第2話 一郎
とある夜―――。私はこっそり一郎の部屋に忍び込んだ。
一郎の部屋は、8畳ほどの和室だ。寝室としてだけ使うなら、それなりの広さはあるけれど、床に置かれた荷物が端の方から徐々に空間を狭めて、それらの荷物に囲まれるようにして布団が敷きっぱなしになっている。この部屋が片付けられていないのは、一郎が「そこは自分でやるから」と濁し続けたからだ。
掃除してしまいたい衝動に駆られる……けど、今日この部屋を訪れたのは、掃除のためじゃないの。
廊下で足音がした。一郎が風呂から上がってきたんだわ。ふすまが開くと同時に、私は小さく叫んだ。
「あっは~ん。一郎、抱いてえ」
豆電球のともる暗い部屋で、私はシーツだけを体に絡めて、この豊満な自慢の肉体を惜しみなく見せつけた。ちゃんと練習したのよ、この間延びした艶っぽい声も、体をうねらせたポージングも。
だって一郎ってば、もう一ヶ月近く一緒に住んでるのに、そういうことに全然興味ありませんって顔してるんだもの。私だってせっかく人間になったんだから、メスとしての喜びを味わいたいじゃない。
一郎は肩からタオルをかけて、入口で棒立ちなにる。ちょっとしてから、ぽかんと口が開いた。それから盛大なため息をつき、額に手を当てる。その一連の動作は、呆れ返った人の見本みたいだった。
「ミノ子ちゃん……ダメだ。ダメだよ。おそろしくダメだ」
「そ、そんなにダメダメ言うことないじゃない!」
一郎はドアのところに立ったまま、少し困ったようにして頭を掻いた。
そしてこんな風なことを言った。
「実はなミノ子ちゃん……俺、癌なんだよ」
―――……え?
「ガーーーーーン!!!」
ぱたり。布団に倒れこむ。やや間を置いてから、私はむくりと起きた。
「こんな感じかしら?」
「……まあそんな感じだったな、最初聞かされたときは」
彼は布団の横にあぐらをかいて、タバコをくわえて火をつけた。ゆっくり煙を吐き出し、出し切ってから話しを始めた。
「肺癌なんだ。親父も肺をやられたからなー。こういうのも遺伝するもんなのかねえ。余命も宣告されてる。とまあ……こういう事情があって、前の奥さんと別れたんだよ」
「奥さん、今はどうしてるの?」
「どうって……そうだな、ミノ子ちゃんは俺が死んだらどうすんの?」
一郎が死んだら?
その問いかけは、途端にして何もない閑散のコンクリートの部屋に、放り込まれたみたいだった。私の生活は、すでに一郎を中心に成り立っている。今の生活がだいぶ馴染んできたものだから、一郎がいなくなったこの家の中身を、うまく想像できなかった。
私にとってその光景は、現実世界から一線を画した、はるか彼方の空論世界だった。
「よく分からないわ。でも、もしそうなったら、はやく新しい寄生宿を見つけなくちゃならないわ。私、守ってもらわないと生きていけないもの」
「だろ? 前の奥さんも一緒だよ。新しい寄生先を探して、あっさり俺を置いてったよ」
灰皿を引き寄せて、灰を落とす。
「あいつに引き取られてった子供が心配だなー。ちゃんと新しい男は見つけたみてーだけど」
「子供までいるのね」
「まーねえ。これでも一児の父親だよ」
一郎に子供がいる。このことについても、私はそれほど憂慮しなかった。子供がいようが奥さんがいようが、関係ない。前のことじゃない。
「私は一郎のすべてを受け入れるわ。だから今夜、こうして待っていたの」
彼はなにか考えているふうに、天井に目を向けて、そこに煙を吐いた。やがて、まだ長いタバコを灰皿に押し付けながら「よし」と気持ちを切り替えるみたいに言った。
「そんじゃ、今夜は襲っちゃうぞー!」
「きゃッ……一郎ステキ!」
ガバッと覆いかぶさってきて、あっという間に押し倒される。けれども、一郎は私を抱き枕みたいに抱きしめるだけで、なにもしなかった。
「……ミノ子ちゃん、本当に抵抗しないんだな。おじさん困っちゃうよ」
「それはそうよ。でも一郎は、なにもしないのね」
「ほら、子供がいるって言ったろ?もうすぐ死ぬのに、子供を残していくのは心残りなんだよ。それなのに、こんな得体の知れない若いお嬢ちゃんと今から子作りしてどうすんだよっていう葛藤が、おじさんなりにあったりもして……万が一ってこともあるからなあ」
眠そうに瞬きをして、一郎はもぞもぞと口の中で喋る。
私はしばらくの間、彼の顔を見つめていた。それから、胸に顔を埋めてみる。自分の鼓動が聞こえ、一郎の心音が聞こる。一郎の腕の中は、とても窮屈で安らかな空間だった。
「いいの。さんざん大口叩いたけど、こうしてるだけでドキドキして、なにも考えられないもの」
「本当に変わった子だねー。俺のどこがいいのか」
「全部よ。あったかいわ。この匂いも、大好き」
目を閉じて鼓動を聞いていると、段々と一郎と自分とは、うまく折り合いをつけて溶け込んだ、一つの違った生物になったように感じられた。はたまた、私は彼のあばらの内側で、心音の部屋にひっそり丸まっている、秘密の寄生物になったみたいにも思えた。生めかしい液体に浸かったような温かさがそこにはあった。
ずっとここに居たいと思う。私は一郎の胸に添わせた手に、力を込めた。
「一郎、死んじゃ嫌よ」
彼は答えなかった。少し、抱き寄せる腕がキツくなった気がした。
「ミノ子ちゃん」、と一郎は小さく呼んだ。「あんたの話を聞いて、ちょっとおかしなことを考えたんだ」
「おかしなこと?」
「あんたが地球外生命体で、元は姿形のない思念体だって話しが、最近妙に俺の中で深まってきてな……あんたら種族は、人間の遠い未来、将来の姿のように思えてきたよ」
私は目を閉じて彼の声を聞いた。
「俺たちの痛めつけた地球は、そのうち耐えられなくなって破滅し、人類は見かけを捨てて宇宙に旅立つ。霧みてーな思念体が本体なら、入れもんが蝕まれてもどうってことねーだろうなあ」
そう呟いたきり、一郎はもう喋らなかった。
「一郎……?」
急に死んでしまったみたいな気がして、顔を覗く。一郎は口を閉じて、健やかな呼吸で眠っていた。
「なんだ。眠っただけなのね」
彼の顔をこんなに間近で見れることも、そうあるもんじゃない。私は枕を隣に並べて、一郎の寝顔を見つめた。
「ああ……一郎、なんて可愛いのかしら。ううん、そんな言葉だけじゃ言い表せない。いっそのこと、飲み込んでしまいたい」
私はひたすらに見つめた。飽きるということがなかった。彼が寝返りを打って反対を向いてしまうと、そっちに回り込んで見つめた。
そうして見つめて、見つめて……ずぅーーーっと絶え間なく見つめて……
チュンチュン。
「おわっ」
朝になった。朝陽の射し始めた頃、一郎はうっすら目を開き、とんでもないものを見たような汚い声で起床した。
「なんだ……ミノ子ちゃんか。もしかしてずっと起きてたのか?」
「一郎を見てたの。髭が生えてくるのが分かりそうなくらい見たわ。歯ぎしりはちょっとうるさかったけど……あれ、どうやってるの? 真似しようとしてもできないのよ」
「俺にもよく分からん」
服の中に手を入れて、お腹を掻きながら一郎は立ち上がる。
「ミノ子ちゃん寝なよ。朝飯の準備はいいからさ」
そんなわけには……! 喉まで出かかったけど、そんな気力はどこにもなくて、意識が睡魔に呑まれていく。出て行く一郎の影が床に落っこちて、彼の後を追って一緒に居なくなる。私は目を閉じて眠った。
起きた時には、昼もとうに過ぎていて、家の中に一郎の姿がなかった。
「一郎、どこに行ったのかしら……。引きこもりじゃなかったのね」
少し気がかりだったけど、私はいつものように家事をして過ごした。
洗濯ものを干しているときに、一郎はぶらりと庭に現れた。
「一郎!」
彼は大きな紙袋を手に下げていた。
スタスタと庭を横切って縁側に腰を下ろし、紙袋を横に置く。
「どこ行ってたの? 買い物?」
紙袋にちらりと目をやる。質問には答えず、一郎はなぜか仏頂面で唐突に言った。
「俺の余命は、一年って言われてたんだ。医者にそう宣告されてから、今日で一年と一ヶ月が経った」
急になんでこんなことを言い出すんだろう。思ったけれど口には出さず、私は濡れた洗濯物を持ったまま、大人しく話を聞いた。
「ちょうどな、ミノ子ちゃんが庭に転がってた日が、宣告によると俺の死亡予定日だったわけだ。でもまだ生きてる。それで……あー……。この一ヶ月はもしかすると、ミノ子ちゃんのくれたプレゼントかと、ちょっとガラにもなくメルヘンなことを思ってだな……」
歯切れの悪い台詞は、中途半端に途絶えて消える。私は話しの続きを待った。
でも続きはなく、「まあ、そういうことだ」と締めくくり、一郎は紙袋を置いて部屋に引っ込んで行った。
「なにかしら」
私は置き去りの紙袋に近づき、上から中身を覗いてみた。ふわりといい香りがする。花束だった。
「わあ……綺麗」
花束を取り出してみる。奥にもまだ何か入っていた。丁寧に包装された包みだ。それも出してみると、洋服だった。ギンガムチェック柄のワンピース。私はしばらくの間、ちょっと惚けてその服を見ていた。そうしていると、胸の奥底が騒ぎ出すようになって、いきなりうんと嬉しくなってしまって、その服を抱きしめて叫んだ。
「一郎ー!! 大好き! ありがとおー!! 毎日着るわッ!」
部屋の奥から返事はなかった。きっとどこかに隠れて、照れているんだろうと思った。その姿があんまり簡単に想像できてしまうから、私は可笑しくなって幸せになった。
それから間もなくして、一郎は死んだ。
『俺が死んだら、どうするの』
あの夜の問いかけが、一人きりの部屋を長く反響していく。一郎のいない家。想像していたよりも、ずっと濃密な沈黙の中で、ピシピシ……心に亀裂が入り、無尽に枝分かれして伸びていくのを感じた。
私は胸を抑えて、小さく呟いた。
「やだ……はやく新しい寄生宿、みつけないと」
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