走れアイ
「いやあ、しかし、最近暖かくなってきましたねえ」
と豚が言った。
ずずずっとコーヒーをすする。
「そうだね。よく服が乾くようになってきた」
とアイはビスケットをひとつまみ。
椅子の背に腕を回して、背景の遠くを眺めた。
昼の陽光に山脈がきらきらと緑に輝く。
「私にとってはね、草が増えてありがたいよ」
「そうだよね。春はいいねえ。楽しいことも増えるんだ。蝶々を追いかけたり……追いかけ……おい……お……おお、おいかけ……ん? ん? ……ああ!」
アイが思い出して椅子から飛び上がったとき、豚はとっくに向こうへ走り去っていた。
(V´・(oo)・`V)
「で、ここのXに、〈式①〉ででた解を代入します」
アイは、ノートを見て自分がなぜ解けなかったのかを理解した。
手を上げて、先生に質問をした。
「図から解く方法はありますか?」
「あ、アイくん、いい質問だね。じゃあせっかくだからグラフで今度はこの問題を解いてみよう」
と、豚は赤チョークを置いて、指についた粉をたたいて落とすと、白チョークを指の間に挟んで、
「まず〈式①〉をグラフにすると……アイくん。どうなる?」
「直線で書けます! 書ける……かけ……かける……か……かける……ん? ……かける……追いかけ……る。……は!」
アイは気がついた。
慌てて追いかけようと立ち上がった時には、豚は黒板を倒して向こうへ走り去っていた。
(▽❍(oo)❍▽)
「そんな、緊張しなくてもさ……楽に楽に」
キヨミズさんが襟を正してやりながら言う。
「そ……そうだよな」
タキシード姿の豚は体がカチコチで、視線もギクシャクとしている。
今日は人生でいちばんの晴れ舞台なのだ。
「じゃ、じゃあ行ってくるよ」
扉を開けて中に入った。
拍手に包まれる中、ヴァージンロードを一歩、一歩と歩く。
その先には神父が待っている。
次は、新婦の登場。
扉が開くと、おじいさんと腕を組んだクァシンが入ってきた。
会場にパッと華が咲き乱れ、幸せの匂いに包まれた。
クァシンが到着し、神父が誓いの言葉を読む。
そしていよいよ、誓いのキスが……
「ちょっと待った!」
音を立てて開いた扉。
逆光に力強く立つ人影。
そこに立っていたのはアイだった。
「その結婚、僕は許さない!」
「逃げろ!」
そう叫ぶと豚は、クァシンも誰もかも全てを置いて逃げ去った。
「卑怯だぞー!」
とアイは叫んだが、壁にあいた豚形の穴の向こうに、小さくなってゆく豚が見えるばかり。
目を閉じて横たわったクァシンを抱きしめて、
「誰かー。誰かー助けてくださーい!」
「アイ。アイ」
声をかけたのは目を閉じたままのクァシンだった。
「どうしたの? クァシン」
「追いかけないと」
「あ!」
アイが思い出した時、豚はもう見えないほど遠くへ行っていた。
(▽-(00)-▽)♡
一体何があったかと言うと、こうである。
農場から豚が逃げた。
まあ普段ならそれだけで別に大したことはない。けれど、今夜ばかりはそうじゃない。
今夜は「ワルワルプルギスの夜」という祭りの日なのだ。
毎年「ワルワルプルギスの夜」には、村のみんなで豚を食べることに決まっている。
——この國の辻には神が住まう。民俗学者シヌォーブの説でいう〈辻神信仰〉である。古くワールドザワールドの国民はモノとモノの境目を魔境と捉える文化があって、季節の境目にも神が住みと考えた。そして荒ぶる神を沈めるため祓いを儀式として始めたのが「ワルワルプルギスの夜」
昔は神に豚を供えていた祓いの儀式も、今では祭りとなり、みんなで豚を食べるイベントになった。
ことほどさように、
みんながこの日を楽しみにしている。
村では、蝋燭に照らされたオレンジ色の顔した子どもたちが、フォークを片手にお腹を空かせているだろう。
そういう理由で、アイは、日が暮れるまでには絶対に、柵を壊して逃げたこの豚を捕まえなくてはならなかった。
アイはパタパタと土の上に小さい足跡をつけて進んだ。
。゚(゚´(00)`゚)゚。
豚は丸い体をはずませて、鼻息を爆発させて、無我夢中で逃げている。
まだアイは遠くで小さい点に見える。
さっと木の影に隠れたかと思うと、そこから舞台を引っ張り出してきて、草はらの真ん中にどでんと設えた。
次に草むらからベンチをいくつも見つけてくるとそれを並べた。
豚は舞台に立った。
ようやく追いついたアイは、大人しくちょこなんとベンチに座る。
「続きましては〜、人体切断マジック〜!! 誰か観客の中から一人、お手伝いが必要なんですが……そこにいる少年、そう元気よく手を上げている君だよ、君、こっちへ来たまえ」
アイは舞台に上がった。
「とてもワクワクします」
と言った。
「そうだろうね。まず、この台の上に寝転んでくれるかな」
「はい!」
「そして、その上から、この魔法の布をかけます」
「どうなるの? 僕は何をすればいいのかな?」
「何にもしなくていいよ。そのまま寝転んでくれればいいからねー」
「布をかけた次は何を……布を、かける……かけ……かける……あぁ、追いかけないと!」
アイは宙返りをしてそのまま豚の上に乗っかった。
が、豚はするりと抜けて逃げる。
ハリボテの舞台は音を立てて崩れた。
豚は逃げる。アイは追いかける。
豚とアイは、一定の距離を保ったまま丘の上を走って、草原を走って、川を飛び越えた。
太陽がいよいよ地平線に半分身を隠した。山の奥からはとっくに夕暮れが空を覆っている。
いよいよ終わりも見えてきた。
アイは、とうとう東の山の麓まで豚を追いつめた。
豚は山の裾で立ち止まった。
「あきらめたの?」
アイが言うと、豚はふりかえって首をふった。アイの方をただ真顔でじっと見つめている。
「ずいぶん手こずったよ。いろんな方法で僕を騙したね」
ずいぶんの時間を地面ばかり見ていた豚は、ついにその濁った目を上げて、アイを睨んだ。
アイは驚いた。豚がこんな目をするのを初めてみたのだ。それは気力と、精力にみなぎった、芯のある目玉だった。ぎらぎらと妖怪石のように光った。
「いままで僕たちは、君たちを食べていたんだね。そうだね、逃げるのも、当然だよ。けれど……」
と言いながら、アイはもう心が折れそうだった。なぜ豚は食べられ、人間は食べられないのか。自分のどこにその権利があるのだろうか、豚の目線から伝わる自然の残酷な音楽に、次々疑問が湧いた。
するとある変化が起こった。
野生化し、自分が自由であることに気を大きくした豚は、その気分そのままに、みるみる体も大きくしたのだ。
みしみし音をたてて体を肥大化させてゆく。
大きな涎の滴を地面に垂らす。
アイは茫然として、成長する豚を見上げた。とてつもない、獣の匂いが漂ってきた。……生理的に鼻が蓋を閉じる。
山のように大きくなった豚は、太い毛の生える鼻の先を、アイに近づけブフッと一息、彼を吹き飛ばした。
そして尖った口からくぐもった恐ろしい音を出しながら、腹を抱えて笑った。
ミシミシと豚の体から、太い毛が生えてくるのだった。
アイは宙を舞い、落下した。
土のクッションに一命を取り留める。
横たわったままアイが目を開けると、さっき走ってできたばかりの、豚とアイの足跡が目の前にあった。
そこへ丁度クァシンがやってきた。
彼はアイに手を差し出し、起き上がる手伝いをした。
そして、
「アイ、もう大丈夫さ。みんなを連れてきたよ」
クァシンの背後から七人の男が現れた。それぞれ槍やら弓で武装した、屈強な村男たちである。全員の視線は、大きくなった豚に集中していた。
「ありがとう、クァシン」
アイは立ち上がり、村男たちの横に並ぶと、再び豚に立ち向かうことを決めた。
豚は鼻息に鼻汁を乗せて撒き散らし、抗戦的に足を踏み鳴らしていた。
「やっ!」
「それ!」
掛け声とともに、アイと村男たちは豚へと飛びかかったのであった。
混戦の末、日が沈むと同時に豚も地面に倒れ込んだ。
体はさっきの豚のように小さくなり、性格も元の貧弱でひ弱で卑屈なものに戻った。
「まったく」と村男の一人が豚に言った。「お前があと十年生ここで生きたとして、何をするつもりだったんだ」
彼は豚をぶった。
豚は答えた。
「確かに、これといってすることはないブヒ。そうか、じゃあ今食べられても、十年後に食べられても、一緒だったんだブヒ。長き生きすると、その分、その日暮らしの苦しみが増えるだけブヒね」
「家畜に自由なんて、豚に真珠さ」と村男たちは笑った。
村男たちは豚を曳いて帰った。村では子どもたちが祭壇を飾って待っているだろう。
後に残ったアイは、クァシンが渡したタオルで汗をふいた。
「アイだって、やることはないけどね」
「何の話?」とクァシンは聞いた。
アイは豚の話と答えた。
豚は、人生を生きても、するべきことがないからと、納得して帰ったのだ。
「アイにも、別に、するべきことなんてない。毎日、アイは何となく生きているよ」
「するべきことか。そんなの、みんなないよ」とクァシンは言った。「あると思っている人はいるけど」
二人の歩調が重なる。
ばさばさと草を踏む二人の白い脚のすねが、月の光に照らされる。
「ねえ、クァシン。豚って野生化すると大きくなるんだね」
「僕も知らなかったよ」クァシンは笑った。
「人間が野生化するとどうなるんだろうね」
「うーん」クァシンは考えた。そして「きっと毛むくじゃらになって、背中も曲がって、妄想の話ばかりを語るようになって、悲しく暮らすようになるんじゃないかな」
「それだけ? 大きくならないの」
「たぶん。大きくはならない」
「じゃあいいや」
すっかり暗くなった夜道に、二人は点々と輝いていた。
そのさきの村の公会堂も爛々と輝いていた。
月は二人の光が、村の光に合流するのを見届けてから目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます