実際、その噂はたっている。

 少し前から、業務の引き継ぎを意識したような行動がたびたび見受けられるのだという。自身の関わったプロジェクトのドキュメントを整理したり、社の内外の関係者同士を引きあわせたり。より踏み込んだ先輩社員は、千田の慰留も後釜代わりとして見込んでのことではないかと勘ぐる。自分のような新人が短期間で千尋の後継者になりうるかはべつとして、退職の埋めあわせの意味なら、引き止めに動いたのも筋道は通る、のだろうか。さすがに買いかぶりすぎだ。


 同い年ぐらいの女の子が運んできた唐揚げを千田はぺこりと受け取る。この時間の店員は学生ばかりのようだ。

 スマートフォンを操作する千尋におうかがいをたてレモンをしぼる。唐揚げへのレモンはネットでよくネタにされるが、こんなささいなことの積み重なりで社内での立ち位置は左右される、バカバカしいけれどバカにできない、と彼女から教えられた――言いつつ、確固たる地位を築いている千尋は、傍若無人に無言でかけるのだが。ついでにいうと、職場の飲みも実は基本的に参加しないらしい。説得力とは。


 メールの返信でも書いているのか。千尋は高速で画面をなぞっている。五つあった唐揚げのふたつ目を千田が食べてもまだ彼女は手をつけない。まさか辞表でも。この場でわざわざ書きはしないだろうが、退職について少し探りを入れてみたい。

 先輩、と声をかけると千尋は顔を上げ、千田と唐揚げの皿を見やった。


「あ、もうひとつ食べていいよ」ふたつは残してね、と彼女は再び手もとに目を落とす。

「そうじゃなくて……」さして客の多くもない店内にかき消されて、ただ口をもごもご動かした。


 もの言いたげな千田の視線を知ってか知らずか、千尋は端末を舞台に長い指でダンスを舞い、礼を述べる。


「ありがとね。千田くんが紹介してくれた人、ほしい情報、あらかた持ってる勢い」


 すごく助かる、と指先を軽やかにステップさせる先輩に、千田は、はあ、と気のない返事で三つ目の唐揚げを口へ運ぶ。

 この前――五月ぐらいだったか、彼女に教えた人物とやり取りをしているのだろうか。このからっとジューシーに揚がった人気メニューを食べる間も惜しんで。


 千田が復帰して二、三週間ほど過ぎたころだ。千尋から、八〇年代のIT技術に詳しい人物を知らないかと問われたことがあった。MS-DOSやパソコン通信などの時代はさすがの千尋もじゅうぶんにカバーしておらず、つてを探しているのだという。

 該当する知りあいを頭の中のインデックスを参照して、おあつらえ向きの人間がひとりヒットした。学生のときのバイト先にいた、読みは違うが自分と同じ名字の社員だ。型番を言えばたいていの機種やパーツはどのメーカーのあれだこれだと即答する、まさに生き字引のような中年男だった。ソフトウェア面も強く、職場では重宝されていた。

 特に親しかったわけではないので連絡先を知らず、店舗まで出向いて事情を話すと、無愛想ながらふたつ返事で応じてくれた。以後、千尋はいろいろと頼っているらしい。


 懸命といえるぐらいに端末操作にふける先輩社員を見やりつつ、好みでもない麦酒をちろちろすする。

 八〇年代のPC情報。なぜそんなものを要するのだろう。千田が問うても彼女は、ちょっと必要があってね、と言葉を濁す。くだらない想像が、千田の脳内メモリーに展開され、逐次CPUが処理してゆく。


 立花千尋には浮ついた話を聞かない。プログラミング言語と結婚しているとの揶揄さえ聞いたことのある、血管には0と1のビット単位の情報だけが流れていても驚かない、根っからのプログラマーだ。その彼女のハードウェアにも――これは驚くべきことに――生物としての本能がインストールされているのだとしたら。

 千田の、ハード面でもソフト面でも一定以上の性能スペックを自負する脳が、愚にもつかない演算を継続する。


 三十路を迎えたらしいと聞きおよぶ彼女が、結婚願望や年齢的なあせりから相手を探す、しかし自身の要件を満たす男でなければならない、その特異なパーソナリティーならではの特異な検索サーチ手法――いやいや「彼」は彼女よりもだいぶ歳がいっている――しかしながら千田の明晰な頭脳には、冗談めかしではあったが自身を『枯れ専』と称する彼女の発言履歴が残っている――飛躍に次ぐ飛躍――果たして、男は相手がいくら年下でもかまわないように、女はどれほど相手が年上でも気にしないものなのか。それは千田自身にとってで――


「あーっ、千田くん!」

「えっ?」


 唐突な叱責に千田はびくりと硬直した。

 馬鹿馬鹿しい推量がハッキングで盗み見られたような気がして、背筋が伸びる。

 わざとらしく眉をつり上げて立花千尋は後輩をどやしつけた。「唐揚げ!」


 五つ目をごくんと飲み込んで千田は、ひとことだけ「あ……」と漏らした。



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