第64話 旅立ち 【1/6】

『リア、起きたか』


 それはシャハボの声。


「良かった。カナリアさん、お気分は大丈夫ですか?」


 続けて聞こえた声は、透き通るような女性のものであった。


 カナリアが目を覚ました所は、手狭な小部屋。

 見回すまでも無く、そこがイザックの私邸だとカナリアは理解する。


 ベッドから上体を起こした彼女の膝に、シャハボはすぐに舞い降りていた。

 カナリアはそれを一撫でし、心の栄養を補給した後でもう一つの声の主に目を向ける。


 そこに居たのは、ウサノーヴァによく似た男装をした若い長身の女性。

 年はウサノーヴァよりは少し年上だろうがそれでも十分に若々しく、何よりも体つきが全く違う。

 とても女性らしい体型は、カナリアとは真逆で出る所と出ない所がはっきりしており、ドレスシャツとズボンのどちらも部分的にきつそうですらある。

 髪の色は赤みの入った黒で、背中の中ほどまである髪を無造作に縛るだけに済ませている。

 美人であるのは疑いようが無い。しかし、一番の特徴はその笑顔であった。


「はい、あなたの石板です。どうぞ仰って下さい」


 丁寧な口ぶりはカナリアのよく知る人とは全く違う。けれども、その顔はここ二カ月の間、毎日見ていた顔に瓜二つ。

 手渡された石板を持ったカナリアは、正体不明のその相手に向けて思い当たった答えを見せつける。


【イザック?】


「ええ、私です。

 いえ、正確には、イザックであったもの。と言うべきでしょうか」


 そう言った女性は、カナリアに対して恭しく頭を下げていた。

 頭を上げて優しく微笑んでいるその姿には、全くもってイザックの面影はない。

 顔だけを見れば完全にキーロプのそれではあったのだが、その笑顔は柔らかく、裏の無い優しさが垣間見える。


「驚かれていますか?」


 小首をかしげる仕草からは、それが元々が男性だとは到底思えない、女性らしささえ漏れていた。

 小さく頷いたカナリアに対して、イザックだった女性はこう言った。


「カナリアさん。私の命を救って頂いた事に関して、感謝致します。

 姿形は変わったにせよ、このような形で生き長らえるとは思ってもいませんでした」


【そう、良かった】


 その変貌ぶりにもかかわらず、カナリアの返事は素っ気ない。

 返した後にベッドを降りたカナリアは、他の事に気付いて動きを止めていた。


 今着ている服は女物の可愛らしい寝間着であった。

 それは明らかに自分の物では無い。

 その可愛らしさは、明らかに質素を好むシャハボの趣味に合わない。


 それから湧き上がる、複数の疑問。


 この服は誰の物?

 いや、その前に、私はどうしてここにいるの?

 血まみれになって戦っていたのではないの?

 あの後私はどうした……?


 疑問と困惑が珍しく表情に出ていたのか、それに答えたのはイザックであった。


「ここは私の私邸です。気絶したカナリアさんを私がここまで運んで来たのです。

 血と泥にまみれてあまりにも汚れがひどかったので、僭越ながらお体の方は私が洗わせて頂きました。

 今や私もですからね、気兼ねなくお世話の方をさせて頂きましたよ」


 そう言ったイザックは、シャハボに目配せをする。


『俺が許可した。俺だけだと出来ないからな』


 憮然とした声でそう答えたシャハボに、イザックは会釈した後で言葉を続けていく。


「今着ているカナリアさんの服は、商会から取って来たものです。

 ええ、私から見てもとても可愛らしいですよ」


 服装こそ男装ではあったが、微笑みを向けてくるその姿は確実に一人の女性であった。

 流石のカナリアとて、本当に元がイザックだったのかと疑問を浮かべたくなるぐらいに。


「ええ。ああ、そういう事ですか」


 何も石板を見ずにイザックはそう言った。


「あの戦いから、今日で丁度三日ほど経っています。

 カナリアさんがずっとお休みになられている間に、幾分私も慣らしたのですよ。

 記憶にある姿を真似しているに過ぎませんが、少しは女らしく振舞えているでしょうか?」


 カナリアは頷く。


「それは良かった。

 長く寝ていた事ですし、お腹が空いた事でしょう。すぐにお食事を用意いたします。

 お話は食べながら致しますよ」


 カナリアに確認を取った後、シャハボにまでしっかりと確認する如才の無さは、確実にイザックのそれであった。



* * * * * * * * * *



「さぁ、お食べ下さい。乾いた体にはこれが一番です」


 いつもの服に着替えてテーブルの上に着いたカナリアの前に出されたのは、飽き飽きするぐらいに毎日食べされられた麦粥と豆のスープであった。

 辛みのパンジョンは、テーブルの上に出されていない。


「体が欲する時は余計な味など無くても食べられるものです。騙されたと思ってそのまま食べて下さい」


 イザックの勧めでカナリアは何も付けずに麦粥を口にする。

 続けて相変わらず薄いスープも一口。


 確かに食べられる。しかし、味気が無いのは変わりない。


「食べられるでしょう? こんな時には口にする事さえ出来ればそれで十分なのですよ」


 イザックの答えに渋い顔をしたカナリアではあるが、妙な事に手は止まらなかった。

 美味しくはないが、体は求めたと言う事なのか。そんな感想を、いつの間にか出されたもの全てを食べきっていたカナリアは持つ。


 イザックは、空になっているカナリアのマグに新しく水を注ぎ入れながらこう言った。


「良い食べっぷりでしたね。長くお休みになられていたので心配だったのですが、シャハボさんの言う通りでした」


『リアは起きて食べたら元気になると言っただけだ』


 イザックの後に続けられたシャハボの口ぶりは、あまり機嫌が良くはなさそうであった。

 何かを察したのか、カナリアは手招きしてシャハボを手元に寄せ、しっかりと金属の肌を撫でる。


「さて、お食べになられた所で、まずどこからお話しましょうか?」


 カナリアがシャハボを十分に撫でるのを待ってから、イザックはカナリアにそう尋ねた。

 カナリアの返答は単純に【全部】とだけ。

 頷いたイザックは静かに話をし始める。


「ええ、であれば、私が気付いた所からでしょうか。

 何と言えばいいのか、私は不思議な所に居た事を覚えています。

 目ではない何かで物を見て、凄く暖かな気持ちになりました。

 言葉ではとても言いようのない感覚を覚えた直後ですか、私の視界が唐突に戻りました。

 その時に見たのは、カナリアさんの笑顔でした」


 カナリアは、それが《転生進化エボリュション・レインカネ》が完成した時だと理解していた。


「直後にカナリアさんが倒れられたので、私は慌ててしまいましたよ。

 どう助けようかと考えていた所で、石板を持って飛んで来たシャハボさんに指示されて、ここに連れて来たのです。

 ちなみに、その時はまさか私がこんな体になっているとは思いもよりませんでした」


『俺が真っ裸だから服を拾えと言った後の、お前の狼狽え様はなかなか見者だったぞ』


「ああ、シャハボさん。それは言わないで下さい!

 繭の中に人隠しの魔道具が残っていたとはいえ、それがあっても夜陰に紛れることが出来なければ恥で死ぬところでしたよ」


 少し顔を赤らめながら、両手を振って恥ずかしさを表現するイザックの仕草はいちいち女性じみている。


「まぁ、そんな事でここに戻って来てからは……まぁ、色々大変でした。

 いえ、今も現在進行形で大変ですが。用を足す時とかは特に……」


 赤かったのも束の間、今度は顔を青くした彼女は小さくなる声量と共に俯いていった。

 一時の間を置いて、彼は、いや、彼女は、その容姿に見合った綺麗な女性の声のまま言葉を続けていく。


「幻ではないかと何度も鏡で確認しました。

 昨日までは年老いた男であったはずなのに、今の私はうら若き女性です。

 それに……」


 再度言葉を詰めた彼女は、自らの両手を見た後で顔を触る。


「私にはわかります。

 この体はモエット様を模した姿なのですね。

 今わの際に浮かんだその姿に私が成り代わるとは、最初は信じられませんでしたよ。

 命を賭した策の代償がこれなのかと、しばらくは笑う事すら出来ませんでした」


 再び顔を上げたその顔からは、笑顔が消えていた。

 元のそれとは全く違う顔立ちの中に、どことなく誰かの面影が重なっている。


「カナリアさんが寝ている間に、私は魔道具で再び身を隠して商会に行き、カナリアさんの服や役に立つ物を取ってきました。

 カナリアさんが寝ている間に、色々とお世話をさせて頂きました。

 カナリアさんが寝ている間に、私は色々と考えました。

 ええ、あったのはそれだけです」


 繰り返えされた言葉は同じで、特段の意味はない。しかし、そこにイザックは、彼が彼女に変容していこうとする自身の複雑な思いを込めていた。


 本来はキーロプの親であるモエットにそっくりと言うべきなのだろう。

 しかし、カナリアにとってその顔はキーロプにそっくりであった。


 唯一、目の奥にある光だけが中身が変わらない事をカナリアに伝える。


【そう】


 そんな彼女に返すカナリアの言葉は、やはり淡々としたものであった。


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