きな翼を持ち、鱗で覆われた強固な体を持つ哺乳類だ。鈍色の体に鮮やかに光る銀色の筋はこの地を守る神聖な輝きで、琥珀色の威圧的な目は未来を見通す力あるという言い伝えがその名の由来とされている。牙や鍵爪は数々の建造物を倒壊させ、硬い鱗は大砲の攻撃を受けても傷を負わず、自分が乗ったことがあるわけではないが、一秒間に一キロもの距離を飛ぶことができるという。この里の重要な戦闘用の獣だ。巨大なしっぽにはたかれるだけで人間は即死してしまうのだから、きっと獣舎の中を走ったと知られたらヨハン先生に、どしかられてしまうだろう。しかし、そんなことは気にしてはいられない。この時間を存分に楽しまないと。


 私はまだ赤子だった時にこの獣舎で発見された。どうしてそうなったのか、自分でも幼かったので全く覚えてはないのだが、聖眼の上に乗って眠り、手にはそのとき乗っかっていた聖眼の鱗を一枚、持っていたのだという。その一枚は今でもペンダントにして肌身離さずつけている。それから、聖眼の世話係のアスカに育てられたが、聖眼たちの餌や保護記録を書くのにいそがしかった彼女は聖眼の世話につきっきりだったので、いつも獣舎で聖眼の世話を手伝ったり、遊んだりした。聖眼たちの背に乗ったり、尾の部分の鱗で木材を切ってみたり、巨大な花冠を作って頭の部分にかけてあげたりもした。そんな風に過ごしていたものだから、同年代の友達というのは私には存在しなかった。そもそも、この見た目の自分が周りになじめたかどうかもよくわからないが…。この里の人たちはみな、赤色の髪の毛に黒色の目をしている。自分はというと、銀色の髪に灰色の目、どんなところに行っても自分は周りとはなじめず、ういてしまっていた。アスカはとてもよくしてくれたが、それでも聖眼たちの機嫌が悪い時にはどうしてもかまってもらえなかった。

 そんなとき、自分には聖眼という絶対的な友人がいる。ほかの人たちには特別な角笛で操ることしかできない聖眼が自分にだけはどんな暴力を振ることもなく、たたいてもこしょぐっても何もしない。機嫌が悪かったとしても、私が話しかけるとちゃんとご飯を食べたし、掃除のために場所を開けた。聖眼が私にだけそんな風に接してくれる、そのことだけが私の誇りであり、心の支えだった。


 そんな私も成長し、普通の里の子たちがそうするように学校に入らなければいけなくなった。もちろん私は聖眼の世話を学べる獣舎から近い学校に入ったが、それでも入る前と比べると一般教養の科目やクラブ活動をしなければいけない。それに、宿舎に入ってほかの子たちと生活しなければいけないので圧倒的に聖眼に触れていられる時間は減ってしまった。ここでの生活は、今まで獣舎と聖眼たちの世話係の宿舎との間を行ったり来たりするだけの生活しかしてこなかった私にはとても刺激的で飽きることはなかったが、聖眼たちと少しでも一緒に過ごしていたいという気持ちはかわらなかった。だから、朝のこの獣舎の掃除当番は私にとって特別なのだ。


 私たちがここでするのは、余計な音をたてないように気を付けながら一人が獣舎の上に載ってその天井の窓を開け、ほかの九人でそれぞれがうけもつ聖眼の部屋を掃除することだ。私は小さいころから一緒にいるセイを担当している。獣舎の中の聖眼の中でも特に体が大きく、目の琥珀色が深くて茶色がかっているのが特徴だ。私が近づくとちらっと私を一瞥し、瞼を閉じて鼻息を私にかけた。瞼を閉じてくれるのは信頼してくれている証拠だと勝手に思っている。最近は寒いので毛布を敷いているが、聖眼の体とこすれて擦り切れてしまうのでそれを取り換え、汚れが目立つところはブラシを使ってこすり、聖眼の住処に漂っていた香りを焚いて安心させる。最後に水と餌を取り換えて聖眼の口にはめられた枷を外し食事を見届けてまた枷を取り付ける。

 「エミリー手伝ってー」という声が獣舎に響いた。この声はミレアだ。

 「そんなに大きな声を出さないの」とたしなめるアリサの大きな声も聞こえてくる。数頭の聖眼が急に顔を上げてキュッキュッっと音を立て世話をしていた数人の慌てた声がした。

 「はいはい、どうしたの? 落ち着いて怖がらずに世話をしてあげれば大丈夫だっていつもいっているでしょう。びくびくしてるからいけないんだよ」と私はいいながら、ミレアが世話をしていた顔をぐるぐると振り回している聖眼から口枷を外した。ほかの聖眼たちともそれぞれの体調を確認しながら挨拶をして回る。ああ、これで朝の当番が終わってしまう。私はほかの九人と一緒に、後ろ髪を引かれるおもいでレンガ造りの校舎へと移動した。

 

 校舎は獣舎の近くにあるので町からは少し遠くにあり、四階建ての立派な校舎で校庭も運動場も完備されている。ここの里の人たちの髪の毛よりも茶色がかった赤レンガで組まれているので、青い空に良く映えて遠くから見てもその校舎は美しいと評判だ。それに、何といってもその特徴はこの里一番の蔵書を誇る図書館だろう。学校に併設されたそこには主に聖眼の飼育方法についてまとめられている本が何冊も収められている。聖眼たちは、昔からこの地で育てられているものではなく、その歴史は浅い。だから、その生態は最近調べ始められたばかりで、あまりその飼育方法については知られていない。ここにある本のほとんどは、私がほったらかしにされている間、世話係のアスカが必死になって書き記していたもだ。字を習い始めて、図書館に通うようになってから四年ほどはゆうに立っているが、まだ棚一列分の本しか読めていない。これでも頑張っているほうだとは思うのだが、全体の一パーセントにも満たないだろう。


 「それにしてもあんたってば、角笛も持たずにあんなに獣舎ではしゃいでいられるなんて、毎度のことながら感心させられるわ」と、朝食のパンを食堂のおばさんから受け取りながらアンナが言った。

 「だってエミリーは特別だもん」となぜかミレアが得意そうに答える。

 「うん、エミリーがいなかったらこんなに早く仕事は終わっていないだろうし、けが人が一人も出ていないのもきっとエミリーのおかげね。ほかの男子たちのクラスでは何人ものけが人が出たと聞いたわ。いつも女子だからってバカにしているあいつらが大人しく作業をしてたのかはわからないけど」と、アリサが続く。

 「聖眼はちょっとのことでは悪いことはしないからそんなに怖がらなくたっていいんだよ。きっと男子たちが何か聖眼の気に触れるようなことをしたからそうなったんだよ」と、私が答えると

 「私のおじさんは、聖眼の世話をしてる時に鱗を逆向きになでてしまって腕を失わなければいけなくなったわ。これで済んでよかったってみんな言っていたけれど。気を付けないと痛い目を見るわよ」と、クレアがまじめな顔をしていった。

 「わかってる」と私はそっけなく答えた。聖眼の世話を教わりたいといってアスカのもとに見習いに来た人たちが、世話をしている最中にけがを負ってしまったのは一人や二人という話ではない。そのうちの大半は帰らぬ人となるのが事実だった。

 「聖眼がいなければこの里を守るすべがなくなってしまうのだから」と幼い子供たちを説き伏せる大人たちを何度見てきたかわからない。だからこそこうやって学校ができたのだ。席についてパンにミネストローネをたっぷりとしみこませ、口に詰め込んだ。


 ミレア、アンナ、アリサ、クレハはこの十人の女子クラスの中で特に私と仲よくしてくれる四人だ。

 自由奔放で少しわがままなところのあるミレアは、小柄な背丈ということもあってかみんなの妹分として愛されている。少しさばさばとして明るいアンナは母親のように私にやさしくしてくれるし、周りをよく見ることができて先生からの信頼も厚いアリサは優等生として、聖眼以外の知識のない私にも根気よく勉強を教えてくれる。ミレアと私はどれほどお世話になってきたかわからない。それから、心配性で引っ込み思案なところもあるが自分を守り通すことのできるクレハはついつい個人行動をとりがちで偏った考えをする自分をちゃんと諫めてくれる大切な友人だ。この四人がいるおかげで私はこの学校で生活できているといっても過言ではないと思う。


 始業のチャイムが鳴り、教壇に立つ先生が一限目の授業を始める。授業用の大きな角笛を高く持ち上げながら運指順を教えていく。生徒一人一人が自分の角笛を手に持ち、先生の後に続いて同じ旋律を奏でる。時々、息が強かったり、指を間違えたりする不協和音が教室に響いた。小さいころからアスカが角笛をふくのを何度か聞いたことがあったが、一度も触らせてもらったことがない。一度、なかなか触らせてくれないアスカにせがんで見せてもらったことがあるが、吹いてみようと口を近づけると手から無理やりもぎ取られ、絶対に吹いてはいけない、ときつく怒られた。それから学校に入るまで一度も角笛にはさわることはなかったが、角笛にあこがれるようなことはなかった。それどころか、何でも言うことを聞いてくれる聖眼をなぜ角笛なんかで操らなければいけないのか、強制的に動きを封じたり、自我を失わせたりしようとすることが私には理解できなかった。

 授業に興味が持てず自然と視界が窓の外の獣舎に向けられる。そんな私の態度に気づいてか先生の声が一層強くなって

 「聖眼は、何度も言いますが、非常に獰猛で、脅威に満ちた、動物です」と言葉に間を待たせて語り掛けるように話す。

 「先日は、動きを抑える方法、自我を失わせる方法について学びましたが、今日は、体の部位ごとに動きを制限する、方法について、学んでいきます。皆さんもご存じの通り、聖眼の世話をしている際に、動いてきた翼や尾に、気づかずに、けがを負ったり、亡くなった方は数多くいます。全身を抑えるのは、聖眼にとって、大きな負担となりますので、今日教える方法は、一部だけ動きを止め、安全に聖眼とせっしていくために、知っていなくてはならない方法です。くれぐれもおろそかにしないように」という声がいやでも耳の中に入ってきた。まあ、まったく自分には関係のないことだと教科書をぺらぺらとめくる。いくつもの角笛の運指標がそこには書かれている。幼いころから獣舎に入り浸っていた私には聞きなれた旋律なので、使う必要がないとは言ってもだいたいは頭に入っているし、今日やる内容なんて、動きを止めたい部分を指定する旋律を体の動きを止める旋律とくみあわせるだけなので、覚えることこそ多いが仕組みは難しくない。はあ、なんて退屈な授業なのだろうとため息が出た。


 「はあ、なんであんなにも基本的なことばかり教えているのかしら。」と次の授業へ移動する途中にアリサが言う。

 「もう、あの運指標眺めてるの飽きたー」とぼやくミレアをよそに

 「ええ、なんでなんでしょう。早くほかの動きについても学習するべきだと私も思うのだけれど。」とクレハも言う。それよりももっと多くの子が小さいころから聖眼と触れ、慣れておくことこそ必要なことだと私は思う。そうすれば角笛なんか使わなくても安全に聖眼と触れることができるようになると思うのに。しかし、そんなことはだれからもみとめてはもらえないとしっているので私は口を開くことなくほかの子たちのやり取りを聞き続けていた。

 

 次の授業は歴史。教科書を机の上に広げる。

 

 この里の住人はもともと隣国の一部の都市に住んでいましたが、この渓谷に移り住んできた民族です。その昔、まだ隣国の一部だったころ、この民族は聖眼の飼育を国からおうせつかっている民族でした。代々この民族だけでその飼育方法を受け継いでいたのです。しかし、その力を使いたいと思う人が民族以外にも存在しました。危険を冒してでも無理やりとらえて獣舎から連れ出そうと計画したのです。そして、誰もいなくなった獣舎に忍び込みました。そこで具体的に何が起きたのかはいまもわかっていませんが、忍び込んできた者たちの行いが聖眼の気に触れ、民の人々が角笛を吹いても制御がきかなくなってしまいました。暴れまわり、獣舎を壊しただけでなく、どの民の里でも関係なく攻め、火を噴き、国全体の村々を倒壊させてしまったのです。慌てたこの里の民たちが火をかいくぐり、強制的に動きを止めたころには、あたり一面に焼け野原が広がっていました。その後、聖眼たちの暴走に責任を感じたここの民の先祖は国の再建に力を尽くしました。聖眼を操る以外の能力は持っているわけではありませんでしたが、民の中にしっかりと築かれた統制力で計画的に作業は進められたのです。

 町が元の姿を取り戻し始めたとき、事件の責任について話し合いが改めて執り行われることとなりました。聖眼の暴れ方からして聖眼を操ることができない者たちの仕業であったことは明らかでした。そのため、この民が企てたことでないことはほかの民も含め、誰しもが了解していましたが、忍び込んだのがどこの誰ともわかりませんでした。誰をさばくこともできなかったことで国の人々の不満は膨れ上がりました。ほかの里の人々からは、管理をしていたこの民に罰を与えるべきだという声が日に日に強まりました。しかし、聖眼を操るこの里の民たちの先祖にほかの民たちは下手に手出しをすることができず、せいぜいモノの値段を不当に高くして売りつけたり、ごみの収集と消却の役を押し付けたりといったことくらいしかできませんでした。しかし、大ごとになってしまう前にと、この里の民の先祖は移り住み、この渓谷の周りを深い霧で覆いました。


 「ああ、あんたは知らんよね」とアンナが言う。身寄りといえる身寄りがいない私には昔の話をしてくれる人といえばアスカしかいないので歴史の授業はなんだかちょっとおもしろいと感じられる、好きな授業のひとつだ。

 「うん。べつにほかの民からいじめられていたからって移り住む必要はなかったと思うの。聖眼を使って焼き払ってしまうとか、してしまえばよかったんじゃないの? それに、アスカから聞いてることとはちょっと違う部分があるのよ。聖眼の世話を国から仰せつかっていたとか、代々受け継がれていた、とか」と私が言うと

 「なかなか物騒なことを考えるのね。聖眼は確かに戦闘用の獣だけど使うにはやっぱりそれなりの事情がいるのよ。最終兵器っていう位置づけだからね。それにきっと先祖たちは聖眼たちを大切に思っていたから戦闘になんて使いたくなかったのよ。

 アスカさんとの話がつながらないっていうのは…よくわからないわ。アスカさんもこの国の歴史についてはちゃんと知っているはずなんだけど…」と、アリサが答えた。

 「でも…、アスカ以外にまともに聖眼を扱える人なんてほとんどいないし、図書館にもアスカ以外がかいた本ってあんまりないでしょ?」とわたしが引き下がらないでいると、

 「確かに、それはそうね。でも、聖眼が暴れたときにほとんど書物の類はなくなってしまったんじゃないかしら。だから書物は残っていないのよ。それに、ほかの民からは聖眼を使えるのがあの民たちだけでいることが一番の問題だと言って、ほかの民たちでも聖眼を使えるようにせがんだものがいたということは聞いたことがあるわ。だけどそれを決して許さなかったのよ。だから、ほかの民が聖眼を飼育することはできないと思う。それにこうやって渓谷の中で自分たちだけの生活を持てているほうがずっといいと思うでしょ?別に移り住んだからって悪いことばかりじゃないのよ」とクレハは教えてくれた。私はなんだかここの民ばかりが損をしているように感じられて全く納得がいかなかったが、

 「ねえねえ、早く、次はやっと座ってなくていいんだよ?」とミレアが私の手を引いて走り出したので強制的にこの話はおしまいとなった。


 今日は空に雲が薄くかかっていて外で活動するにはちょうどいい気温だ。風に吹かれるのがとても気持ちがいい。ふわふわと柔らかい土の上を風になびく雑草をかき分けながら進む。

 「皆さん、いいですか?」と右前方から姿の見えない先生の声が聞こえる。先生のカウントダウンの掛け声とともに足で地面をけった。ふわっと体が宙に浮く感覚が胸のあたりに広がる。直径が一メートルあるタンクに水を入れたものに乗り、空を飛ぶ訓練の授業だ。タンクはもちろん聖眼に見立てたもので、下手に動かすと中の水が暴れてしまい一つ一つの動きが大きくなってしまうので繊細な操作が必要とされる。

 「聖眼の背ではバランス感覚が必要とされます。気を抜かないように。」と先生の声がスピーカーから聞こえてくる。後ろではバランス感覚のないアリサが地面に突っ込んでいきそうになって慌てていた。

 「さて、ウォーミングアップから。」と声がかかり、校庭の真上を周回し、次に直線に飛んだり左右、上下にジグザグを描いたりして一通りのウォーミングアップが終わると

 「さて今日は急降下の練習です。地上百メートルの高さから地上五メートルの高さまで降りてもらいます。スタート地点はみな同じ場所からとします。最下点がここの線よりスタート地点に近くなるようにしてください。」という声がかかり、赤い線が今まで何もなかった空間に現れた。クラス全員で、地上百メートル地点に来てみると想像以上に高い。校舎も校庭も獣舎もとても小さく見える。最下点を示す赤色の線もギリギリ見えるくらいだった。


 「はあ、いきが止まるかと思った」というアリサ。

 「ほんと、ぜったいにあんなの使うことは一生ないわ。ああいうのを男子たちにやってもらえばいいんだよ」とアンナも続いていった。

 「また、やりたい」とはしゃぐミレアの言葉に、思い出したようにクレハは青ざめる。私はといえば最初こそ怖かったが、どんどんと変わる風景がとても気持ちよく、聖眼にのって自由に飛ぶことができたのなら、どれほど楽しいのだろうかと、思わずにはいられなかった。

 「聖眼にのって空を飛べたらきっと楽しいだろうな」と私がくちをすべらせると周りの四人は差異こそあれどみんなたしかに、と同意してくれた。青ざめていたクレハでさえもそれならちょっと楽しいかも、といってくれる。出会った頃はみんな聖眼をとてもこわがっていて、むやみに聖眼のことを話すことができず、せっかく聖眼のことを話せる人たちと出会えるかもしれないと思っていたのに、と不貞腐れたものだった。しかし、徐々にみんな聖眼のことを理解してくれるようになり、気持ちに少しの違いはあってもこうやって思いを共有できるようになったことが素直にうれしかった。

  

 昼食を食べに食堂についたとき、アリサがさっきの話の続きを切り出した。

 「はあ、でもまだまだ乗らせてもらえるようになるまでには3年間も勉強しないといけないんだよね。早く終わらないかな。今日の残り二時間もものすごく長く感じられちゃう」

 「今日って後は生物と数学だっけ?」と私が聞くと

 「はあ、また座ってないといけないの?数学とかどこでつかうのかよくわからないし、あの先生、授業中に寝ちゃいけませんっていうんだよ。ご飯の後はねるものでしょ?特に今日のクリームシチューみたいなあったかいもの食べたらそう思わずにはいられないでしょ」とミレアがいう。

 「授業中は寝るものではないわ。まあ、実生活で使うことはあまりないけど聖眼を操るときには距離を測ったり、どれだけのスピードが出せるかとか、どれぐらいで移動できるかとか、どれぐらいの力を出すことが必要なのかとか、いろいろと使えるところがあるでしょう」とクレハが言った。まあ、でも、そんなこと考えるよりも先に行動しちゃったほうが早いし、それが計算できたからといって役に立つことはないんだけどと思いながら、そんなことはクレハも知っていっているとわかっているのでなにも言わずに午後の授業についてぼんやりと考えていた。

 

 先生が黒板に大きくウイルスの絵を描いていく。

「えー、ウイルス、というのはですね。えー、」

 やたらと「えー」が多いのでだんだん何が重要なのかわからなくなってくる。

 「ウイルスというのはですね、えー、先日の、授業で習った微生物とは違う構造をしているんですね。えー、はい。

 遺伝子を持つ核酸と、えー、それを包むたんぱく質の、殻から、えー、構成されています。

 ウイルスに感染するときというのはですね、えー、ウイルスが体の粘膜に入り込んで、えー、その時に、体内の、たんぱく質に結合、えー、たんぱく質と結合することによって細胞に吸着するんですね。」

 「えー」の量にかかわらず何が言いたいのかわかりにくい。これはまたテストの前にアリサに泣きつくことになりそうだ。


 「次はやっと最後の授業だね」と、スキップしながら廊下を進むミレアがそう言った。

 「でもさっきの授業、意味が分からなさ過ぎてほんと疲れた。アリサ、またよろしくお願いします。はあ、次は数学…」とわたしが言うと、

 「はいはい、あれは確かにね。自分で勉強しておくべきね」とアリサも言った。

 「それにしても、ウイルスなんてここじゃなじみのない話よね。聖眼の世話をするための学校で、そんな知識、必要かしら」とアンナが独り言ちる。

 「一般教養の範囲内なんじゃ…、それとも聖眼がウイルスにかかるなんてことあるのかしら…?」とクレハが言う。

 「そんなことは…、だってあの聖眼だよ?」と私が言うと、

 「でも、細胞内に入るなら、聖眼にだってありえない話じゃないと思うわ。やっぱり私たちが学ぶ必要はあるのよ。でも、ウイルスの仕組みだけわかってもね。やっぱりもっと自分たちで学ぶ必要があるわ」とアリサがどこまでもまじめさを発揮して言う。

 「じゃあ、聖眼がウイルスに感染したときは、アリサ、お願いね」とミレアはいつも通り人任せだ。聖眼がウイルスなんて小さいものに負けてしまうとは到底思えないけど、もし聖眼がウイルスに感染してしまったとき、対応できない状態でいるのは怖かった。


 先生が黒板に書くかくかくとしたグラフをみているとなんだかグラフの形が聖眼の背の部分の凹凸に見えてきてあまり内容は耳に入ってこなかった。そういえば今朝の当番の時に獣舎の天井にある窓をしっかりとしめただろうか、と思い出してみる。しかし、どうがんばっても思い出すことができない。この教室からはみることができない獣舎のことで頭がいっぱいになってしまった。私はいてもたってもいられなくて教室を飛び出して獣舎へとかけた。駆け抜ける私の鼓動が止まらない。廊下をかける私の背中に友人たちの声と先生のよぼよぼの声が聞こえた気がした。しかし、そんなものが気にならないほど、教室を出た私にははっきりと聞こえているものがあった。聖眼が機嫌を悪くしたときに発する、キリッキリッという音。この音が聞こえたときには必ず死人が出た。私以外にそれを聞こえる人がいない音。聖眼たちに何かが起きている。いっそうはやる鼓動が苦しいが必死に走った。


 校舎を出ると、獣舎を取り囲む見知らぬ人々が見えた。衝撃的な光景に足が動かなくなる。獣舎には太いパイプが天井の窓から差し込まれ、壁や天井が中の聖眼が噴いた火で焼け落ちていた。町からは少し離れたところにある獣舎だが、騒ぎに気付いた人々がかけつけてくる。校舎の中にいた学生たちもぞろぞろと騒ぎの大きさに気が付いて校舎の外へと出てきた。獣舎を取り囲む覆面を被った人に里の男の一人が突っかかる。何やら話しかけているようだったがその声はよく聞こえない。覆面の男は、その男が近づく前に胸を、続いて腹部を、顔を撃った。銃声がこちらまできこえてくる。倒れてうごかなくなってしまった男を見て笑っているようだった。

「ああこれだから、この赤の民は」と話す覆面の男の声と里の人たちにどよめきが聞こえてくる。先生たちが生徒たちを取り囲み校舎の中へ避難するように誘導していたが、エミリーと自分の名前を呼ぶ声をよそに獣舎に向かって再び走った。


 もう獣舎はその原型をとどめてはいなかった。焼け落ちた獣舎に続々と見知らぬ覆面を被った人たちが入っていく。煙でよく見えないが、獣舎の外に残っていた覆面の男たちが町のほうへ移動しながら、武器や角笛を持った里の人たちをみさかいなく撃ち殺していく。銃声が鳴りやまない。学校の校舎からも爆発音が聞こえた。すると、今まで聞いたこともない聖眼たちの空を切り裂くような鋭い鳴き声が響き、その大きな巨体が空へと舞いあがった。その体には鎖が巻きつけられ、逃れようと動くたびに、翼の付けねの柔らかいところから血が噴き出した。なかには翼に穴がこじ開けられうまく飛べずにバランスを崩している聖眼もいる。里の人が必死に動きを止める旋律を奏でるがドラゴンにはもう聞こえてはいなかった。


 私は出せる限りの大きな声セイの名を叫んだ。瞬間、一匹の聖眼の体がビクンと揺れると動きを止め、顔だけがこちらを向きその琥珀色の目がこちらを向いた。キュイという鳴き声をあげると、鎖を使って近づいてくる覆面の男たちに火を噴く。セイがキュイッ、キュイッとなくたび、だんだんと聖眼たちの動きに統制が取れるようになり、ほかの聖眼たちも落ち着いて同じようにキュイッと泣き始め覆面の男たちを正確に狙って火を噴いた。しかし、まだ鎖が取れない。どんどん鎖が身に食い込み血の雨が降り注いだ。それだけではない。町からも火の手が上がり銃音と爆音がやむことはなかった。


 覆面の男が三人、私のほうに向かって走ってくる。ああ、見つかってしまった。私は一目散に森へと逃げた。霧の中に入ってしまえばいったん身を隠すことぐらいはできるかもしれない。町も校舎も逃げることができないとわかっていたので最後の望みの綱だった。


 足場の悪い森の中を一目散に逃げる。視界の悪いこの場所なら、身を隠すことはできるだろうが、念には念を入れ霧のこくなっているばしょをめざして走り続けた。しかし、期待とは裏腹に木がどんどん単調な高い木になり自分の身長のところにはあまり枝がなく私が身を隠せる場所がない。ここで見つかったら、確実に殺されてしまう。しかし、濃い霧が発生しているはずのところに来ても全く現れない。


 前方に黒い物体が見える。あれは何だろうと不思議に思ったがむやみに触れるべきではないと思って左前方へと体を傾ける。瞬間、ふくらはぎから太ももあたりに何かがこすれる痛みが走り、体がふわっと浮いた。ワイヤーのような丈夫な黒い糸で編まれた網が体の周りを取り囲んでいる。罠にかかったのだと瞬時に分かったがどうすることもできない。さっき見た黒い塊の中から里を襲ったのと同じ覆面を被った男たちが出てきたのが見えた。手で切れるはずもないその網を必死に引っかきながら近づいてくるその人影を目で追う。

「おい、こいつはなんだ?どこのどいつなんだよ。」という声が聞こえたきがした。私は気を失った。

 

 

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